3-7 深層:逆流する理(ことわり)と、二つの反旗
エリュシオンの地下深く。
潮騒の音が遠のき、代わりに重苦しい魔力の震動が肌を刺す神話時代の遺構へと、一行は足を踏み入れた。
かつて世界樹の根が直接マナを吸い上げていたというその場所は、今や迷宮と化し、理の乱れから生じた変異種が跋扈する魔窟となっていた。
先頭を行く俺が指先を弾くだけで、襲い来る魔獣は術式の連鎖によって塵へと還る。
リーフの精緻な援護、メギストスの広域殲滅魔導、そしてバナードの地響きのような剛拳。
伝説級の戦力が並ぶ中で、ただ一人、アイリス=ローゼンフェルトだけが異様な不協和音を奏でていた。
彼女の剣筋は硬く、踏み込みはぎこちない。
王都特務隊の精鋭とは思えぬその醜態を、ルシは無機質な瞳で見定めていた。
「……アイリス、動きが。 魔獣の牙を見るたびに、恐怖で硬直しているよ」
俺の指摘に、アイリスは顔を真っ赤に染めて唇を噛んだ。
何か反論しようと口を開くが、喉が引き攣り、言葉にならない。
彼女の脳裏には今も、荒野で自分を庇って肉塊へと変わった戦友たちの末路が、鮮明な記憶の残滓となって焼き付いているのだ。
魔獣の咆哮を聞くたびに、死臭の漂う戦場へと意識がフラッシュバックする――トラウマだった。
「その『汚染された記憶』を消去すれば、君の剣筋は元に戻る。
望むなら、俺が君の精神領域に干渉して、その苦痛を上書きしてあげようか?」
俺の淡々とした提案に、アイリスは激しく首を振った。
「……断りますわ!
仲間の最期を……彼らが私を繋いでくれたという証を、都合よく消し去るなど……私には、到底許容できませんわ!」
震える手で剣を握り直す彼女の瞳には、消えぬ悲しみと、それを背負って進むという悲壮な決意が宿っていた。
俺はそれ以上何も言わず、ただ彼女の歩幅に合わせて、歩速をわずかに調整した。
◆
その頃、東の王都。
そこは、二つの巨大な憎悪の渦が、シグルドという一人の男を呑み込もうとする内憂外患の渦中にあった。
命からがら荒野を脱し、負傷した仲間を連れて戻った特務部隊一個師団の半数は、無情な鉄格子の前で絶望の淵に立たされていた。
『功績を上げぬ者に、王都の土を踏む資格はない。
大罪人を逃し、任務を放棄した無能者に与えるパンも、薬も、ここには存在しない』
城壁の上から響いたのは、シグルドの冷徹な宣告だった。
魔導通信で最後に突きつけられた呪縛が、物理的な門となって彼らを拒んでいた。
シグルドは徹底していた。
近隣の村々に対し、
「彼らは大罪人を捕らえ損ねた不浄の者であり、港町にすら辿り着けなかった腰抜けだ」
と虚偽の伝令を飛ばし、彼らへの一切の援助を禁じたのだ。
助けられるはずだった命が、冷たい石畳の上で、一つ、また一つと消えていく。
「……あいつだ。 最大の元凶は、ルシではなく……あの男だ」
血を吐きながら息絶えた戦友を抱き、生き残った兵士たちの憎悪が、シグルドという一点に集約されていく。
彼らにとって、シグルドはもはや倒すべき邪悪へと変貌していた。
シグルドは、自身が王都の外に最強の反旗を翻す軍勢を、自らの手で作り出してしまったことに、まだ気づいていなかった。
だが、真に深刻なのは城壁の内側、王都の中枢を支える、魔導師団にもあった。
「団長、これ以上の出力増加は危険です! 世界樹の根幹が悲鳴を上げています!」
「黙れ! 私の計算に間違いはない!
記述を無理やり繋げろ、お前たちが無能だから安定しないのだ!」
シグルドの怒号が管制室に響く。
彼は自身の理解を超えた世界樹の不調に対し、現場の魔導師たちを、消耗品として酷使することで無理やり蓋をしようとしていた。
魔導師たちは、シグルドの的外れな指示のせいで、過剰な魔力負荷に晒され、次々と精神を焼き切られて倒れていく。
かつてルシが座っていた場所には、今や怨嗟と絶望だけが溜まっていた。
「……ルシなら、こんな無茶はさせなかった」
「ああ。 あの男は、自分の無知を隠すために、俺たちを殺す気だ」
シグルドは、自身を支えるべき魔導師団までもが、自分を排除すべき対象として見なし始めていることに、全く気づいていなかった。
内(魔導師団)からも、外(特務部隊)からも、彼への殺意は臨界点に達していた。
◆
遺跡の最深部、巨大な『魔力集積所』。
そこに辿り着いた俺たちが見たのは、想像を絶する光景だった。
本来ならば、大地から吸い上げられ、王都へと流れるはずの魔力の奔流が、行き場を失って逆流し、集積所の回路から溢れんばかりに膨れ上がっていたのだ。
「……やはりか。 シグルドが行っている延命措置は、延命などではない。
ただの全閉鎖だ」
俺は溢れ出すマナに手をかざし、その波動を読み解く。
「世界樹を強引に停止させ、外部との接続を遮断したせいで、マナの循環が完全に止まっている。
行き場を失った魔力脈は逆流し、この港町の地下を内側から破壊しようとしているんだ。
このままでは、王都周辺の魔力は枯渇し、逆に末端のこの街は、魔力の過負荷で消滅する」
シグルドの犯した致命的なミス。
それを正すには、直接王都へ行き、世界樹の中枢を再定義するしかない。
俺は周囲に数千、数万の魔導文字を展開し、暴走するマナの九割を大地へと還すバイパスを構築し始めた。
芸術的ですらある、精密な流体制御の術式。
荒れ狂うマナの濁流が、俺の指先が描く道に従って、穏やかに大地の奥深くへと逃がされていく。
その光景を、アイリスは沈黙したまま見つめていた。
シグルドが接収せよと命じた古代遺物など、ここには存在しない。
あるのは、暴走する世界の脈動を、たった一人で御してみせる少年の背中だけだ。
(……この人は、壊そうとしているのではないですわ。 救おうとしているのだわ)
王都で聞かされた大罪人の虚像が、音を立てて崩れ去っていく。
アイリスの中で、シグルドへの不信感は決定的なものとなり、同時にルシという存在への、新たな信頼が芽生え始めていた。
「ルシ……作業が終わったら、もう一度、貴方の『真実』を話してくれませんこと?」
地下遺跡の闇の中で、世界の歪みを正すための新たな理が、静かに、だが力強く脈動し始めていた。
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