4-8 対峙:絶対零度の記述と、虚空への逃亡
王城の中庭。
かつては美しく整えられていた大理石の広場は、今や張り詰めた魔力の奔流によって、凍てつく処刑場へと変貌していた。
中心で対峙するのは、すべてを失い狂気に憑りつかれた元団長シグルドと、真実の理を奪還した魔導師ルシ。
「死ねッ! 私を否定する愚か者め、永遠に凍てつくが良い!」
シグルドが吠える。
彼は宮廷魔導師団の頂点に君臨した意地を見せるかのように、一切の予唱を省いた極位詠唱破棄を敢行した。
放たれたのは、絶対零度の冷気を纏った無数の氷槍――『万象凍結(絶対零度アイスランス)』。
大気中の水分を一瞬で結晶化させ、触れるものすべてを分子レベルで停止させる、一撃必殺の攻性魔導である。
対するルシは、眉ひとつ動かさなかった。
彼は詠唱どころか、構えすら見せない。
ただ静かに、指先をわずかに弾いた。
「……非効率な出力だ。 熱力学の基本からやり直せ」
刹那、ルシの眼前には、シグルドの氷槍を鏡のように映し出す完璧な『絶対零度の論理障壁』が展開された。
キィィィィィィィンッ!
と鼓膜を裂くような高音が響く。
シグルドが心血を注いだ氷槍は、ルシが瞬時に構築した障壁に阻まれ、一本残らず砕け散って石畳の上を虚しく転がり落ちた。
ルシは障壁を解除する。
その瞬間に生じた急激な温度差により、中庭には視界を完全に遮るほどの濃密な蒸気――白い霧が立ち込めた。
「……く、くそッ! なぜだ、なぜ当たらん! 私は、私は選ばれた管理者なのだぞ!」
霧の向こうから、シグルドの理性を失った絶叫が響く。
だが、その声は次第に遠ざかっていく。
「……覚えていろ、ルシ!
私はこんな場所で終わる人間ではない。
……せいぜい、その『人形』を可愛がってやるがいい。
……それがいつまで『存在』していられるかは、私にも分からんがな!」
卑屈な嘲笑が霧の中に溶け、直後、肉を断つ鈍い音が響いた。
霧が風に吹かれて霧散したとき、そこにはシグルドの姿はなかった。
ただ、石畳の上に、生々しく切断された男の左腕だけが、血だまりの中に転がっていた。
リーフだった。
視界ゼロの濃霧の中、彼女はシグルドの発する魔力の熱源を正確に捕捉し、不可視の真空斬撃を放っていたのだ。
シグルドは、致命傷を避けるために左腕を犠牲にし、そのまま座標計算を無視した「強行転移」を敢行したのだろう。
血だまりは数メートル先で不自然に途絶えていた。
「逃げたか……。 だが、あの負傷では長くは持つまい」
ルシが追撃の演算を始めようとした、その時だった。
「ル……ルシ……」
背後から、震える声が聞こえた。
聞き慣れた、だが今までにないほどに、かすれたリーフの声。
ルシが反射的に振り返った瞬間、彼の心臓は凍りついた。
「……っ、リーフ!? 何が……何が起きている!」
リーフの姿が、激しく明滅していた。
先ほど、世界樹の深層回路で完璧に修復したはずの彼女の存在記述が、まるで深刻な接続不良を起こしたかのように、ノイズを撒き散らしながら透けていく。
実体化と透過を不規則に繰り返すその現象は、先ほどのラグなど比較にならないほどに重篤な、いわば存在定義そのものの崩壊であった。
シグルドが去り際に残した不気味な言葉が、呪いのようにルシの脳裏を支配する。
王都を奪還し、全てが終わったはずの祝祭の庭で。
俺は、腕の中から今にも消え入りそうなリーフを抱きかかえ、己の無力さを噛み締めるしかなかった。
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