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1-3 聖域:断崖の古屋と、師の遺した「記述」

 銀鱗の港町エリュシオンの喧騒を抜け、潮風に洗われた石畳をリーフと共に歩く。


 辿り着いたのは、入り組んだ路地の奥にひっそりと店を構える、蔦の絡まった不動産屋だった。


 古びた木製の扉には、潮気に晒され文字の褪せた『星霜の止まり木』という看板が掲げられている。


「ここまででいい。 案内ありがとう」


「まあまあ、ここの店主は偏屈だけど腕は確かなの。

 私が直接紹介してあげるから、ね?」


 リーフの強引だが温かい押しに、俺は抗うのをやめた。


 正直なところ、この見知らぬ土地で独り、最適解となる物件を引き当てるのは困難だという計算もなかったわけではない。


 カラン、と乾いた鈴の音が響き、扉が開く。


 店内は埃っぽい紙の匂いと、微かな魔導インクの香りで満たされていた。


「店主、新しいお客さんを連れてきたわよ。

 事前に伝えていた――そう、世界に絶望して、行き倒れる寸前だった人」


「おい、いつの間に連絡なんて……」


「この港町だって、世界樹の根が届かないわけじゃないわ。

 微弱な魔導通信くらい、酒場の裏から飛ばせるのよ」


 リーフは得意げに笑い、カウンターの奥で分厚い台帳をめくっていた初老の男に、軽く会釈した。


 店主は眼鏡の縁から俺をまじまじと見やり、値踏みするように鼻を鳴らす。


「……ほう。 死んだ魚のような目をしているが、芯は折れていないようだな。

 して、お前さんは何ができる?」


「……世界のことわりを綴ること以外、能がない」


 俺の答えを聞き、店主は数秒の間を置いてから、口元に薄い笑みを浮かべた。


「ふん、魔導師か。 希望の条件を言ってみろ」


「なるべく人が近寄らず、静かな場所がいい。 見晴らしが良ければなおさらだ」


 店主は顎髭を撫でながら、店の奥に貼られた巨大な街図に指を這わせた。


「隠遁希望の魔導師、ときたか。 それなら、あそこしかないだろうな」


「……まさか、あの断崖のログハウス?」


 リーフが声を上げると、店主は深く頷いた。


「ああ。

 あそこなら世界樹の枝……末端コンソールも生きている。

 魔導師が隠れて、在宅で理の調律でもするにはうってつけの環境だ。

 前の住人が去ってから久しいがな」


「確かに。 彼には理想的な仕事場(工房)かもしれないわね」


 俺を置き去りにして話が進んでいく。


 俺は眉をひそめて問いかけた。


「ログハウス……前の住人? それはどういう人物だったんだ」


「港の外れ、海に突き出した断崖絶壁の上に建つ古いログハウスだ。

 かつてこの町に逗留していた、変わり者の魔導師が自ら組んだと聞いている。

 名は確か……メギストスといったかな」


 その名が鼓膜を震わせた瞬間、俺の思考回路が一瞬、白く凍りついた。


 メギストス。


 俺に世界の理を教え、この不条理な世界を生き抜く術を授けてくれた恩師。


「……ひょっとして、メギストス=ファーレンという名か?」


「おや、知っているのか?  ああ、間違いない」


 店主が膝を叩く。


 隣でリーフが驚いたように目を丸くした。


「あら、ファーレンって貴方の苗字と同じじゃない。 親戚か何か?」


「……いや、師匠だ。 ファーレンの姓は、身寄りのなかった俺に師匠が授けてくれたものだ」


「じゃあ、最高の縁じゃない! まさか師匠さんの跡を継ぐことになるなんて」


 胸の奥で、冷え切っていた何かが微かに脈動するのを感じた。


 師匠はこの最果ての地で、何をしていたのか。


「師匠はここで、何をしていたんだ?」


「主にこの町の理の淀みを調律する傍ら、奇妙な魔道具やゴーレムをいくつも自作していたな。

 一人きりで、黙々と作業に没頭していたよ」


「一人……? 弟子は一緒ではなかったのか? 老武術家は?」


「ああ、少なくとも俺が知る限り、あそこに弟子の気配はなかったな。

 老武術家は居たな、たしか……バ・バ」


「バナードか?」


「ああそうだ、剛拳のバナード。 そっちとも知り合いか?」


「……ああ。 武術の方の師匠だ」


 メギストスとバナード。


 かつて俺を鍛え上げた二人の老人が、この地にいた。


 店主が感心したように声を上げる。


「お前さん、魔導武術師と言う事か。 魔導と武術、どっちが得意なんだ?」


「……魔導の方だけど」


「なら、問題無いな」


 俺は小さく首を振った。


 あの傲慢な兄弟子、シグルドの姿が脳裏をよぎる。


 師匠がシグルドにすら教えなかった秘密の拠点。


 そこなら、王都の追っ手も、あの男の執念深い視線も届かないはずだ。


「……いい。 案内してくれ」


 ◆


 港の喧騒が潮騒にかき消されるほど遠のいた頃。


 俺たちは、切り立った断崖の頂に立つ、一軒のログハウスの前に立っていた。


 海風に晒され、外壁の木材は白く枯れたような風合いになっているが、その造りは驚くほど頑丈だ。


 店主が錆びついた鍵を回すと、重厚な扉が低く唸りを上げて開いた。


 中は想像以上に荒れていた。


 積もった埃、乱雑に放置された書簡、そして機能を停止して久しい魔導回路の残骸。


 だが、窓から差し込む夕日は、眼下に広がる港町と水平線を燃えるような朱色に染め上げていた。


「……気に入った。 ここを買い取りたい。 いくらだ?」


「そうだな、一〇〇マナ・クレジットでどうだ。 実質、鍵の管理費程度だ」


 耳を疑うような安値だった。


 俺が王都から清算してきた額からすれば、端金に等しい。


「そんな値でいいのか? 裏を疑うレベルだが」


「代わりと言っちゃあなんだが、お前さんには週に一度、この町の『世界樹の調律』を任せたい。

 この町には理を読み解ける者がいなくてな。

 お前さんなら、師匠殿と同じようにやり遂げられるだろう?」


「……それくらいなら、造作もない」


 店主が差し出した羊皮紙の契約書に、俺は迷わず署名を刻んだ。


 手渡された真鍮の鍵。


 その冷たさと重みが、ようやく手に入れた自由の実感となって掌に伝わってくる。


「おめでとう、ルシ。 これで今日からここが貴方の根城ホームね」


 リーフが眩しい笑顔で祝福の言葉を贈ってくれる。


 埃まみれの室内を見渡しながら、俺はこれからの静かな生活に思いを馳せた。


 誰にも邪魔されず、ただ静かに、理の海を眺めて暮らす日々。


 だが、俺はこの時まだ知らなかった。


 このログハウスが、単なる住居ではなく、世界樹の根に深く接続された、世界で最も危険な秘密の入口であることを――。

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