1-6 排除:招かれざる客と、摩擦係数ゼロの領域(フリクション・レス)
翌日、潮風が心地よい午後の『潮風亭』には、およそこの町の空気にはそぐわない招かれざる客が居座っていた。
金糸の刺繍も虚しく薄汚れた外套を羽織った男と、その腰巾着のような部下たち。
自称・銀鱗の港町エリュシオンの領主を名乗るゴロツキ役人の一行、総勢五名だ。
「いいか、これは正当な権利だ! 滞納している数年分の税を即刻支払え。
責任者を出せ!」
リーダー格の男が、脂ぎった手でカウンターを叩く。
その横柄な態度は、静寂を愛するこの店の空気を無残に汚染していた。
カウンターの奥で、マスターが動じることなく、磨いていたグラスを置く。
「……お言葉ですが。 ここはどこの国にも属さぬ自由港です。
貴公らのような、どこの馬の骨とも知れぬ者に払う税など、一マナ・クレジットもありはしませんが」
「貴族に逆らうというのか!? この不潔な酒場ごと取り潰してもいいのだぞ!」
その光景を、カウンターの隅で冷めた蜂蜜酒を啜りながら見ていた俺は、小さく溜息をついた。
マスターの毅然とした態度は好ましい。
だが、ああいう理屈の通じない輩は、言葉で説得するだけ時間の無駄だ。
俺はジョッキを持ったまま、机の下で指先を二度、軽やかに振った。
一振り。
領主たちが腰に下げた剣の物理硬度を、金属から湿った古紙へと書き換える。
二振り。
彼らが立っている半径二メートルの床の摩擦係数を、強制的にゼロへと固定した。
「黙れ! 叩き斬って――」
怒り狂った領主が剣を抜こうとした瞬間、喜劇が始まった。
力を込めて足を踏ん張ったはずの男たちは、氷の上で踊るように足を滑らせ、無様に転倒。
折り重なるように床へ這いつくばる。
慌てて抜こうとした剣は、鞘の中でクシャクシャにひしゃげ、まるで濡れた新聞紙のような無残な姿を晒した。
「な、なんだこれは……! 立てん、立ち上がれんぞ!」
「剣が……俺の愛剣が、紙屑みたいに!?」
泥にまみれた芋虫のように這いずり回り、捨て台詞を吐きながら店を這い出していく一行。
その滑稽な後ろ姿を見送る俺の視線に、琥珀色の瞳が重なった。
リーフだ。
彼女の瞳は、世界樹の深淵を覗くときと同じ解析の色を湛えていた。
魔力の流れを追えば、俺が何をしたかは明白だったのだろう。
彼女はふっと瞳を紺碧に戻すと、何事もなかったかのように新しい蜂蜜酒を差し出した。
「お疲れ様。 ……はい、これは店からのサービスよ」
周りの客たちも、俺が何か目に見えない干渉をしたことに気づいてはいた。
だが、ここでは誰もそれを口にはしない。
過去を聞かない、探らない、関わらない。
それがこの町の美しい不文律だ。
俺はその静寂を愛していた。
だからこそ、それを土足で踏みにじる無頼を許せなかった。
「……ごちそうさま。 少し、夜風に当たってくる」
◆
夜半。
月明かりさえ届かない港の外れ。
俺は飛行魔法で音もなく空を切り、領主が根城にしている古びた館の屋根へと降り立った。
仮面で素顔を隠し、声の周波数と外装を術式で偽装。
影のように、館の内部へと潜入する。
執務室では、昼間の屈辱に顔を歪めた男たちが、酒を煽りながら醜い復讐計画を練っていた。
「あの酒場のマスターめ……。
看板娘を攫って目の前で可愛がってやれば、泣いて金を差し出すだろうよ」
「へへ、あの娘は上珠ですからねぇ。 王都の奴隷商に売れば、税の数倍は稼げる」
その言葉が耳に届いた瞬間、俺の周囲の空気が絶対零度へと凍りついた。
それは、彼自身の生存戦略を超えた、純粋な怒りだった。
「――実行前に、致命的な報復を返してやる」
俺は指先を、地面に向けて鋭く振り下ろした。
「術式、『局所的重力震』」
館の敷地内のみを標的とした、高密度の振動波が大地を突き上げる。
轟音と共に、腐りかけた館の柱が悲鳴を上げ、屋根が崩落した。
瓦礫の山から這い出した領主は、血まみれになりながら、目の前に立つ仮面の少年に絶叫した。
「だ、誰だ貴様は……! 部下たちは、俺の部下たちはどこだ!」
「……もういない。 万象の彼方へ送った」
俺は冷徹な声で告げ、領主の喉元に不可視の刃を突きつけた。
「二度と、この町にちょっかいを出すな。
次に不快な音を立てれば、貴様の存在そのものを消去する。
……わかったら、今すぐこの町から消えろ」
領主は股間を汚しながら、命からがら荒野の方角へと逃げ出していった。
だが、その先にあるのは魔獣が跋扈する不毛の地だ。
護衛も剣も持たぬ人間が、生きて辿り着ける確率は、演算するまでもなく零に等しい。
「……掃除完了だ」
◆
崩壊した館の影で、その一部始終を見届けていた人影があった。
夜風に紺碧の髪をなびかせたリーフは、ルシが飛び去った夜空を見上げ、ふふ、と喉を鳴らした。
「相変わらず、怒るポイントが極端なのだから。
……でも、守ってくれたお礼はしないとね」
彼女はルシの荒っぽいやり方を否定することなく、むしろ誇らしげに目を細める。
彼女がそっと指を鳴らすと、周囲の空間が歪み、彼女の姿は一瞬にして酒場『潮風亭』へと転送された。
静かな銀鱗の港町に、再び平穏な夜が訪れる。
しかし、西の荒野を逃げる役人の悲鳴と、それを見つける魔獣の唸り声が、暗闇の彼方で密かに響いていた。
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