7-4 魂の把持(ホールド):バナードの叱咤と、琥珀の加速
洞窟の奥、琥珀色に染まったルシの瞳に絶望の色が混じる。
視界の端で点滅し続けるエラーログ。
リーフの存在確率を示す波形は、もはやノイズの中に沈みかけ、世界樹という名の巨大な母体に吸い込まれようとしていた。
「……だめだ。 個体識別信号がロストする。
これ以上の同期は、リーフの自意識を完全に焼き切る……っ!」
俺の指先が、虚空に浮かぶ不可視のコンソールを激しく叩く。
だが、どれほど最適化された術式を流し込もうと、世界樹ユグドラシルという神の演算機がリーフを内包する速度には追いつけない。
リーフの魂が希薄になり、一滴の雫が海に溶けるように、彼女という個が消えていく。
「リーフ……! 戻ってきてくれ、お願いだ!
意識を……自意識を繋ぎ止めてくれ……ッ!」
冷徹な魔導師として生きてきたルシが、初めて漏らした無様なまでの弱音。
その震える背後に、音もなく立つ巨大な影があった。
◆
同時刻、山頂の遺跡。
シグルド=アイズベルクは、吹き荒れる吹雪の中で狂気じみた焦燥に駆られていた。 水晶の棺に直結された王都にある左腕を通じて、世界樹から引き出した莫大な魔力の充填は、すでに限界値を示している。
ネロの肉体は、目を開ければ即座に大陸を焦土に変えられるだけのエネルギーを湛えていた。
だが、ネロは目覚めない。
ただ、静かに眠り続ける銀髪の少年。
「何だ……!? 何が足りないというのだ! 燃料は満たしたはずだッ!」
シグルドは、雪に埋もれかけていたマニュアルを再び掴み、血走った眼で睨みつけた。
彼が冗長で無駄な記述として切り捨てた古代魔法文字の行間。
そこには、魔力という燃料を、殺戮という駆動へ繋げるための認証キーが記されているはずだった。
無知ゆえに力を注ぎ込み、無知ゆえに起動できない。
シグルドは自らが作り出した黄金の檻の前で、空回りする歯車のように絶叫した。
◆
王都、枢密院のテラス。
世界樹から北へ伸びる魔力の奔流が止まり、静寂が訪れてから、すでに無視できない時間が経過していた。
宰相ヴォルガ=ド=グラディウスは、手にしたワイングラスの脚を、指先が白くなるほど強く握りしめていた。
(……何をしている、シグルド。 舞台は整い、幕は上がったのだぞ)
何も起きない。
北の空は不気味なほどに静まり返り、世界を震撼させるはずの零号記述体の咆哮は聞こえてこない。
ヴォルガの眉間に、深い苛立ちの皺が刻まれる。
「シグルドめ……貴様ほどの男なら、あの古代の鉄屑を動かすことなど、造作もないはずだろう?
新世界の夜明けを、私に待ちぼうけさせるつもりか」
ヴォルガは、己が選び、踊らせてきた駒の真のスペックに、ようやく疑念を抱き始めていた。
◆
洞窟の中。
這いつくばり、俺は自分の限界に打ちのめされていた。
その肩を、岩のように固い掌が掴んだ。
「……情けない声を出すな、小僧」
低く、地響きのような声。
バナード師匠だった。
俺が振り返ると、そこには吹雪の冷気さえも跳ね返すような、圧倒的な生の圧力を放つ武人の姿があった。
「師匠……でも、もう俺の計算じゃ追いつかない。
リーフが、取り込まれて……消えてしまう……」
「理屈で救えぬというのなら、魂で掴んで離すなッ!」
バナードの一喝が、洞窟の空気を震わせた。
俺の鼓膜を叩き、思考を停止させていた恐怖を物理的に吹き飛ばすような、強烈な叱咤。
「……魂を、掴む?」
「そうだ! 手を伸ばして、掴み、引きずり戻せ。 理屈や術式など後回しだ。
大切な人なのだろう? ならば、その存在を、お前の全霊をもって繋ぎ止めろ!」
バナードの言葉は、魔導師としてのルシの常識を、根本から破壊するものだった。
だが、その瞬間にルシの脳内で、バラバラだった思考の断片が、全く新しい回路となって結びついた。
(魂……、波形ではなく、存在そのものの把持。
……そうか、同期するんじゃない。
俺という『個』を錨にして、彼女をこちらの現実に引き止める……!)
俺の琥珀色の瞳が、かつてない明晰さで輝きを取り戻す。
「……何かを掴んだようじゃな。 ならば、とっとと行動に移せ。 迷いは死、確信は勝利だ!」
「はい……。 ありがとうございます、バナード師匠!」
俺は再び前を向いた。
もはやコンソールなど見ない。
俺は自身の魔導回路を、計算のためではなく、リーフという個を抱きしめるために、全力で全方向へと解放した。
「全演算能力を、リーフの個体識別の固定に全振りする。
……仕様の穴を突くんじゃない。 俺自身が、新しい仕様になってやる……!」
猛然と思考が加速する。
俺の周囲に、琥珀色の光が渦を巻き、それは精神世界の海へと深く、鋭く突き刺さっていった。
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