14-2 王国への負荷分散
エリュシオンの街から授かった黄金の翼は、確かに絶望の淵にいた俺たちを救い上げた。
だが、見上げる空――世界樹ユグドラシルの巨躯は、その輝きさえも飲み込まんとするほどに巨大で、禍々しい。
惑星の血液とも呼べる膨大な魔力を独占し、神の理を執行し続けるそのシステムを解体し、再構築するには、一都市の魔力供給では大海に注ぐ一滴の清水に等しかった。
(……足りない。 これだけじゃ、神の心臓を止めるための上書き(アップデート)が完了する前に、俺の精神が焼き切れる……!)
俺は、隣で剣を振るい、止むことのない敵の攻勢を押し留めているアイリスを見た。
返り血を浴びながらも一点を見据える彼女の凛とした横顔には、かつて王国の特務部隊の一人の騎士として、修羅場を戦い抜いてきた強固な意志が宿っている。
彼女は、血筋や称号ではなく、その剣一本で今の地位を築き上げてきた女だ。
「アイリス! 頼みがある……!」
「ルシ? 何が必要か言ってくださいませ。
私の命なら、とうに貴方に預けていますわ!」
激しい衝撃波の中で、彼女は迷いなく答えた。
俺は首を振る。
必要なのは彼女の命そのものではなく、彼女が王国という場所で、血を流しながら積み上げてきた信頼と絆だった。
「王国全土の魔力脈を、一時的に俺に預けてほしい。
……あの大陸を覆う魔導塔のネットワークを中継器にしなければ、この神殺しの演算は成立しないんだ」
アイリスの瞳が、驚愕にわずかに揺れた。
それは一国の生命線を、一人の放浪の魔導師に委ねるという、歴史上類を見ないほど無謀な要求だ。
国家の安全保障を投げ打つに等しいその決断。
けれど、それが唯一の選択肢であることを、彼女の理性が瞬時に理解する。
「……わかったわ。 特務部隊の秘匿回線を使うわ。
私の言葉なら、今の暫定政府の師団長たちも耳を貸すはずですわ」
アイリスは剣の柄に刻まれた、獅子と薔薇の紋章に手を当てた。
それは王国の命運を影から支える特務部隊の、副長以上の階級を持つ者のみに許された、最高優先度の通信権限。
シグルドの反乱、そして王都の壊滅という未曾有の危機を乗り越え、辛うじて国を支えている暫定政府――各師団長たちが集う最前線の指令部へと、彼女の声が時空を超えて響き渡る。
『こちら、特務部隊副長アイリス=ローゼンフェルト!
全師団長へ告ぐ。
今、私たちの目の前で、宮廷魔導師団副団長ルシ=ファーレンが世界を救うために戦っていますの。
……彼を信じなさい。
彼に、王国のすべての灯を預けることを、私が保証しますの!』
通信の向こう側で、一瞬の静寂ののち、息を呑む音が聞こえた。
かつての仲間。
かつての部下。
そして、かつては陰謀によって追い落とされたが、今はシグルドの呪縛から国を救った真の英雄として、その背中を追ってきた魔導師たちだ。
『……アイリス殿、了解した』
重厚な、聞き覚えのある声が返ってきた。
それはかつてルシを副団長として仰ぎ、その背中を見て育った現在の暫定政府を率いる師団長の一人だった。
『我々は、シグルドの呪縛から国を救った彼を信じている。
……王国の魔導師たちよ! 全魔導塔、ロックを解除せよ!
すべての門を開き、英雄ルシに、我らの魔力を、国の意志を捧げよッ!!』
その瞬間、大陸全土に異変が起きた。
王都の廃墟、賑わう地方都市、そして荒野に立つ辺境の砦。
王国中に点在する数千の魔導塔が、まるで眠りから覚めた巨人のように一斉に光り輝いたのだ。
ルシの意識が、アイリスが命懸けで繋いでくれた道を通って、大陸全土へと溶け出していく。
「……ああ、聞こえる。 みんなの音が……」
かつて、卑劣な陰謀によって追放された時、俺は二度とこの国の土を踏むことはないと思っていた。
組織の腐敗に絶望し、誰も俺を信じてはくれないと、暗い雨の中で独りごちたあの日。
だが、今、俺の指先には、かつての同僚たちが、後輩たちが、「副団長!」と呼びかけながら己の魔力を惜しみなく送り込んでくる、火傷しそうなほどに熱い感触が伝わってくる。
「これより、王国の全魔力脈を私の管理下に一時置く。
……みんな、力を貸してくれ。
今度こそ、誰もが笑って暮らせる世界を構築する!」
ルシの声が、大陸中の魔導塔から、街の拡声機から、そして魔導師たちの心へと直接響き渡った。
歓喜の渦が、物理的な振動となって大陸を揺らした。
「ルシ様だ! ルシ様が帰ってきたぞ!」
「副団長! 俺たちの魔力、全部持っていってください! あんたなら使いこなせるはずだ!」
政治的な混乱で機能不全に陥りかけていた暫定政府が、この瞬間、ルシを支えるという唯一絶対の目的の下で、完璧なバックアップ機構へと変貌を遂げた。
王国全土を走る巨大な地脈――レイライン。
それがルシの意志という一本の糸で束ねられ、一つの巨大な大陸規模の魔導回路へと昇華していく。
エリュシオンの街から授かった黄金の翼が、王国の全エネルギーを吸い上げてさらに巨大化し、眩い白銀の光を帯びて空を焼き払った。
「馬鹿な……!? 一国の魔力を、一人の人間が、これほど精密に制御し、調和させているというのか……!?」
化身の驚愕は、もはや恐怖へと変わっていた。
神が支配していたのは強制による統治だ。
だが、今、俺が成し遂げているのは、人々の意志が共鳴し合うことで生まれる、いかなる神の法式をも超えた奇跡だった。
俺の指先一つで、数千キロ彼方にある大陸の果ての魔導塔が火を吹き、神の攻勢を相殺していく。
俺の脳裏には、王国で過ごした日々が走馬灯のように駆け巡った。
訓練場での汗、徹夜で世界樹の調律、そしてシグルドの冷笑に耐えた日々。
そのすべてが、今、この神殺しという壮大な作業の部品となり、かけがえのない経験として肯定されていく。
(……アイリス、ありがとう。 君が繋いでくれたこの光、一滴も無駄にはしない)
隣で剣を構えるアイリスは、誇らしげに微笑んでいた。
彼女が愛した王国が、彼女が信じたルシと共に、今、真に一つになっている。
だが。
王国全土という、人智を超えた供給を得てもなお、ルシの瞳に浮かぶ緊張は消えなかった。
世界樹ユグドラシルの根は、この大陸だけに留まらない。
海の向こうの他国、雪に閉ざされた未知の領域、そして言葉も通じぬ異種族の住まう地。
この惑星のすべてを神の手から解き放つには、王国という一つの国の力だけでは、まだ、決定的な全生命の承認には届かないのだ。
「……次は、世界だ」
俺は、さらに巨大化した光の翼を羽ばたかせ、未だ見ぬ世界の果てへと、自身の魂を繋ぐための共鳴を広げようとしていた。
王国の英雄から、世界のアーキテクトへ。
ルシ=ファーレンの孤独な戦いは、いまや全生命を巻き込んだ、壮大な明日のための契約へと突入していく。
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