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6-1 沈黙の境界:再帰する迷宮と、遠き日の残響

 魔導飛空艇『アトラハシウス号』が、重低音を残して雲海の彼方へと去っていく。


 俺たちは精霊の森の入り口から数キロ離れた緩衝地帯に降り立ち、そこからは徒歩で進むことを選択した。


 空を駆ける巨大な魔導器は、原始的な自然の理を尊ぶ精霊や妖精たちにとって、あまりに暴力的な騒音でしかない。


 要らぬ警戒心を煽り、対話の可能性を最初から破綻させるわけにはいかなかった。


 草露に濡れた地面を踏みしめながら、俺たちは緑の深淵へと足を進める。


 だが、目前に現れた精霊の森の入り口は、俺たちが知る伝説の美しさとは程遠い、無残な姿を晒していた。


 ◆


 そこは、死と沈黙が支配する物理的な防壁だった。


 かつては精霊の息吹を湛えていたであろう巨木たちは、内部の魔力を吸い尽くされたかのように白く枯れ果て、折り重なるようにして森への侵入を拒んでいた。


 枝葉は鋭い棘のように絡み合い、解析眼で見ずとも、それが物理的な拒絶を意図して配置されていることが分かる。


「ふん、理屈で通れぬなら、力で道を拓くまでよ!」


 バナード師匠が、その岩塊のような肩を回し、背中の巨大な大剣を抜いた。


「おらぁッ!」


 気合の一閃。


 ただの筋力ではない。


 練り上げられた闘気が、枯死した木々を空間ごと消滅させる。


 凄まじい衝撃波が走り、迷路のように入り組んでいた倒木の山が、一瞬にして広大な回廊へと姿を変えた。


 だが、拓かれた道の先に待っていたのは、さらなる異様だった。


 精霊の森は、不気味なほどの暗闇と静寂に包まれていた。


 本来ならば、大気に満ちる精霊の加護が、夜であっても淡い燐光となって華やかな色彩を放っているはずの場所だ。


 それが今や、暗黒の密室のように、冷たく、重苦しい空気が淀んでいる。


「……深刻な問題が起こっている。 これは、単なる精霊力不足ではないな」


 メギストス師父が杖の先を叩くと、柔らかな魔導の光が灯り、周囲を照らし出す。


 五人の見解は一致していた。


 この森のことわりは、今まさに末期的な機能不全に陥りつつある。


 俺たちは魔導の灯火を頼りに、慎重に行軍を開始した。


 だが、数時間が経過した頃、俺は足元に転がっていたバナード師匠が粉砕した木片を見て、足を止めた。


「……戻ってきたな。 入り口だ」


 直進していたはずが、俺たちは円を描くようにして元の場所へと回帰していた。


 方位磁針も、魔導による位置測位も、この森の中では正しく機能していない。


「リーフ、周囲の解析スキャンは可能か?」


 俺の問いに、リーフは苦しげに首を振った。


 琥珀色の瞳は微かに光っているが、その焦点は定まっていない。


「……駄目よ、ルシ。 森全体の『悲鳴』が多重放送のように頭の中に響いて……情報のノイズが酷すぎるわ。

 私の解析(琥珀色の瞳)を使っても、視界が砂嵐サンドノイズで塗り潰されてしまう」


 彼女に無理をさせるわけにはいかない。


 俺は思考を加速させ、多重結界を五人全員が収まる範囲まで拡張した。


 外部からの干渉を一時的に遮断する、孤立した作業領域の展開だ。


 その上で、解析眼を広域走査から精密解析へと切り替え、大気の揺らぎを凝視する。


 見えた。


 妖精たちが編み上げた、極めて複雑な再帰ループの罠。


 侵入者の意識をわずかに逸らし、元の座標へと書き換える巧妙な人払いの術式だ。


「……見つけた。 この『位相のズレ』が、正しい順路だ」


 俺はザックから頑丈な魔導紐を取り出すと、全員の腰に繋ぐように指示した。


「分断されないように、紐を緩めるな。

 一列に、俺の足跡だけを辿ってくれ」


 俺を先頭に、アイリス、リーフ、メギストス師父、最後尾にバナード師匠という隊列で進む。


「……ルシ殿、この紐、少しばかり拘束が強くありませんこと?」


 後ろを歩くアイリスが、不安を紛らわせるように軽口を叩いた。


「我慢してくれ、アイリス。

 この森の術式は、物理的な距離ではなく『認識の同期』を狂わせてくる。

 一度でも紐が緩めば、君の隣にいるはずの俺が、数キロ先の崖の上に移動されていてもおかしくない」


「それは……ご免被りたいですわ。 分かったわ、しっかり捕まっていますわ」


 アイリスの手が、前を歩く俺の腰紐をぎゅっと握る。


 その緊張が伝わってきた。


「ほう……ルシよ。

 この術式の『綻び』を、理論的な数値のズレとして捉えておるのか。

 わしら古参の魔導師なら『森の機嫌を伺う』と表現するところを、お前さんは実に無機質に、かつ正確に解体していくな」


 メギストス師父が、感心したように、しかしどこか楽しげに言った。


「俺にとっては、これが最も確実な対話ですから」


 一歩、足を踏み出すごとに、世界が崩壊し、再構築されるような感覚に襲われる。


 右へ進んでいるはずなのに、左から生暖かい風が吹き抜ける。


 前を見ているはずなのに、足元の影が後ろではなく真横に伸びている。


 空の色は数歩ごとに、どす黒い紫から無機質な灰色へと変色し、地面の感触は柔らかな土から、ありもしない王都の石畳の硬さへと一瞬だけ書き換えられた。


 五感が、完全に乗っ取られている。


「……ッ!」


 その時、俺の解析眼が、術式の深層から、ある波形を拾い上げた。


 それは、王都を出発する直前に捉えた、あのシグルドの左腕が放っていた微弱な定位信号ビーコンと、気味が悪いほど酷似した周波数を持っていた。


(……偶然か? いや、そんなはずはない。

 王都のノイズと、この森の異常……どちらも同じ『根』から生じているのか……?)


 背筋を冷たい汗が伝う。


 シグルドが仕掛けた不具合は、王都を離れたこの地でも、なお俺たちの足元を侵食し続けている。


「ルシ、大丈夫……?」


 リーフの声に、俺は思考を現在へと引き戻した。


「ああ。問題ない。

 ……ただ、少しだけ『予定』を修正する必要があるかもしれないな」


 五人一列、腰を紐で結んだ異様な姿で、俺たちは一歩一歩、妖精たちの敷いた沈黙の防壁の深層へと進んでいく。


 精霊の森の心臓部へ。


 そして、王都に潜む巨大な悪意と繋がっているであろう、その醜悪な扉の開放場所へと。

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