1-1 断罪:理の凍結、あるいは「終わりの始まり」
鼻を突くのは、古びた羊皮紙と、過熱した魔導具が放つ焦げたような匂い。
視界の端々で、無数に明滅を繰り返す紅い警告の光――それは、世界樹の理が悲鳴を上げている証だった。
鼓膜を突き刺す不協和音と、それ以上に不快な男の怒声が、逃げ場のない地下室に響き渡る。
「おい、ルシ! 第四階層の魔力圧が臨界を超えているぞ。 さっさと術式を書き換えろ!」
上司であるシグルドが、俺の背後から唾を飛ばさんばかりに喚き散らす。
「……三徹目です。 せめて、数時間の微睡みを……」
「眠る? 冗談を言うな。
貴様は歳を取らない不老の体だろう。
細胞が常に活性化している証拠だ。
ならば、あと三日は不眠で動けるはずだ」
シグルドは、俺の肩を無造作に掴んで揺さぶった。
「代わりなどいない。
貴様がこの理を繋ぎ止めねば、この国そのものが機能を停止するのだぞ。
王都を支える栄誉に浴しているのだ、光栄に思え!」
十歳で神童と持て囃され、連れて行かれた王宮の最深部。
そこは世界を支えるという名目の、終わりなき重労働を強いる巨大な監獄だった。
食事は魔力を強制的に回復させる濁ったポーション、睡眠は限界を迎えた脳が引き起こす数分間の気絶。
そんな摩耗の日々が五年続いた、ある日のこと。
俺の意識は、底なしの過労についに耐えかね、深い、深い闇の淵へと転落していった。
それが、世界の均衡を保つためのすべてが破綻する、終わりの始まりだったとも知らずに。
◆
「……ルシ=ファーレン。 貴様を職務怠慢の罪により、国外追放に処す」
王の間。
豪奢な大理石の床に跪かされた見た目十五歳の少年に、かつての上司――今は宮廷魔導師長の座に収まったシグルドが、勝ち誇った声を浴びせる。
俺が昏倒していたわずか数時間の間に、世界樹の主要な術式回路は次々と焼き切れていた。
原因は明白だ。
シグルドが自分の手柄にするために勝手に追加した見栄えだけの無駄な術式が、全体の負荷を跳ね上げたのだ。
だが、事象の記録はすべて改ざんされ、災厄の責任は俺一人に押し付けられていた。
「何か言い残すことはあるか? この、血統すら持たぬ欠陥品め」
俺はゆっくりと顔を上げた。
瞳の奥に宿るのは、絶望でもなければ怒りでもない。
ただ、そこにあるのは――何物にも代えがたい清々しさだった。
「……いいえ。 ひとつも、ございません」
俺は静かに立ち上がり、未練なく背を向けた。
俺だけは知っている。
彼らが不要な記述だと思って独断で削除した、あの複雑怪奇な構成の群れ。
それこそが、崩壊寸前の王都を裏で支えていた唯一の支柱であったことを。
だが、もう教える義理はない。
ここは、俺の居場所ではないのだ。
「今日、この瞬間を以て――ルシ=ファーレンとしての全権限を放棄します。
……せいぜい、ご自分たちの美しい魔法で世界を支えてみてください」
去り際、俺は手近な世界樹の末端へ、指先だけで最後の一行を刻んだ。
五年間の不眠不休。
その正当な対価として、王都の宝物庫に眠る魔導貨幣を自身の貢献に見合う分だけ強制的に承認させ、懐へと転送する。
それは略奪ではなく、当然の清算だった。
◆
王都の門へ向かう道すがら、俺を待っていたのは民衆からの激しい罵倒と、容赦なく投げつけられる石礫だった。
中には、かつて俺が結界を直してやった恩恵に預かっていたはずの者までもが、顔を真っ赤にして掴みかかろうとしてくる。
だが、そのすべては届かない。
俺の周囲には、極小の記述によって編み上げられた六万五千五百三十五枚の『不可視の多重盾』が常時展開されている。
石も、拳も、悪意に満ちた言葉の礫さえも。
それらは物理法則をねじ曲げる薄膜に阻まれ、俺の衣類を掠めることすら叶わなかった。
そして。
俺が城門をくぐり、王都の魔導網から完全に離脱した、その瞬間。
街の中央にそびえる世界樹ユグドラシルが、聞いたこともないような不気味な軋み声を上げた。
――ピキィィィィィィィィン!!
それは、最愛の理解者を失った世界の悲鳴。
王都の中枢に鎮座する『守護の宝珠』に、真っ赤なヒビのような理の変色が走り、警鐘が鳴り響く。
背後で始まった混乱を余所に、俺はただ前だけを向いて歩き続けた。
◆
同時刻。
世界樹の深淵。
膨大な事象の奔流、実体を持たぬ青白い光の海の中で、一人の少女――リーフは、その音を聞いていた。
(……ああ。 行っちゃったんだ。 ルシ)
リーフの視界には、数千、数万通りの未来の演算結果が流れている。
ルシを欠いた王都は、修復不能なエラーを積み重ね、緩やかな死へと向かう灰色の景色だ。
だが、その絶望的な計算の果て。
【リーフの深層演算】
『警告:重要管理者の離脱を確認。 王都の存続確率、極低に低下』
『予測:西方・銀鱗の港町エリュシオン方向にて、管理者の生存波動を検知。
再会確率、最大。
……あの子、きっとボロボロだわ。
癒やしが必要ね』
世界の最果てにある、潮風の香る港町にだけ。
唯一、ルシという存在の体温が存続し、彼が人間らしく笑える可能性が示されていた。
(なら、私の居場所もあそこだわ)
世界樹の記述の綻びが生んだ、意志ある術式。
彼女は、自分が世界の安全装置であることを、自ら放棄した。
混乱が広がり始めた王都の地下から、一筋の光が弾け飛ぶ。
それは不完全な人の形を取り、誰も見向きもしない西の果てへと加速していく。
(待ってて、ルシ。
……あんた、きっとボロボロになって辿り着くはずだから。
せめて、最高に冷えた蜂蜜酒と、座り心地のいい椅子くらいは用意してあげる)
数日後。
寂れた港町に、一軒の酒場が産声を上げた。
廃業寸前だった店を買い取ったばかりの少女は、古びた看板を掲げ終えると、水平線を眺めて悪戯っぽく微笑んだ。
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