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1-0 序章:静寂の代償と、欠落した理(レシピ)

 断崖絶壁の頂、潮風にさらされて白く褪めたログハウスのテラス。


 俺は、この銀鱗の港町エリュシオンの酒場で看板娘を務めるリーフが淹れてくれた茶を啜り、束の間の静寂を味わっていた。


 仕事という名の世界の調律を終えた後の、喉を潤す温かな液体。


 それは、かつて王都の地下で啜っていた、泥のように苦く濁った魔力回復薬マナポーションとは比べものにならないほど、五臓六腑に染み渡る。


 だが、その安らぎは、不吉な咆哮によって無残に引き裂かれた。


 ――ヴォォォォォオオォンッ!!


 港の方角から、空気を震わせる巨大な警笛が響き渡る。


 俺とリーフは、示し合わせたように窓辺へと駆け寄った。


 眼下に広がる港の景色。


 そこには、夕焼けに染まる穏やかな海面を割って現れた、異形の巨躯があった。


 巨大魔獣、テンタクルス。


 数百メートルにも及ぶ濡れた触手が、入港しようとしていた大型商船を蛇のように締め上げる。


 夕闇を切り裂く水飛沫と、絶望に満ちた船乗りたちの悲鳴が断崖まで届く。


「……演算けいさんが、一歩遅れたか」


 俺は呟き、窓枠に手をかけた。


 だが、まだ修正は間に合う。


「『凍れ』」


 俺の瞳に映るのは、のたうつ魔獣の肉体ではない。


 世界という巨大な織物を構成する、幾百万、幾千万のことわり記述きじゅつだ。


 虚空に指先で描いた、一行にも満たない極小の術式。


 それが、世界樹から流れる魔力の奔流を強制的に書き換えていく。


 爆音も、華々しい閃光もない。


 ただ、絶対的な静寂が、一瞬にして海を支配した。


 巨大な魔獣は、その細胞ひとつひとつ、魔力の脈動ひとつひとつを内部から静止させられ、一滴の血も流さぬまま、精緻な氷の彫像へと成り果てた。


 自重に耐えきれなくなった氷の巨躯が、キラキラと夕日を反射しながら、粉々に砕け散り海へと還る。


「ふぅ……」


 俺は短く溜息をつき、熱の引いた視線を室内に戻した。


 そこで、じっとこちらを見つめていたリーフと目が合う。


 彼女の瞳――普段は澄んだ紺碧色をしているはずのそれが、今は神秘的な琥珀色へと変じている。


 彼女が世界の真実を視ている証拠だ。


「……あー、なんだ。 今の件、他言無用で願いたいのだが」


「……どうして?


 ルシ、あなたは今、一国の騎士団が総出でも敵わないような災厄を、たった一言で消し去ったのよ?」


 リーフの瞳が、ゆっくりと元の紺碧色へと戻っていく。


 その眼差しには、驚きよりも深い困惑が混じっていた。


「静かな生活を、送りたいんだ。 誰にも指図されず、理不尽な命令も届かない。

 ただ、ゆっくりとした日常を過ごしたい。 それだけなんだ」


 リーフは少し首を傾げ、俺の言葉を吟味するように沈黙した。


 この断崖に建つ、風通しだけが良いボロ家を見渡し、やがて絞り出すように問いかける。


「……それって、いわゆる隠居生活スローライフってこと?

 でもルシ、このログハウスの周りを見てよ。

 畑を耕す土も、羊を放牧する草地もありゃしない。

 なにせ、ここは海に突き出した絶壁のてっぺんなのよ?」


 ……絶句。

 

 俺は愕然としながら、背中に嫌な汗が流れるのを感じた。


「……言われてみれば、そうだな。

 そこまで『環境の整合性』を考えていなかった」

 

 最適解を求めて走り続けた結果、肝心の生活基盤を見落とす。

 

 俺らしいと言えば、俺らしい欠陥だった。


 リーフは呆れたように肩をすくめると、悪戯っぽい笑みを浮かべて身を乗り出した。


「いい? 酒場に通ってくれれば、栄養のある料理は私が出してあげるわよ。

 掃除や洗濯は、そこでガタガタ動いている奇妙な自動人形ゴーレムたちがやってくれるのでしょうけど。

 ルシ、あなた……鏡を見てみなさい。

 自分でも分かっているでしょう?

 料理なんてこれっぽっちも出来そうにない顔をしているわ」


 俺は言われるがまま、壁に掛かった古びた鏡を覗き込んだ。


 映し出されたのは、理知の塊のような、しかしどこか生活感の欠落した無機質な少年の顔だ。


 なぜ、包丁を握ったこともないのが一目で見抜かれたのか。


「ルシは、魔法があれば万事解決だと思っているみたいだけど。

 料理はそんなに単純じゃないの。

 レシピを完璧に守って、必要な栄養素を過不足なく補給できればそれでいい――あんた、そんな顔をしているもの。

 それじゃあ、美味しい料理なんて一生作れないわよ。

 一番肝心な『真理』が抜けているのだから」


 俺は、今までにない衝撃を受けた。


 今までの食事など、効率良く活動するための燃料投下に過ぎないと思っていたからだ。


 俺は、恐る恐るリーフに教えを請うた。


「その……もっとも重要だという真理……隠された要素とは、何なんだ?」

 リーフは、少しだけ誇らしげに胸を張り、断言した。


「食べる人のことを想いながら、真心を込めるのよ。

 それが、この世で最も尊い加護だわ」


「なっ……そんな、数値化もできない不確かなもので……」


 ガックリと肩を落とす俺の両肩を、リーフががっしりと掴んで、前後に激しく揺さぶり始めた。


「そんなじゃない! ったく、あんた、今まで一体どんな暮らしを送ってきたのよ!」


 脳を揺さぶられる振動の中で、俺の意識は遠のいていく。


 今まで、どんな暮らしを?


 その問いに答えるように、俺の脳裏には、この銀鱗の港町エリュシオンへ辿り着くことになった発端――あの忌々しくも、どこか冷徹な断罪の日の光景が浮かび上がっていた。

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