7-2 鏡の中の深淵:銀の残響と、琥珀の同期
吹雪の唸る洞窟の中、リーフの意識は肉体の檻を離れ、世界樹の中枢――事象の地平線のごとき情報の深淵へと溶け込んでいた。
そこは、無数の魔導回路が天の川のように流れる静謐な空間。
その光の濁流のただ中で、彼女は場違いな泣き声を聞いた。
自分とよく似た、透き通るような銀色の髪。
輪郭すらおぼろげな、名前のない子供。
その幼い影は、膝を抱え、世界樹の根源的な悲しみを体現するように震えていた。
リーフは導かれるように歩み寄り、その小さな肩へ、祈るように言葉をかける。
「……どうしたの? あなたは、何がそんなに悲しいの?」
少年は顔を上げなかった。
ただ、その震える唇から、この世の終わりを予感させるような、冷たく虚無的な声が漏れ出す。
「……また、僕の意思に反して、『戦争の道具』として組み込まれることが……悲しいんだ」
「あなたの名前を教えてくれる? 私はリーフ。 世界樹の娘よ。 あなたは?」
「僕は……ネロ。 かつての愚か者たちが名付けた、殺戮魔導師の出来損ない(プロトタイプ)だよ」
リーフは、一瞬息を呑んだ。
目の前にいるのは、王都が、そしてシグルドが狂奔して求めた、神話時代の破壊兵器。
だがその本質は、ただ独り、終わりのない夜に怯える幼子に過ぎなかった。
傍らでは、母であるユグドラシルの意思が、静かに、そして痛ましい眼差しで二人を見守っている。
「……あなたの意思で、それを跳ね除けることはできないの?」
「……できない。
制御権を持つ人間が、僕を『再起動』してしまったら最後。
僕は、敵も味方も関係なく、視界に入るすべての生命を抹消し続ける。
そして最後は……僕を起動した主さえも、その手で抹消するまで、破壊は止まらない。
……それが、僕という存在の『仕様』なんだ」
リーフは絶句した。
差し出そうとした手は空中で凍りつき、彼を救うための言葉が、喉の奥で虚しく霧散していく。
愛しき世界を滅ぼすために造られた鏡の中の自分。
その涙を止める術を、彼女はまだ知らなかった。
◆
同時刻、王都。
ついに世界樹の再起動プロセスが完了した。
王都全域に、聞いたこともない不協和音の魔導警報が鳴り響く。
突如として戦時仕様へと強制遷移した街。
噴水は枯れ、街灯は赤く不気味に明滅し、城壁の自動防衛術式が、守るべき民へとその銃口を向け始めた。
民は逃げ場を失って絶望し、事情を知らぬ貴族たちは右往左往して狼狽する。
その混乱を極める王宮のテラスで、黒幕の男は、沈みゆく陽光をワイングラスに反射させ、不敵に微笑んでいた。
「……さあ、終わりの始まりだ。
すべてが浄化された後の荒野に立つ王は、この私だ」
男は、かつての腹心の名を、ゴミでも捨てるような口調で呟く。
「シグルドは、実に使い勝手の良い駒だったよ。
事態が収束した暁には、すべての罪を奴になすりつけ、処刑台という名の天へ召してやろう。
……何、かつての誼だ。
その骨くらいは、私が拾ってやるとも」
男の背後で王都の秩序が、音を立てて崩壊し始めていた。
◆
洞窟の中、ルシは激しい葛藤の渦中にいた。
昏睡するリーフのバイタルデータは危険域を彷徨っている。
今すぐ強制介入して彼女を引き戻すべきか。
だが、ルシは、震える右手を左手で押さえつけ、決断を下した。
「……今は、信じる。 リーフ、君の強さを」
俺には、策があった。
俺は五歳の時、不完全ながら世界樹の端末としての権能をその魂に刻まれた。
彼は、意識を極限まで集中させ、これまで自分自身を守り続けてきた常時展開型・対魔導防御壁を、一枚ずつ、丁寧に解除していった。
それは、己の精神を無防備な荒野に晒すに等しい自傷行為。
だが、壁が消え去った瞬間、ノイズ混じりではあるが、リーフと世界樹ユグドラシルが交わす対話の断片が、ルシの脳内へと直接流れ込んできた。
「繋がった……」
俺の解析眼が、変異を起こす。
通常発動時の、海の様な「碧色」から――。
リーフの瞳と同じ、深く、温かな、そしてすべてを見通す琥珀色へと。
精神の同期。
ルシは、肉体を現世に残したまま、その視線だけを情報の海へと飛ばした。
泣いている少年、ネロ。
そして彼を抱きしめようと奮闘するリーフ。
その光景を、ルシは第三の眼で捉えた。
「……仕様が変えられないのなら、その仕様そのものを書き換えるまでだ。
待っていろ、二人とも」
俺の琥珀色の瞳に、これまでにない決意の光が宿る。
北の山脈を叩く吹雪は、さらにその勢いを増し、決戦の刻が来たことを告げていた。
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