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6-2 姿なき監視者:遮断壁の霧散と、殺意の走査(スキャン)

 迷宮のような再帰ループを抜け、粘つくような重圧がふっと消えたのは、行軍を開始してから小一時間が過ぎた頃だった。


 視界を覆っていた不自然な霧が晴れ、足元の位相のズレが正常な座標へと収束していく。


 俺は解析眼で周囲の術式密度が低下したことを確認し、全員に停止の合図を送った。


「……ここまでだ。 人払いの結界を突破した。 一旦、安全地帯を確保して休憩にしよう」


 俺の声に、全員が安堵の息を漏らす。


 アイリスは付近の朽ち木の根方に腰を下ろすと、額の汗を拭った。


「はぁ……。

 特務の過酷な演習には慣れているつもりだったですけど、一歩ごとに存在が書き換えられそうになる行軍は、流石に神経をすり減らしますわ。

 きついですわ」


「カカッ! 泣き言を言うには早すぎるぞ、アイリス」


 バナード師匠が、疲労の色一つ見せずに豪快に笑った。


「鍛え方が足りんのう。

 どれ、ルシを叩き直すついでに、お前もまとめて面倒を見てやろうか?」


「……伝説の『拳聖』バナード師に、直々に稽古をつけていただけるというのですか?

 ならば、是非ともお願いしたいところですわ」


 アイリスが真剣な表情で居住まいを正すと、師匠の視線が俺へと突き刺さった。


「よかろう。

 ルシも、王都でふんぞり返っておったせいか、些か鈍っておるようじゃしの」


「えっ、俺もですか? さっきまで必死にパスを通していたのは俺ですよ?」


「歩法を見れば一目瞭然じゃ。

 エリュシオンの港町で、潮風に吹かれながら蜂蜜酒ミードに溺れておったツケが回っておるわい」


 俺は思わずリーフに助けを求める視線を送ったが、彼女は琥珀色の瞳を悪戯っぽく細めて、首を振った。


「まあ、否定はできないわね。 ごめんね、ルシ。 今回ばかりは私にも庇えそうにないわ」


「……参りましたよ。 それで、その地獄の修行はいつから始まるんですか?」


 俺が水筒の水を一気に煽りながら尋ねると、師匠の瞳が鋭く、獣のような光を宿した。


「今からじゃ。 ……丁度、気の早い『お客さん』が来たようじゃしの」


 その言葉と同時に、空気が凍りついた。


「殺気が剥き出しじゃ。 未熟よのう」


 バナード師匠が呟くのとほぼ同時に、リーフとメギストス師父がハッとして周囲の闇を見渡す。


 だが、俺とアイリス、そして師匠は、それよりも一瞬早く身体の奥底に眠る闘気を循環させ始めていた。


 魔導術式や精霊術式といった、理論に基づく攻撃ではない。


 生物が放つ純粋な殺意という名の非論理的な干渉には、闘気を巡らせて肌の感覚を研ぎ澄ます方が、解析眼よりも反応速度レスポンスが速い。


 ――来るッ!


 闇の奥から、風を切る音さえ置き去りにした伏撃が開始された。


 放たれたのは、翠緑の魔力を纏った無数の矢。


「特務の意地、見せてくれますわ!」


 アイリスが素早く魔道具『影縫い』を起動する。


 彼女の影が触手のように伸び、自分と背後のメギストス師父へと殺到する矢を、空中で叩き落とし、あるいは射手を影の次元へと引きずり込んで制圧した。


「リーフ、俺のそばを離れるな!」


 俺は彼女を庇うように一歩前へ出ると、右手に闘気を凝縮させた。


 解析眼で矢の弾道を予測し、練り上げた闘気の塊を指先から弾丸のように射出する。


 パシィィィッ! と、乾いた音を立てて妖精族の放った矢が空中で相殺され、火花を散らす。


「逃がさない……『拘束バインド』!」


 すかさず空いた左手で、矢の飛来した地点を起点に魔導式を展開。


 森の影そのものを鎖に変え、潜伏していた妖精族の動きを封じる。


 だが、圧巻だったのはやはりバナード師匠だった。


 彼は巨躯に似合わぬ速度で大剣を一閃させた。


 刃が空を裂いた瞬間、物理的な破壊力を伴った衝撃波が扇状に広がる。


「おらぁッ!」


 飛来する矢をまとめて粉砕し、さらにその余波だけで、木々の間に潜んでいた妖精族の斥候たちを攻撃ごと吹き飛ばし、次々と昏倒させていく。


「さて……話し合いの時間だ」


 俺はバインドで捕らえた者たちへ向かい、一歩前へ出た。


 修行時代、精霊魔術の基礎を叩き込まれる過程で、俺は彼ら妖精族の古き言語――精霊語を習得している。


 メギストス師父に至っては、彼らと対等以上に渡り合える知識の宝庫だ。


 だが、対話を試みようと近寄った俺は、ある異変に気づき、息を呑んだ。


 地に落ちた彼らの武器、その弓や矢のやじりに、赤黒い結晶体が混じっている。


(……これは、世界樹の根の破片か……?)


 本来、森を慈しむ彼らが、世界樹の根を削って武器に転用するなど、通常の倫理では考えられない暴挙だ。


 一体、彼らに何が起きているのか。


 問いかけようとした、その時。


 ザッ、と一斉に周囲の草木が揺れた。


 解析眼が捉えたのは、先ほどまでとは比較にならない規模の魔力反応。


 二重、三重に張り巡らされた、完璧な包囲網。


 先ほど俺たちが退けたのは、功を焦って先走った一部の斥候に過ぎなかったのだ。


 俺は即座に状況を判断した。


 ここで戦いを選べば、対話のルートは永遠に閉ざされる。


「……全員、拘束を解け。 抵抗の意思がないことを示すんだ」


 俺の指示に従い、アイリスが影を収め、俺も魔法を解除して両手を上げた。


 静寂の中、包囲網がゆっくりと縮まっていく。


 現れたのは、一際洗練された革鎧を纏い、威風堂々とした立ち振る舞いの男。


 この部隊のリーダーらしき妖精族だ。


 彼は俺たちを鋭く睨みつけ、最後にメギストス師父の前で足を止めた。


『殊勝な心がけだ。 老いさらばえた魔導師よ、貴様がこの無礼な侵入者どものリーダーか?』


 精霊語特有の、鈴を転がすような、しかし刃のように冷たい声。


 メギストス師父は、古びた杖を突いて穏やかに微笑んだ。


『わしか?

 わしはもう、ただの隠居人でな。

 ……そこの若者を、わしの正式な後継者に据えておる。

 話なら、彼から聞いてやってくれんかの』


 師父が、俺をひょいと指差す。


 リーダーの男の冷徹な視線が、俺を射抜くように移動した。


 値踏みするように、あるいは敵意を計るように、重苦しい沈黙が流れる。


『ふん……。 牙を隠した餓狼か。 よかろう、ついてこい』


 拒絶ではなく、連行。


 かろうじて対話の土俵には乗れたようだ。


 俺たちは妖精族の鋭い切っ先に囲まれながら、森のさらに深部――彼らが守護する黄昏の里へと歩みを進めることになった。

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