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9-5 コメントアウトの祈り(継承される自由)

 ネロの魂の最深部。


 そこは、静寂と狂気が隣り合わせに存在する、魔導の極致とも言える領域だった。


 俺の解析眼は、その中心部を幾重にも取り囲む不可解な領域を捉えた。


 それは一見すると、複雑怪奇に絡み合った、理解を拒むような迷宮の魔導式であった。


 通常の魔導師が見れば、あまりの冗長さに頭を抱え、出来損ないの術式だと断じたことだろう。


 しかし、その迷宮を構造として俯瞰したルシは、その真意を直感した。


 それは、外敵から中身を隠すためのものではない。


 中に閉じ込められた何かを、外側の悪意ある干渉から守るために、気の遠くなるような年月をかけて編み込まれた、慈愛のまゆなのだ。


 繭の表面には、かつてこの少年の基礎を組み上げた、太古の魔導師の思念が刻まれていた。


『――この子に、光ある世界での自由を』


『そして、いつの日か真にこの子を修復し、救い出す者に、全ての権限を託す』


 それは命令ではなく、時代を超えて届いた切実な祈りだった。


 ルシがその言葉に触れた瞬間、視界を焼き尽くさんばかりの純白の光が溢れ出した。


 ◆


 一方、現実の世界では、王都を蹂躙していた銀色の光刃が唐突にその動きを止めていた。


 時計塔の頂で、腕を掲げたまま硬直したネロを囲み、メギストスたちは期待と困惑の混じった視線を交わす。


『……ルシが止めたのか? 成功したというのか?』


 メギストスの念話に、バナードが険しい声で応じる。


『いや、止めたにしては様子が変だ。 殺気が消えていない。

 何とか無理やり、その場で抑え込んでいるような……危うい静止だ』


『言われてみれば、あの子……こちらに光を放とうと手を差し出した姿勢のまま、固まっていますわね』


 アイリスが剣を構え直しながら呟く。


 静寂が支配する障壁の中で、唯一その空気を読めない男がいた。


「何を黙っているのだ、貴様ら! 今こそ、あの隙だらけの木偶人形を破壊する好機だろう! 救世主になりたくないのなら、かわりに私が引導を渡して――」


 シグルドが腰の剣に手をかけようとしたその時、彼の足元に激しい雷鳴と共に青白い雷撃が落ちた。


「な、なっ……!?」


 悲鳴を上げて飛び退くシグルド。


 雷撃が放たれた方向を見れば、そこには鬼の形相をしたリーフが立っていた。


 紺碧の瞳から火花を散らし、彼女は地を這うような低い声で言い放つ。


「それ以上、その汚い口を開くな……さもなくば、次は心臓を消し飛ばす」


 世界樹の守護者としての本能を剥き出しにしたあまりに凄まじい気迫に、シグルドは腰を抜かし、その場で失禁した。


 彼はがちがちと歯を鳴らしながら、それ以上一言も発することができなくなった。


 ◆


 精神世界の最深部。


 ルシが太古の祈りに触れた瞬間、ネロを縛っていた守護の繭は、まるで花が開くように静かに解けていった。


 その奥底に隠されていたのは、少年の魂を蝕み続けていた強制破壊命令の核であった。


 ルシは迷うことなくその禍々しい魔導式を消去し、代わりに自分自身の意思で立ち、歩くための、新しい自律の旋律を書き込んでいった。


『リーフ! 聞こえるか!』


 ルシは現実世界のリーフへ同期をかける。


『ネロを縛っていた呪いの核を見つけた。

 今から、あの子を自由に動かせるよう術式を書き換える。

 その瞬間に、胸に刻まれている物理的な刻印魔法を外側から破壊してくれ!』


『わかったわ、ルシ! あの子が凍りついたように止まっている今がチャンスね!』


『頼む。 多少荒っぽくても構わない、あの子の傷は、俺の天使の祝福ですぐに消せる。

 ……カウントを開始するぞ。 三十、二十九、二十八……』


 リーフはルシの数え上げる声に合わせ、ネロへと肉薄する。


 その光景を見たシグルドが、恐怖を押し殺してまたしても野次を飛ばそうとした。


「やっと、その気になったか! 初めからそうして――」


「――貴様は黙っておれ」


 バナードの容赦ない鉄拳がシグルドの側頭部にめり込み、その言葉を強制的に黙らせた。


 その間に、リーフはネロの衣服を裂き、その小さな胸に赤黒く疼く呪いの刻印を露わにする。


『十、九、八……』


 リーフにとって、その残り数秒は永遠にも等しい時間に感じられた。


『三、二、一……今!』


 叫びと共に、リーフはネロの胸元へゼロ距離から雷撃を撃ち込んだ。


 肉の焼ける嫌な臭いが立ち込めるが、彼女の手は止まらなかった。


 ◆


起動ブートアップ!」


 ルシが叫ぶと同時に、深層世界に新たな命の旋律が響き渡った。


 どこからか、祝福を告げる追奏曲カノンのような調べが聞こえてくる。


 光の渦の中から、一人の少年が姿を現した。


 銀色の髪を揺らし、その瞳には柔らかな知性が宿っている。


「……ルシ兄さん。 ありがとう。 僕、ようやく自由になれたみたいだ」


「そうか……上手くいったんだな」


 ルシは安堵と共に膝をつく。


 ネロは自分自身の手を握りしめ、その感覚を確かめるように微笑んだ。


「うん。 でも……やっぱり、あのシグルドだけは許せそうにないな」


 少年の瞳に、ほんの一瞬だけ冷たい光が宿る。


 ルシは苦笑しながら頷いた。


「その気持ちはよく分かる。 あいつには後で、とびきりの『罰』を与えるつもりだったんだが……」


「それは、どんなもの?」


 ネロが興味深げに身を乗り出す。


 その姿は、まるでいたずら計画を練る兄弟のようであった。


「さて、そろそろ戻らないとな。 君の体に無理をさせたから、早く治してあげないと」


「それなら大丈夫だよ。 僕が本当の自由を手に入れた時、あの刻印はただの汚れになるように作られていたんだ。 もう、痛みはないよ」


「……そうか。 ネロ、もし行く場所がないなら、俺たちのところへ来ないか?」


 ルシの誘いに、ネロは一瞬驚いたように目を見開いたが、やがて顔を輝かせた。


「いいの? ……じゃあ、そうする。 ……なんだか、急に眠くなってきちゃった」


「ああ、ゆっくりお休み」


「おやすみなさい、ルシ兄さん……」


 ◆


 俺が目を開けると、そこには心配そうに覗き込むリーフ、メギストス、バナード、そしてアイリスの顔があった。


 リーフの腕の中には、安らかな寝息を立てる銀髪の少年が抱かれている。


「ただいま、みんな」


 俺の言葉に、リーフは涙を浮かべながら抱きついた。


「もう、遅いのよ! 心配したんだから。 ネロは急に寝ちゃうし、胸の傷は勝手に消えていくし……何があったの?」


「ちょっと、男同士の話をね。 これからの予定とか……あそこに転がっている『失禁男』の処置についてとか」


 俺が指差した先には、恐怖のあまり失神寸前のシグルドがいた。


「処置? 私も混ぜなさいよ、そんな面白そうな話!」


 リーフが身を乗り出し、それに続いて「儂も」「我も」「私も」と師匠たちが悪巧みのような笑みを浮かべて加わっていく。


「さて、残った問題シグルドを片付けるか」


 俺はゆっくりと立ち上がり、腰が抜けてガタガタと震えているシグルドへと歩み寄った。


 その足取りは、極めて静かで、そして冷酷だった。

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