3-5 予兆:深淵の不協和音と、理の防波堤
窓の外、銀鱗の港を撫でる風が、一瞬だけ湿り気を帯びた不穏な冷気を運んできた。
大魔導師メギストスは、空になりそうなミードの杯を見つめたまま、地底の奥底を探るような重々しい口調で語り始めた。
「……わしらが平穏なログハウスを引き払い、姿を隠してまでこの港の界隈に潜伏しておった理由じゃがな。
……この街の近海、その深淵において、本来ならば存在し得ぬはずの『理の歪み』を感知したからじゃ」
メギストスは杖の頭にある魔石を軽く叩いた。
すると、机の上に淡い光の粒子が広がり、エリュシオン周辺の立体的な魔導地図が浮かび上がる。
「調査のために拠点を移し、海底の底を流れる魔力の奔流を観測し続けておった。
……だが、先ほどまでのお主の話を聞いて、ようやく点と線が繋がったわい」
メギストスは、投影された地図の東の方角――王都ユグドラシルがある地点を指差した。
「王都において、シグルドたちが世界樹の記述を無理やり継ぎ接ぎし、強引な延命措置を繰り返した結果……その歪みが『破綻の余波』となって、大地の底を流れる魔力脈を伝い、この港町の深層にまで染み出し始めておる。
シグルドが撒き散らした毒が、血管を伝って指先まで回ってきた……そう結論付けて良さそうじゃ」
メギストスは忌々しげに吐き捨て、残った蜂蜜酒を一気に飲み干した。
ルシは、机上の魔導地図をじっと見つめ、自身の視覚に展開された解析領域と照らし合わせる。
「大地の魔力脈……。
なるほど、地表の術式層や空間の魔素の清浄化には注力していましたが、地下深くの深層循環までは完全に把握できていませんでした。
流石は師父、観測の視座が広い」
感嘆する弟子に対し、傍らのバナードが豪快に肩をすくめた。
「何、仰々しいもんじゃねえ。
趣味の釣りをしていた時、海面の律動が妙に不自然なことに気づいただけだ。
……だが、ルシ。
お前が施した『限定的な理の再起動』のおかげか、今のところ地層への汚染は防波堤でせき止められたように静まっておるぜ」
バナードの言葉は、俺の構築した防御陣が、意図せずとも地下の汚染すらも一時的に遮断していたことを示唆していた。
しかし、メギストスの表情は晴れない。
再び重い口を開く。
「……今は、な。 じゃが、大陸全土を巡る魔力脈の奔流は、いわば巨大な濁流じゃ。
いくらお主の記述が神域にあろうとも、一個人の演算能力で自然の猛威を永遠にせき止めることは出来ぬ。
いつかその堤防が決壊すれば、エリュシオンは内側から魔力の爆発に呑み込まれるじゃろう」
「……確かに仰る通りです。
応急処置としての遮断ではなく、大地の魔力脈そのものを定常的に制御し、歪みを中和し続ける『常設型の制御術式』を構築する必要がありますね」
俺の思考は既に、この問題を解決するための設計図を描き始めていた。
その様子を見ていたバナードが、ニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「メギストス、例の場所はどうだ?
わしらが今、拠点にしているあの古の遺跡の奥だ。
あそこには世界樹の根が直接届いているような、巨大な魔力の集積所があっただろう。
……二人では、奥の防衛術式を解くのに手間取って引き返したが、そこにこの坊主が加われば話は別だぜ」
バナードが提案したのは、エリュシオンの地下深くに眠る、神話時代の遺構だった。
そこならば、街全体の魔力循環を根底から調律し直すための制御杭を打ち込むことができる。
すると、それまで甲斐甲斐しく給仕をしていたリーフが、すっとルシの隣に並び、凛とした声を響かせた。
「あら、三人ではなく『四人』ですわ。
当然、私も同行します」
メギストスは驚いたようにリーフを見上げた。
「……しかし、嬢ちゃん。
お主の本体は、この酒場を維持する術式の要ではないのか?
外へ出るなど……」
「忘れないでください。
私は世界樹から分かたれた記述体。
実体化した今の私であれば、ルシの演算を補助しつつ、遺跡の深層にある古い契約を上書きすることなど造作もありません」
リーフの瞳が、静かな琥珀色の光を放つ。
その存在感は、かつて世界樹の傍らにいた頃よりも、どこか力強く、そして人間的な意志を宿していた。
「……ふむ。
それだけの力があれば、十分な戦力じゃな。
よし、決まりじゃ。
明日にも、その深淵の遺跡へ……」
メギストスが言いかけた、その時だった。
――ガァァァァァン!!
静寂に包まれていた酒場『潮風亭』の重厚な木扉が、一人の騎士が倒れ込みながら開けられた。
潮風と共に流れ込んできたのは、潮の香りではなく、焦げ付いた魔力と、絶望を煮詰めたような血の匂い。
入り口に横たわるようにして立っていたのは、ぼろぼろになった銀の甲冑を纏い、片腕をだらりと下げた一人の女騎士。
王都の紋章が刻まれたそのマントは泥と返り血で汚れ、彼女の瞳には、死線を越えてきた者に特有の、狂気じみた光が宿っていた。
「……ここが……『不自然なほど静かな』……街……ですの」
王都特務一個師団の唯一の生き残り、アイリス=ローゼンフェルト。
彼女の出現が、平穏を取り戻しつつあったエリュシオンに、王都のいざこざを連れてくる予兆となった。
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