9-0 殺戮の演算(アービター)
王都の象徴、時計塔の頂。
完全なる覚醒を迎えたはずのネロは、虚空に浮かんだまま、死した人形のように俯き、身動き一つしない。
だが、その漆黒の躯体からは、大気を絶えず震わせる高周波の魔力ノイズが漏れ出し、周囲の空間に細かな亀裂を走らせていた。
「――起動したぞ! さあ、私の望みを叶えろ!
忌々しいこの街を、世界を、すべて自爆して塵に還せッ!」
シグルドの狂気に満ちた命令が響く。
本来、その頭部に食い込んでいた隷属の冠は、俺の一撃によって粉砕され、その物理的な機能は喪失しているはずだった。
しかし、冠が放っていた強制命令の残滓は、ネロの魔導神経の深層に焼き付いたまま、消えぬ負の命令として居座っていた。
「がぁ……あ、ぁぁ……ッ!!」
ネロの口から、魂を削るような苦悶の悲鳴が漏れる。
俺は解析眼を血走らせ、更なる演算リソースを投下した。
「……止まれ! 命令の実行を拒絶しろ! 自壊停止コード(アンチ・デストラクト)、最大出力で再展開!」
ルシが放つ琥珀色の光がネロを包み込む。
シグルドが残した自爆という破壊命令と、ルシが上書きしようとする存続という救済コード。
相容れない二つの特権命令が、ネロという単一のシステム内で激しく衝突を起こし、逃げ場を失った膨大な魔力が火花となって散る。
ネロの輪郭が、現実から剥離するように激しく明滅を始めた。
次の瞬間、均衡が崩れた。
「――全方位、排除処理開始」
ネロの瞳から感情が消え、無機質な殺戮の光が宿る。
それは、競合する命令の板挟みになったシステムが、その負荷を逃がすために弾き出したエラーの具現化。
あらゆる存在を、敵味方の区別なく無差別消去する魔導の光刃が、放射状に王都へと振り撒かれた。
シュン、という静かな音と共に、王宮の尖塔が、民家の屋根が、そして堅牢な城壁が、バターを熱したナイフで切るように滑らかに削り取られていく。
破滅の光刃が降り注ぐたび、王都の地図から「存在」という定義が消し飛んだ。
「……っ、そんな! ルシ、ネロはどうなってしまうの!?」
リーフの悲痛な問いが、同期した意識を通じて脳内に直接響く。
俺は溢れ出す脂汗を拭う余裕もなく、解析画面を凝視した。
「……シグルドの『隷属の冠』が遺した呪いと、俺の停止コードが衝突し、システムが防衛本能で暴走を始めたんだ。
奴は今、自律裁定モード(アービター)を強制起動している!」
「アービター……? 裁定者というの!?」
「ああ。 だが、今のアイツには『裁く基準』がない。
ただ不都合な外部入力をすべて物理消去し続けるだけの、破壊の権化だ。
このままでは大陸全土を、いや世界を構成する全リソースを食い尽くすまで、あの光刃は止まらない魔神になるぞ」
その絶望的な予測に、背後で防御陣を支えるメギストス師父が眉をひそめた。
「……何という事だ。
設計書に、この暴走を食い止めるための非常停止の手順は記されておらなんだのか?」
「それは……」
ルシが答えに詰まったその時、これまで呆然と空を見上げていたシグルドが、突然、腹の底から湧き上がるような笑い声を上げた。
「――フハハハハハ! 世界を壊す魔神か! 願ってもない、最高のご褒美だ!
元々この王都も、私という才能を認めないこの世界も、不要だったのだ!
最後に笑うのは私だ、ルシ!」
シグルドは血走った眼で、空中に舞うネロを指差す。
「黙っていても、ネロは私が望んだ『世界の物理破壊』を実行してくれる。
この破壊が終わった後の新世界において、唯一の主となるのは、この私だ! フハハハハハ!」
「……それまで生き残っていられればの話だがな、シグルド」
メギストス師父の冷徹な声が、狂った笑い声を遮った。
「見ろ。 あれはもはや、主を識別する知性すら失っている。
貴様という存在すら、ノイズとして排除される対象に過ぎんぞ」
その言葉を証明するように、ネロの手から放たれた一筋の光刃が、大気を切り裂きながらシグルドへと飛来した。
「な、何を……っ、未だ冠の効果は残っているはずだ!
ならば私の命令も聞くはずだ!
おい、この木偶人形め、私を――うおっ!?」
シグルドが悲鳴を上げて地面に転がる。
光刃は彼の頬を僅かに掠め、背後の石造りの建物を消滅させた。
「……悪運だけは、神業に良いみたいだわね、シグルド!」
アイリスが吐き捨てるように悪態をつく。
その傍らでは、バナード師匠が嘲笑うように拳を握った。
「脳無しのわりには、能書きを垂れる口だけは回るようだな。
運良く攻撃をかわし続けるのが、貴様の唯一のスキルか?」
メギストス師父が展開した古代魔法の多重防御壁内には、師父、バナード、アイリスの三人が、押し寄せる光の嵐を凌いでいる姿が見える。
彼らの実力なら、当面はこの暴走の余波に耐えうるだろう。
「……任せたぞ」
俺はシグルドの醜態を視界から排除した。
今の彼に、狂人と問答をしている時間など一ミリ秒も残されていない。
ルシは琥珀色の瞳を極限まで発光させ、ネロという悲鳴を上げる少年の内部へと、解析眼をフル稼働させてダイブした。
暴走する裁定者の深層に隠された、真のアクセスポイントを見つけ出すために。
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