2-0 発現:特異点の同期と、魂の初期化
意識の底に沈殿している、最古の記憶を紐解く。
そこにあるのは、冷遇された親戚への恨みでも、物心つく前に亡くした両親への思慕でもない。
視界を焼き尽くす白と、神経を凍りつかせた青の閃光。
そして、それまでの人生という名の短き記録が、一瞬で上書きされていく剥き出しの絶望だ。
五歳の俺にとって、世界はまだ、触れれば壊れてしまうほどに曖昧な、色の付いた画用紙のようなものだった。
村の境界。
大人たちが神の依り代と呼び、決して近づいてはならないと禁じていた場所。
口減らしのために、追放同然に置き去りにされた禁忌の森。
そこには、地表に露出した世界樹ユグドラシルの枝――端末が、脈動する巨大な宝石のように鎮座していた。
幼い好奇心か、あるいは避けられぬ運命の引力か。
俺は、その深淵へと足を踏み入れた。
静寂が重く圧し掛かる森の奥。
地を這う銀色の根が、まるで血管のように脈打っている。
その中心で、淡いサファイア色の光を放つ結晶体が、世界そのものを支える重厚な低音を響かせていた。
「きれいだ……」
伸ばした指先。
それが冷たい結晶の表面に微かに触れた、その瞬間――。
――ッ!?
絶叫すら、喉を通る前に魔力の不協和音へと変換された。
五歳の子供の未発達な神経系に、世界樹が保持する全事象・生のデータが直接、並列で流し込まれたのだ。
それは情報の洪水という生易しいものではなかった。
村の土壌に含まれる養分比率、明日の昼過ぎに降る雨の確率、南から吹く気流が木の葉を揺らす角度の演算式、そして――いまこの瞬間、大陸の裏側で死にゆく命が撒き散らす、絶望という名の波形データ。
それらは現象ではなく、冷徹な数式と論理の羅列として、俺の脳を蹂躙した。
『……適合……開始。 個体識別:ルシ。
これより……全記述の同期を実行します……』
頭蓋の内で、自分のものではない無機質な意思が響く。
五歳の俺の体は、世界樹という巨大な演算系の末端端末として、強制的に再定義されていく。
血管を流れるのは血液ではなく、高純度の魔力流。
心臓の鼓動は、一秒間に数億の演算を刻むクロック周波数へと変質していく。
自我が、底なしの情報の海に飲み込まれていく。
僕という存在が、世界を維持するための膨大な定数の中に埋没し、消えていく。
昨日まで大好きだった花の匂いも、微かに覚えていた母の手の温もりも、すべては再現性の低い不要なノイズとしてパージされていく。
意識が、白く塗り潰される。
このまま同期が完了すれば、俺は肉体を持ったまま、ただの演算器として世界樹の一部になり、永遠にその場に固定されるはずだった。
――だめだ。
――ぼくが、きえちゃう。
五歳の俺の、最後のか細い生存本能が、真っ白な世界で無音の叫びを上げた。
その瞬間だった。
「――馬鹿なッ! 人間の子供が、端末と直結しているだと!?」
ノイズにまみれた視界の端。
地獄の底から響くような、驚愕の声。
銀髪を荒々しく振り乱した老魔導師、メギストスの姿がそこにあった。
そしてその隣には、俺と同年代か、少し年上の少年が立っていた。
のちの兄弟子シグルドは、怯えたように、けれどその瞳の奥には、どす黒い好奇心と、自分より優れた素材を見つけた時の嫉妬を宿して、俺を凝視していた。
「メギストス先生!
この子供、世界樹の理を直接書き換えています!
逆流で死ぬはずなのに、耐えている……!」
「黙れ、シグルド! 今すぐ救出を試みる。
……だが、既に神経系の七割が同調している。
普通に引き剥がせば、この子の魂は砕け散るぞ」
メギストスが空中に巨大な術式を構築し始める。
それは、五歳の俺を人間として救うための魔法ではなかった。
世界樹の暴走を止めるための、極めて高度で非情な、緊急遮断術式だった。
メギストスの杖が地面を突くと、俺の体に繋がっていた無数の銀色の根が、火花を散らして弾け飛んだ。
「――ぐ、あ、あああああああッ!!」
初めて、声が出た。
それは魂を半分に引き裂かれるような、根源的な痛み。
世界樹から無理やり切り離された衝撃。
だが、メギストスの術式は、俺の肉体の中に世界樹の一部をあえて残したまま、外部との通信を物理的に遮断した。
俺の体は、世界樹の記述を宿したまま、人間としての輪郭を無理やり縫い合わされた、歪な半端末へと変貌を遂げたのだ。
崩れ落ちる俺の小さな体を、メギストスが抱きかかえる。
俺は薄れゆく意識の中で、自分の指先を見つめた。
そこには、もはや人間らしい血色はなかった。
透き通るような白。
そして瞳の奥に焼き付いたのは、数字と論理の奔流。
この日を境に、俺の時間は凍結された。
成長という名の変化を拒み、老いという名の劣化を許さない。
世界樹の理を綴り続けるための永遠の少年。
これが、ルシという存在の、真の初期化。
愛も、温もりも、未来も。
すべてを、世界を構成する術式の等価交換として差し出し、俺は魔導師となったのだ。
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