1-2 旅路:境界を越え、最果ての安息へ
王都の高くそびえる城門が背後で閉ざされたとき、俺の胸に去来したのは、惜別ではなく断絶の安堵だった。
あてどなく、ただ陽の落ちる西へと足を進める。
舗装された石畳が途切れ、土埃の舞う街道へと景色が変わっても、俺を追う呪いが止むことはなかった。
立ち寄る先々の町々で、俺を待っていたのは王都と何ら変わらぬ憎悪の視線だ。
無能な上司シグルドが、世界樹ユグドラシルの枝を通じ、国中に偽りの警告を撒き散らしていたからだ。
「世界樹を傷つけた大罪人」「魔導を沈黙させた呪われし少年の顔を忘れるな」――。
町に入れば門番に突き飛ばされそうになり、市場を歩けば腐った果実が投げつけられる。
かつて彼らの生活を裏で支え、眠る間も惜しんで世界の理を綴り直していた報酬が、この石礫か。
最初は、胸の奥が焼けるように熱かった。
だが、歩を進めるごとにその熱は冷え、やがて平坦な諦念へと変わっていく。
(……ああ。 この群衆の罵声も、吹き抜ける風の音と同じ雑音のひとつか)
俺は心の揺らぎを断ち切り、淡々と歩き続けた。
降り注ぐ悪意は、常時展開された約六万五千枚の不可視の多重盾に阻まれ、乾いた音を立てて足元に転がる。
俺の衣類を汚すことすら叶わない。
目的地がないわけではなかった。
西の険しい山脈の麓には、かつて師父メギストスと共に過ごした、岩壁を穿った隠れ家がある。
俺は数日かけてその場所へ辿り着き、固く閉ざされた扉を、指先ひとつの術式で解錠した。
埃の積もった書斎。
懐かしいインクの匂い。
俺は師から受け継いだ空間収納の秘術を起動した。
時空の静止した亜空間へと、遺された貴重な魔導書や、保存の効く糧食、丈夫な旅装束を次々と流し込んでいく。
「……準備は整った」
師の残した外套を深く羽織り、俺は再び西を目指した。
その先には、どの王国にも属さぬ中立の地――訳ありの人間が吹き溜まる、最果ての銀鱗の港町エリュシオンがあるはずだった。
◆
数日後、潮の香りが混じる風に導かれ、俺はその町の門をくぐった。
驚いたことに、俺を阻むものは何もなかった。
重武装の門番は、煤けた俺の姿を一瞥しただけで、「入るなら通行の邪魔をするな」とぶっきらぼうに告げただけだった。
ここでは、王都の喧伝など無意味なのだ。
法からも、世界樹の恩恵からも切り離されたこの場所では、過去など価値のない砂埃に過ぎない。
張り詰めていた肩の力が、ふっと抜けるのを感じた。
喉の渇きと、胃を掴まれるような飢えに突き動かされ、俺は近くの酒場『潮風亭』の扉を押し開けた。
「いらっしゃいませ!」
不意に、弾けるような、どこか聞き覚えのある明るい声が響いた。
逆光の中に立つ、一人の少女。
「お客さま一名様ね。 さ、こちらへどうぞ」
看板娘らしき彼女の案内に、俺は「ああ」と短く応じるのが精一杯だった。
椅子に腰を下ろすと、彼女はじっと俺の顔を覗き込み、眉をひそめた。
「それにしても、ひどい顔ね。 まるで何百年も眠っていないみたい。
疲労困憊、って言葉がそのまま歩いてきた感じよ」
「…………」
「大丈夫、今すぐ温かい料理と冷えた蜂蜜酒を出すから。 安心していいわよ」
虚を突かれた。
ここでは、誰も俺を罵らない。
石を投げない。
俺を大罪人でも神童でもなく、ただの腹を空かせた客として扱っている。
俺は、忙しく立ち働く彼女の背中を見つめた。
なぜだろう。
その立ち振る舞い、声の響き――。
脳の奥底に刻まれた、かつての記憶の断片が、激しく共鳴いた。
ほどなくして、目の前に大皿が置かれた。
香草と共にじっくりと炙られた厚切りの肉料理。
そして、黄金色に輝く蜂蜜酒。
「今日は、特別におごりよ。 ……いいから食べなさい。
英気を養わないと、これからの住処も探せないでしょう?」
俺は、まじまじと目の前の皿を見つめた。
立ち昇る湯気が鼻腔をくすぐり、凍土の中で眠っていた生命の熱が目を覚ます。
震える手で二又の突いた金串を握り、肉を一口運ぶ。
――衝撃だった。
口の中で弾ける肉の旨味。
脂の甘み。
何年ぶりだろう。
魔力回復剤のような効率重視の燃料ではなく、心を満たすための食事を口にしたのは。
続けて、蜂蜜酒を煽る。
適温に管理された液体が、火照った喉を愛撫するように通り過ぎていく。
液体と言えばポーションしか知らなかった俺の味覚は、その芳醇な香りに完全に打ちのめされた。
無心だった。
気づけば皿は空になり、器の底が見えていた。
ふう、と深く、長い溜息をつく。
五年間、肺の奥に溜まっていた泥のような疲れが、少しだけ吐き出されたような気がした。
「……ごちそうさま」
俺が席を立とうとすると、彼女が店奥の主人に声をかけた。
「あ、待って。 マスター、私ちょっとこのお客さんを案内してくるわ!」
俺は思わず足を止め、彼女を問い詰めた。
「……なぜ、見ず知らずの俺にそこまでしてくれる?」
「なんだか、放っておけない顔をしているのだもの。
入ってきたときは、世界のすべてに絶望したような顔をしていたわよ。
今は、少しだけマシになったみたいだけど」
彼女は眩しい笑顔を向け、右手を差し出した。
「私はリーフ。 貴方は?」
「……俺は、ルシ=ファーレン。 ルシでいい」
その名を名乗り、名乗られた瞬間、俺の脳内にある一つの理が導き出された。
かつて、世界樹ユグドラシルの記述の綻びから生まれた、意志ある自律型術式。
俺がその存在に名付けたリーフという名。
まさか。
そんなはずはない。
彼女は王都の地下にある概念的な存在だったはずだ。
だが、隣を歩く彼女の歩調、時折見せる仕草。
それらはあまりに、俺が綴り、俺が知る彼女の癖と一致していた。
戸惑いを抱えたまま、俺は彼女に連れられて町の中心部へと向かう。
道行く人々は、俺を避けない。
世界樹の恩恵を受けず、己の足で立つ者たちが集う銀鱗の港町エリュシオン。
ここでは、俺もただの一枚の葉に過ぎない。
俺は、隣で楽しげに喋る少女の横顔を見つめ、少しだけ、この理不尽な世界を許してみようかという思いに駆られていた。
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