3-3 邂逅:静寂の聖域と、理を穿つ剛拳
琥珀色の光に導かれ、老兵二人は酒場『潮風亭』の重厚な木扉を押し開けた。
その瞬間、大魔導師メギストスの全身に、総毛立つような戦慄が走った。
一歩足を踏み入れた店内の空気――それが、外の世界とは完全に隔絶された異界であったからだ。
そこには、魔力の淀みが一切存在しなかった。
通常、人が集う場所には感情の昂りや呼吸に伴う微細な魔力の乱れが生じるものだが、この酒場を満たすマナは、生命の根源に触れるほどに深く、鏡面のごとく凪いでいる。
あまりに完璧すぎる生存の最適化。
メギストスは、無意識のうちに愛用の古木の杖を構え、防御の術理を練り上げた。
「……なんじゃ、この場所は。
理が……生物の限界を超えて安定しておる」
メギストスの視線は、迷うことなく窓際の席へと向けられた。
そこには、海を背に静かに蜂蜜酒を嗜む一人の青年がいた。
かつての記憶にある五歳の少年の面影を残しながらも、その瞳には星々の運行さえも見通すような、底知れぬ理知の光が宿っている。
メギストスが、震える声を絞り出した。
「……お主か。
この銀鱗の港エリュシオンの理を、跡形もなく書き換えた化け物は」
青年は、ゆっくりとグラスを置いた。
その動作一つをとっても、周囲の魔力流を一切乱さない。
「ええ、そうです。 お久しぶりです、師父メギストス。 それにバナード師匠も」
「……その声、その佇まい。 まさか、ルシ……ルシなのか!?」
俺は、悪戯っぽく口角を上げた。
「ええ、間違いありませんよ。
ただの掃除(手入れ)をしただけなのですが、少し念を入れすぎましたかね。
……声変わりをしたので、すぐにはお分かりいただけませんでしたか?」
平然と微笑むかつての弟子。
その「ただの掃除」という言葉に、メギストスは再び戦慄した。
彼が神域と感じたこの静寂を、この青年は日常の清掃程度にしか捉えていないのだ。
その時、沈黙を守っていたバナードが、一歩前に踏み出した。
「……御託はいい。 メギストス、下がっていろ。
わしが直接、この目で確認させてもらう」
空気が爆ぜた。
バナードの巨体から放たれたのは、魔力ではなく、純粋な意志の結晶たる闘気を纏った剛拳。
鋼鉄の門をも紙細工のように引き裂く一撃が、ルシの眉間を目掛けて最短距離を奔る。
だが、俺は身じろぎ一つしなかった。
衝撃が俺の顔面に到達する寸前、空間がわずかに歪んだ。
俺は回避も防御も行わず、ただ指先を微かに動かしただけだった。
バナードの拳が持つ運動の理(物理エネルギー)が、ルシの展開した不可視の術式によって瞬時に中和され、熱量へと置換・霧散していく。
衝撃波すら発生しない。
俺の目前にある蜂蜜酒の表面は、さざ波一つ立たなかった。
俺は同時に闘気で強化した掌で、勢いを失ったバナードの拳を静かに、かつ確実に受け止めた。
「ほう……なまっているかと思ったが。
基本の型は忘れていないようじゃの」
バナードが、驚嘆と満足の混じった笑みを漏らす。
「世界樹の調律ばかりしていると、記述の演算に没頭して体が硬くなってしまいますから。
ストレッチと闘気の体内循環だけは欠かさず行っていましたよ、バナード師匠。
……ですが、やはり今の剛拳を真正面から受けるのは骨が折れます。
魔法による物理法則の減衰を併用させていただきました」
「ふん。 だが、酒を一口も溢さず、わしの拳を掴んだのだ。 誇ってはどうかの?」
「いえ、やはりなまっていますよ。
ここに来る途中の荒野で、少しばかり魔物や魔獣に手間取ってしまい……結局、周囲を魔術で殲滅してしまいましたから。
もしまた鍛え直して頂けるのであれば、喜んで師事いたします」
謙虚ながらも、その言葉の裏にある魔獣を魔術で消し去ったという事実が、師匠たちの背筋を凍らせる。
そこへ、トレイに乗せた二人分の蜂蜜酒を携え、リーフがやってきた。
「師匠さんたちとの挨拶は終わったの? ルシ」
「ああ、リーフ。 ちょうど今、旧交を温めていたところだよ」
メギストスとバナードは、その女性の姿を見て、今度こそ絶句した。
「……リー、フ?
あの、世界樹に付随していた自律型術式の『リーフ』か!?
伝説の記述体が、実体化できたというのか……?」
「そのあたりの経緯は、おいおいお話ししましょう。
時間は、この街の潮風のようにたっぷりありますから」
俺が促すと、二人は毒気を抜かれたように、向かいの席へと腰掛けた。
リーフもまた、当然のようにルシの隣に腰を下ろし、甲斐甲斐しく酒を注ぐ。
俺は、窓の外で静かに輝くエリュシオンの風景を見つめ、思考を巡らせた。
「さて、何からお話ししましょうかね。
王都が犯している『致命的な論理ミス』のことか、それとも……」
五年間の空白。
かつて世界から切り捨てられた少年と、彼を救った師匠たちの、運命を変える対話が幕を開けた。
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