5-0 序章:孤独な闘い
王都ユグドラシルの夜空には、勝利を祝う魔導花火が幾重にも打ち上がり、民衆の歓喜の声が地鳴りのように城壁を震わせていた。
簒奪者シグルドは去り、理は正された。
街の至る所で祝杯が挙げられ、黄金の蜂蜜酒が川のように流れている。
だが、その喧騒から隔絶された王城の一室――世界樹の息吹が届く静謐な寝所において、俺はただ一人、孤独な闘いの最中にあった。
「……っ、また書き換え(上書き)が追いつかないのか……!」
俺の視線の先、寝台に横たわるリーフの姿は、あまりにも痛ましかった。
かつて透き通るような白磁の肌を誇った彼女の身体は、今や所々が、ラグが走り激しくカクつき、実体化の定義が崩壊しかけていた。
ある箇所は霧のように霞み、ある箇所は完全に透過して、下のベッドのシーツが残酷なほど鮮明に透けて見える。
それは、世界樹という巨大な頭脳が、彼女という存在を「不要の長物」として排出しようとしている断末魔の光景だった。
扉の外では、新たな時代を担う者たちが何度も俺を呼んでいた。
新しく魔導師団長に任ぜられた元副団長、伝説の再来を喜ぶメギストス師父とバナード師匠、そして戦友であるアイリス。
彼らは皆、この救国の英雄を祝祭の主役として迎え入れようと訪ねてきた。
だが、俺はそのすべてを、固く閉ざされた扉越しに拒絶した。
「すまないが、今は一歩もここを動けない。 ……祝祭なら、俺の分まで楽しんでくれ」
冷徹に響くその声の裏で、俺の瞳は血走り、魔導回路を過熱させるほどの熱量を帯びていた。
数日、あるいは数週間か。
かつてシグルドに無能と罵られながら、その裏で不眠不休の調律に明け暮れていた頃の、指先の熱い記憶が蘇る。
だが、あの頃と違うのは、今、救おうとしているのは替えの利く魔術式ではなく、この世で唯一、代わりの利かない魂だということだ。
俺は己の魔力を極限まで絞り出し、固有魔導の解析眼をフル稼働させる。
リーフの身体を構成する数兆の記述を、一文字の零れも許さず走査し続ける。
(……最悪の場合、西の港町エリュシオンにあるバックアップ・ポイントから同期すれば、彼女の『姿』は戻るかもしれない)
ふと、魔導師としての冷徹な合理性が脳裏をよぎる。
だが、その思考は即座に俺自身の手によって握りつぶされた。
バックアップから復旧した彼女は、果たして、今ここで苦しんでいるリーフと同一だと言えるのだろうか?
これまでの旅で積み重ねた記憶、ふとした瞬間に見せる感情の揺らぎ、俺の言葉に反応して赤らめた頬――その最新の記憶が失われた彼女を、俺はリーフと呼べるのか?
『リーフは、ただ一人。 ここにいる、この震えている彼女こそが本物だ。
……代替品など、クソ食らえだ』
思考ががんじがらめになり、指先が時折、恐怖で止まりそうになる。
そのたびに俺は、己の頬を強く叩き、現実に意識を繋ぎ止めた。
「……ルシ?」
不意に、微かな声が漏れた。
リーフが、透過しかけた瞼をゆっくりと持ち上げ、俺を見つめていた。
彼女は自分の身体が消えかけている恐怖を押し殺し、俺を安心させようと、精一杯の作り笑いを浮かべた。
それは、あまりにも痛ましい笑顔だった。
ラグによって表情の同期が遅れ、不自然に引き攣ったその微笑みは、彼女がどれほどの苦痛と消失の予感に耐えているかを如実に物語っていた。
皮肉なものだ、と俺は自嘲した。
王都を救い、世界を正したというのに。
ようやく誰にも邪魔されず、二人で静かに過ごせる時間が手に入ったというのに。
その貴重な安らぎの時間のすべてを、彼は彼女の消滅を食い止めるための、血を吐くような解析・修正作業に捧げている。
「……よくなったら、また二人で、のんびりと蜂蜜酒でも飲もう。
エリュシオンの潮風を思い出しながらな」
そう語りかける俺の言葉は、彼自身に言い聞かせるための祈りのようでもあった。
気の利いた慰めも、愛の言葉も、今の自分には吐けない。
ただ、彼女の存在を定義する記述を、泥臭く、一文字ずつ修復し続けることしかできない。
窓の外、祝祭の光が部屋を明るく照らすたびに、リーフの半透明な身体が虚しく輝く。
俺は、歯がゆさに奥歯を噛み締めながら、再び世界樹の深層へと意識をダイブさせた。
彼女をゴミ(不要データ)として掃き出そうとする、世界樹の不条理な選別を書き換えてみせると誓って。
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