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12-3 エルフィの感性:空気が寂しがっている

 俺とリーフが顔を見合わせ、重い沈黙に耐えかねて行き止まりの壁に背中を預けたその時だった。


「ルシお兄さま……、リーフ姉さま」


 エルフィだった。


 エルフィが、おどおどとした様子で、だが何かを確信したような瞳で、俺たちの前に一歩踏み出した。


 解析と論理が敗北したこの場所で、彼女の感性が、俺たちには見えない世界の綻びを捉えようとしていた。


 死光のような静寂を裂いて、鈴を転がすような、けれど微かに震える小さな声が響いた。


 彼女はおどおどとした様子で、自分の胸元をぎゅっと握りしめている。


 だが、その翡翠色の瞳は、俺たちが見つめている物理的な壁や魔導回路ではなく、もっと別の、形のない、実体のない何かを真っ直ぐに見つめていた。


「エルフィ? どうかしたのか。 何か……怖いものでも見えたか?」


 俺が歩み寄って問いかけると、彼女は首を横に振り、玉座の真横、何もないはずの虚空をそっと指差して、ポツリと呟いた。


「……ここ、空気が寂しがっています。 とても、悲しい匂いがするの」


「空気が、寂しがっている……?」


 リーフが不思議そうに眉をひそめ、自身の感覚を研ぎ澄ませる。


 しかし、解析眼を維持している俺の視界には、そこにはただ一定の密度を持った無機質な大気が存在するだけで、魔力的な歪みも、空間のねじれも、一切検知されていなかった。


「はい。 さっきから、私の中にいる12人のあの子たちが、ずっと耳元で囁くんです。

 ……『そこにあるべきなのに、隠されている隙間があるよ』って。

 それは、目に見える光の屈折でも、魔力の流れでもなくて。

 もっと、ずっと長い間、誰かを待っているような……温もりを忘れてしまった『心の隙間』ですわ」


 エルフィは導かれるように、ゆっくりとその何もない空間へと歩み寄った。


 彼女は、実験体として幽閉されていた12人分の子供たちの感性と集合知、そして世界樹の核(母)から直接授かった理の根源的な想いをその身に宿している。


 俺やリーフが理という数式に基づいてそこに何があるかを暴こうとしたのに対し、彼女はそこに何があるべきかという、千年前の設計者がこの場所に込めた、祈りに似た願いを直接感じ取っていたのだ。


「ルシお兄さま。 ここには、鏡みたいな嘘が張られています。

 ……怒りや疑いの心、あるいは『正解』を探そうとする鋭い心で近づくと、何も映さない、ただの壁になってしまう鏡。

 でも……誰かと離れて過ごす寂しさを知っている人なら、この鏡は透き通って見えるはずです」


 エルフィがその凍てついた空間に、そっと、愛し子を撫でるような手つきで手を伸ばした。


 ――その瞬間、俺の解析眼が突如として狂い始めた。


 正常な数値を刻んでいた空間の座標軸が、まるで吹雪に乱される磁針のように激しく乱高下し、何もないはずの虚空から、静かな湖面に広がる波紋のような青白い歪みが生じたのだ。


「……っ、空間の隠蔽術式か!? いや、違う。 これは魔導回路の構築による遮蔽じゃない。 ……人間の感情の周波数を引き金にした、精神共鳴型の隠し扉か!」


 驚愕が走る。


 俺の解析眼は存在する理を解読し、分解することには長けている。


 だが、誰かの想いそのものを鍵とし、その想いに応じない者には存在すら感知させないという、高次的な理までは捉えきれなかったのだ。


 エルフィの純粋な、そして誰よりも深く孤独を知る感性が、神殿の深淵に眠る寂しい空気と共振し、千年の封印を優しく解き放っていく。


「ネロ……来て。 あなたの手を貸して。 一人じゃ、この扉はまだ少しだけ、寒がっているから」


 エルフィが振り返り、同じく兵器としての孤独を背負わされた少年、ネロを呼ぶ。


 ネロは戸惑いながらも、吸い寄せられるように彼女の隣に立った。


 二人が並び、互いの手の温もりを確かめ合うようにして空間に触れた瞬間、歪みはより一層の輝きを増し、眩い光の粒子が粉雪のように舞い上がった。


「見て、ルシお兄さま! 扉が……泣き止んで、笑い始めましたわ!」


 エルフィが、少女らしい弾んだ声を上げる。


 彼女が指し示した先――巨石の玉座の背後の壁が、まるで古びた幻影が春の陽光に溶けるようにさらさらと崩れ去った。


 そこには、地底のさらに奥深く、誰も知ることのなかった深淵へと続く、吸い込まれるような漆黒の階段が口を開けていた。


 俺とリーフは、ただ呆然とその光景を眺めるしかなかった。


 俺が展開した約千八百京の術式も、リーフが持つ世界樹の管理権限も、エルフィが感じ取った空気が寂しがっているという、たった一言の切実な感性には、逆立ちしても及ばなかったのだ。


「……完敗だよ、エルフィ」


 俺はふう、と憑き物が落ちたような溜息をつき、彼女の柔らかい髪を優しく撫でた。


「俺には、空気が寂しがっているなんて……そんな風に世界を視ることは、どうしてもできなかったよ」


「えへへ……。 私、ルシお兄さまのお役に立てて、本当に嬉しいです」


 はにかむエルフィの背後で、新たに現れた階段の奥底から、冷たいはずの風が吹き抜けてきた。


 その風には、なぜか微かな潮の香りと、心臓の鼓動のような温かな魔力の律動が混じっていた。


 論理と解析の果てには辿り着けなかった、神殿の心。


 俺たちはエルフィが開いてくれたその聖域へと、一歩ずつ慎重に、だが昨日までよりもずっと確かな絆を胸に、深く、深く降りていった。

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