7-5 比翼の絆と、聖域の不協和音
洞窟の空気は、物理的な凍結を超えて、時そのものが停止したかのような静寂に包まれていた。
俺の琥珀色の瞳からは、もはや人間としての光が消え失せ、代わりに世界樹の根源に流れる蒼き星の血液――純粋な魔力光が奔流となって溢れ出していた。
俺は、自らの全能力、全精神、そして血の通った肉体そのものを、岩壁に露出した世界樹の根へと叩きつけた。
「――ダイレクト・リンク。 全回路、強制同期」
脳裏をよぎるのは、五歳のあの日の記憶。
世界樹の一部と化し、心臓の半分を機巧に変え、人としての温もりを失いかけた苦い感触。
だが、今の俺にとって、そんな代償は計算に値しない些末な誤差に過ぎなかった。
いや、リーフという唯一無二の存在を把持できるのであれば、人でなくなることなど、むしろ安い手数料ですらあった。
「ルシ! 待て、まさか禁忌の直結を……!?」
メギストス師父が、裏返った声を上げる。
「それを成せば、お主の魂は世界樹の膨大なログに磨り潰され、二度と『人』の器には戻れぬぞ!」
「――構いません!」
俺は、歯を食いしばり、魂を削りながら吼えた。
「リーフを……俺にとって世界で唯一の大切な人を失うくらいなら、人でなくなっても構わない! 彼女のいない世界に、俺の居場所など最初から無いんだ!」
その悲壮なまでの決意に、メギストスは言葉を失い、ただ口を戦慄かせることしかできなかった。
アイリスはただ黙したまま、祈るようにその光景を瞳に焼き付け、バナード師匠は静かに眼を閉じ、弟子の魂の選択を肯定するように深く頷いていた。
俺の意識は、情報の荒野へと加速する。
俺は、消えゆくリーフの自意識の残滓を捉えると、即興で編み出した絶対不変の魔導式を、彼女の魂の核へと叩き込んだ。
それは、世界で唯一無二の固有識別子を付与し、自分という錨と彼女を強固に紐づける、世界樹の理さえも上書きするプライベート・パッチ。
『リーフ、何があっても離さない。 ……君が消えるなら、俺も一緒に消える。
この絆は、死すらも分断できない決まりだ』
◆
精神の深淵、隔離領域。
リーフは、己の個が霧散し、巨大な無に溶けていく安堵と恐怖の狭間にいた。
だがその時、希薄になった自意識に、冷たくも温かい鎖のような感触がまとわりつくのを覚えた。
鎖はまたたく間に柔らかな抱擁へと変わり、情報の海の中で、見慣れた少年の形を取り始める。
『……ルシ? ルシなの!? どうして……あなたまでここに!?』
リーフの叫びが、情報の波紋となって広がる。
『馬鹿よ、そんなリンクをしたら、あなたは人でなくなってしまう!
それどころか、私と一緒にシステムに飲み込まれて消えてしまうわ!』
その時、俺のどこまでも不器用で、どこまでも真っ直ぐな言葉が、彼女の魂を直接震わせた。
『構わない。 ……俺たちは比翼の鳥だ。
リーフ、君を失うくらいなら、共に消えることを選ぶ。
……俺のいない世界で生きる君を見たくないし、君のいない世界で生きる俺も必要ないんだ』
「――この、大馬鹿者!!」
リーフの意識が、怒りと歓喜で鮮烈に覚醒した。
「勝手に心中設定を組まないでちょうだい! 死ぬのも消えるのも、私が許さない!
バカ、バカ、ルシのバカ!」
世界樹の核、聖域のただ中で始まった、あまりにも人間臭い、激しい痴話喧嘩。
それは、数千年の時を刻むユグドラシルの歴史において、おそらく初めて観測された計算不能な不協和音であった。
あまりの熱量、あまりの理不尽な感情の爆発に、リーフを取り込もうとしていた世界樹の核(母親)の動きが、呆気に取られたかのように停止した。
神聖なシステムが、二人の絆という名の強力な割り込みによって、処理を一時保留せざるを得なくなったのだ。
◆
同時刻、山頂の遺跡。
シグルドは、もはや穴が開くほどにネロのマニュアルと、そして目の前の水晶の棺を睨みつけていた。
魔力は満ちている。
環境は整っている。
だというのに、ネロというシステムは起動中のロゴすら出さず、沈黙を貫いている。
「……何が足りない。
何を、私は見落としているのだ……!?」
シグルドは、再びマニュアルを吹雪の雪原に投げ捨てると、棺の周囲を獣のように這い回った。
物理的な鍵穴はない。
あるのは、注ぎ込まれた魔力量を示す不気味なメータと、その傍らに置かれた、正方形の平べったい、鈍く光る金属の板。
古代の知恵を持たぬシグルドには、それが何を意味するのか理解できなかった。
それは、現代の魔導師が知る呪文や触媒とは一線を画す、未知のユーザー・インターフェース。
無駄な時間だけが、冷酷に過ぎていく。
シグルドはまだ気づいていなかった。
彼が平べったい板として無視しているものが、ネロという最強の兵装を解き放つための、最後の認証デバイスであることを。
そして、そのデバイスを起動させるためのパスコードは、彼が雪に投げ捨てたマニュアルの、最も難解で詩的な一節に隠されていることを。
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