7-0 雪山への隘路(あいろ)
北の山脈は、狂ったような白銀の暴力――猛吹雪に閉ざされていた。
視界は数メートル先すら定まらず、巻き上がる雪礫が魔導防寒具の表面を叩きつける。
俺たちは強行軍を断念し、山肌に口を開けていた岩洞へと逃げ込んだ。
その直後だった。
リーフが、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちたのは。
「――っ、リーフ!?」
俺が抱きかかえる間もなく、彼女の肌は病的なまでに青白く変色し、全身が激しく震えていた。
これは、ただの疲労ではない。
世界樹の根に直接アクセスする魔導回路が、許容限界を超えた外部入力を受けた際に起こる――深刻な魔力酔いだ。
「……膨大な、魔力検知……。 世界樹の、深層から……何かが、引き抜かれた……」
喘ぐように零された言葉を、俺は即座に脳内のログと照合する。
世界樹の基幹システムにおいて、宮廷魔導師十数人分に相当する魔力の一時的な全消費が記録された。
通常、それだけの魔力があれば、一国を灰にする禁術すら発動可能だ。
それが今、何らかの転送術式に充填され、消失したのだ。
平時において、世界樹は異常な魔力消費を即座に検知し、管理者にフィードバックを返す仕組みになっている。
いわゆる異常検知の閾値が極めて低く設定されているからだ。
これが戦時設定であれば、大規模魔法の連発を想定して閾値が引き上げられるため、リーフがこれほどの衝撃を受けることはなかっただろう。
皮肉なことに、今の王国は平時という名の脆弱性を晒したまま、シグルドの暴挙を許してしまったのだ。
俺たちは、リーフの魔導回路が安定し、外の吹雪が止むまで、この冷え切った洞窟で束の間の休息を摂ることにした。
◆
同じ頃。
山頂付近の遺跡では、シグルドの前にそれが到着していた。
空間を歪めて転送されてきたのは、透明な水晶の棺。
その中に横たわるのは、神話時代の悪夢、零号記述体『ネロ』。
「……ついに、手に入れたぞ。 我が再起の鍵を!」
シグルドは狂喜し、手に入れた起動マニュアルの巻物を広げた。
だが、その直後に彼の表情が凍りつく。
記されていたのは、おぞましいほどに難解な古代魔法文字。
文法的にも現代の魔導理論とはかけ離れた、冗長で詩的な、それでいて冷酷な数式の羅列だった。
かつてシグルドは、メギストス=ファーレン師に師事していた際、古代魔法を「無駄に長く、実用性に欠ける古典」として学ぶことを拒絶した。
彼にとって魔法とは、効率よく出力を得るためのツールに過ぎず、その根源にある哲学や古の叡智に触れることを時間の浪費と切り捨てたのだ。
「ええい、忌々しい……! どいつもこいつも、なぜ真っ直ぐに書かんのだ!」
シグルドは憤怒に震えながら、念のために用意していた古代文字の辞書を片手に、一文字ずつ泥臭い翻訳作業を開始した。
かつて彼が蔑んだ無駄な学問こそが、今、彼が求めた力の唯一の鍵となっていた。
◆
「リーフ、加減はどうかな? 無理そうなら、吹雪が止んでもここでキャンプを張るが」
俺は、横になったリーフの顔を覗き込んだ。
幸い、意識の混濁は発生していないようだが、顔色は依然として優れない。
宮廷魔導師十数名分の魔力を代償にして行われた儀式……その結果が、リーフにこれほどの負荷を与えている。
「ごめんなさい……。 もう少しだけ、休ませて。
魔導回路が、まだ熱を持ってるみたいで……」
素直に弱音を吐く彼女を見るのは初めてだった。
洞窟の壁際を這う世界樹の根を端末として使えば、王都との通信は可能だろう。
だが、今の彼女を仲介役として使えば、さらなる魔力負荷で彼女の精神が焼き切れてしまう恐れがあった。
◆
一方、王都では――。
宮廷魔導師団の団長、ゼノス=ヴァン=ブライトが、血眼になって状況把握に努めていた。
「ルシ副団長の懸念が……最悪の形で的中したというのか!」
報告は絶望的だった。
最厳重に隔離されていたはずのシグルドの左腕が消失。
同時に、地下深くに封じられていた『ネロ』の棺も消え失せた。
そして、それらを転送するために魔力を捧げ、あるいは奪われた十数名の宮廷魔導師たちの無惨な遺体が発見されたのだ。
ゼノス団長は、震える手で対応に奔走していた。
内部の汚染がどこまで進んでいるのか、誰が虫なのか、もはや隣に立つ部下すら信じられない。
その混乱の渦中。
王都でこの惨劇を仕組んだ黒幕は、自らの計画通りに進む盤面を、静かに眺めていた。
高級なワインを揺らし、窓の外に広がる黄昏時の王都を眼下に見据える。
その背中には、パニックに陥る民の声も、ゼノスの怒号も届かない。
「……不具合の修正を始めるがいい、ルシ。
だが、この不具合は、世界そのものの仕様なのだよ」
◆
「……もう、大丈夫。 迷惑をかけて、ごめんなさい」
一刻ほどが過ぎ、リーフがゆっくりと上体を起こした。
まだ瞳に疲労の色はあるが、魔力回路のオーバーヒートは収まったようだ。
俺は彼女の肩を支え、深刻な声で提案した。
「リーフ、無理はしないでくれ。
最悪の場合、世界樹の設定を強引に『戦時設定』へ移行して再起動をかける。
そうすれば閾値が上がって、君へのフィードバックも遮断できるはずだ」
「……それは、ダメよ、ルシ」
リーフは首を横に振った。
「私が異常を感じたからこそ、王都で何が起きたかに気付けた。
戦時設定にしてフィードバックを遮断すれば、私は楽になるけれど……それは、王都や世界樹で起きる『異変の予兆』をすべて見逃すことになるわ。
それは、私たちの目を潰すのと同じことよ」
その確固たる言葉に、俺は何も言い返せなかった。
アイリス、メギストス、バナードの三名も、その覚悟を静かに受け止めていた。
「ルシよ、リーフ殿の言う通りかもしれん」
メギストス師父が、沈痛な面持ちで口を開いた。
「彼女の体調不良は、いわば世界を繋ぐ神経が上げる『悲鳴』じゃ。
冷たい言い方になるが、これほど確かな警報は他にない」
「全くだ。 いざとなれば、俺がリーフ殿を背負って山を登ってやるさ」
バナード師匠が力強く言い、アイリスが後に続いた。
「王都との通信なら、任せてくださいな。
騎士団特務部隊の『秘匿回線』なら、世界樹やリーフの回路を経由せずに、独立した通信石でやり取りが可能ですの。
私が、王都の現状を叩き出して見せますわ」
アイリスが懐から取り出したのは、鈍く光る特務専用の魔導通信石。
吹雪が唸る洞窟の中で、彼女は慣れた手つきで王都の闇へとアクセスを開始した。
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