【第四十一話】僕の分まで笑わなくていい、だから僕の分まで泣かなくていい
『渾濁の胎眼』
中に小さな死体が収められた青黒い玉。
持っていると人間性の闇が集まりやすくなる。また力を注ぎ続けると成長し その効果を増すという。
水晶のように透き通るそれは 誕生を許されなかった奇形児の棺であり 今や失われ 冒涜的と唾棄される。たとえ叶わぬ願いと知っても、親は子に夢を見てほしいものである。
勘違いをしていた。
自分は神だと、自分は、人間の神だと。選ばれし存在だと驕っていた。
結果だけで見れば、それでよかったのかもしれない。
けれども、この異常遺跡で最も大事なのは過程だ。遺ったものが、何故残ったのかを考える。死者、司祭、少女、龍。歪に捻じ曲がってしまった者たちが、元は何であったかを知るべきなのだ。
そして俺は、その最奥の真相を目の当たりにした。
奇跡は起きた。黒の獣と白の聖女は、光の円環輪に包まれ、光球に覆われて地に堕ちた。化け物として怪物になってしまった二人の人間は、その力を解かれて人へと回帰したのだ。
最初に目を覚ましたのは獣だった男―我らがフルトーさん。奇跡は彼の身に着けていた物を危険因子と判断したのか、見事に全裸。見るだけで惚れ惚れするような理外の美貌を、惜しげもなく露わにしていた。そうして無防備で、経験と直感を持つ彼であるのならば真っ先に待機している仲間―霊体契約の三人組を呼ぼうする筈だ。しかし、彼は何の躊躇いもなく目の前―自分と同じくして堕ちた敵の元に歩み寄った。
彼は黒い泥のような水面に抱えるように手を入れ、何かを引き揚げた。それを覆い隠すように被さる黒水を払い除けると、そこには静かに眠る女性がいた。
現在と、かつての現在。物語の主人公達は、奇跡に止められ、ただの彼らとして邂逅を果たした。
ただの死体のように、理不尽なまでに整えられた美しいその少女が、本当は今までの脅威の元凶だなんて…だが、彼がそれを知っていた理解していたとしても、彼のやることは変わらなかったと思う。彼はただ、千差万別もせずに、身勝手な慈悲で"自称善人"になるんだ。
彼は微笑んだ。ただすべき感情に合わせているだけなのか、それとも心の底からのものなのかは判らない。はっきりと言えるのは、その自然な笑顔はとてもよく似合っていた。そして確信があった、それこそが彼が与えられる最も平等な安らぎなのだと―彼は自分の持てる最善で最高を尽くしているのだと。
傷だらけの体の男は、傷一つない笑顔で、無垢を装われた少女の冷たい唇と重ね合った。その光景は神秘的で、その実が如何に悍ましいものであろうとも、何者も侵してはならないという意味は理解した。その唇の間に交わされるのが唾液などではなく、形容するも恐ろしい不定形に蠢く闇であり、魅了された情愛や肉欲の発作ではなく、懸命な救済の使命感であろうとも。その姿はどこまでも神聖だった。
大丈夫。
時折呟かれる消え入りそうな励ましの言葉は、誰に向けられたものだろうか…自分か、彼女か、もしかしたら俺か…声を聞く皆に半端な安堵を与えながら、彼は接吻を続ける。
嘔吐えずき、身を震わせながらも理性で律する。体内を毒を滴らせた鋭利な剃刀で撫でまわされているように苦しそうな蠢きを、彼は彼だから抑えつける。こんなことをしてしまう彼だからこそ苦しみ、こんなことができる彼だからこそ耐えられる。
息が震え、肺の収縮が不安定になる。神経を幾つも壊死し、腱を切られた拷問を経過したような彼は、
それでも笑みを崩さなかった。肉体に致死的な"死"を移し、本来ない筈のものを受け入れるのだ。痛々しいその笑顔が、どこまでも美しいのが悲劇だった。
「大丈夫…もう、大丈夫だから」
彼は震える手を律し、自分の手の中で眠る少女の髪を撫でたかと思うと、精一杯に抱き着いた。壊れないように優しく、壊れそうなくらい優しく。
「ウァっ…」
安堵を自分に言い聞かせるように表情を作る途中で彼は吐き出し、膝をついて倒れる。しかし寸で、残った手を伸ばして浅瀬をつき、何とか身を傾けながらも持ちこたえる。
「ごめんな、揺らして…」
ヒューヒューと壊れた笛のような呼吸を治めつつ、彼は立ち上がるとゆっくりと彼女をおぶり、息を整えて肉体の旋律を取り戻す。「いつもの彼」を取り戻す為に、荒み傷ついた体を意識の糸を引き、張る。
泥のように泥濘んで、思うように進まない歩みを止めず、彼は足を高くあげて一歩一歩を踏みしめる。それなのに、その姿はどこまでも軽快で、自分の体に簡単だと諭すように判りやすいくらいの"無事"だった。無茶してるのに、無理なことをしているのに、彼は血反吐を吐きながらも平然とその場にいた。
「起きろ、いい加減」
もう目を一度右に動かすことすらできない俺に、フルトーさんはそう言った。
「見て分かんだろ、両手ふさがってんだよ、こちとら」
「あぷあ…」
なんと言おうとしたのか、それを頭の中で理路整然と考えられるほど、俺は落ち着いている。だが不思議と思考はまとまらず、極めて冷静な思考がせわしない衝突を繰り返し、矛盾なく動いている。俺のどこにも、俺自身の主導権がない。無秩序に壮大な劇が繰り広げられる気分だ。困ったことに終わりがない。
「…ったく。全く、世話のかかるやつだな」口調は嫌がっているようで、内心は寧ろその逆。俺が動けないことに―"動けなくても生きている"ことに途方もなく嬉しいと思っている。そしてそれを、隠そうともしない。太陽のような微笑みの中に、その素直な感動が輝いていた。
彼は腰を低くして俺に手を伸ばし、小声で「掴めるか」と言い、少し待つ。返されるものがなにもないのを確認すると、彼は俺の腕をつかんでゆっくりと浅瀬の闇に浸かった半身を引き上げた。
こぷ、そぷ。泡がそんな間抜けな音を立てるが、確かに俺は逃すまいとした闇からも掴まれていた。主を失った、ただ滞留している闇の中の魂は、俺を引きずり込んだ時とはまるで違う弱々しい力で俺の腕を引っ張っていたのだった。
だから、迷うことなく容易く振りほどけた。
視界が定まる。思考がまとまる。流動的な俺という存在が、現実現在に固定される。肺と喉はリズムを持って一連の動きを作る。揺らぎはない。胸骨を破らんと肥大化する暗く、重いなにかも自然と解けていく。
大丈夫、もう大丈夫だ。
「はい、もう大丈夫です」
霊体の三人にも支えられ、俺は辛うじて正気を取り戻せた。息とともにこもっていたものを肺から吐き出すと、その量とともにどれだけの時間が経ったのかを悟ってしまいそうになる。
もう、浅瀬から化け物が出てくる気配はない。少女がまた怪物になるつもりも見せない。もう去ってもよさそうなものを、自分に気遣われた所為でまだこんなところにいる。さっさと出るべきだ。こんな―死と後悔の腐った坩堝に留まる理由はない。けれども、同時に逃げられる理由もない。
終わらせよう。乱暴でも理不尽でもなく、遺恨なく、全てを解決させてしまおう。
俺はフルトーさんの腕の中で横たわる少女の首を撫で、そう強く決意した。彼女と同じくらい、俺は静かな脈動を確かにしている。生きている。
原因は現実にはない。悲劇が起きてしまったのは遠い過去の話だし、その形跡は完膚なきまで俺達や彼女達によって破壊され、今やここは戦場でしかなかった。そんなところで何をしようと、結果が実を結ぶわけがない。元凶を、現場で叩く。
「今更言う必要はないだろうが、この異常遺跡には複数の世界が重なって存在している。それは特定の時間と結びついて、現在、過去、更に過去の時間が媒体になっている」
「で、今から行くのが"更に過去"ってわけですか」
彼は軽く頷いたが、満足した回答ではなかったようだ。そりゃそうだ、だってもう、実行した後なんだから。
「…前も同じようなことやりましたよね?」
「あぁ。時空間が多層構造になっているからと言って、さっきは馬鹿正直に境界線を通って"過去"に行こうとして、結果、そこで翻弄された」
媒体になっている時間は一つでも、それによって形成される時空間は一つじゃなかった。一層だと思っていたのが、実は複数が重なって形成されているのだと、俺達は見抜けなかった。だから俺達は、人間性を奪う罠のような別世界へと堕ちてしまい、そこから脱出するのがやっとな有様だったのだ。
「だが不幸にして幸いなことに、罠のような別世界から抜け出そうと暴れた結果、その別世界を破壊することに成功した。よくやった、ロゥ」
褒められたので一応軽く頭を下げて、会釈する。
「さて、迷路も障害も壊したし、今度は罠にかからず、より深い層に行ける筈だ。問題はそこ、"更に過去"になにがあるかだが…」
「なにもありませんよ」
俺の口から言葉が漏れる。俺の魂に深く刻み込まれた『虚無』の瘴気に動かされたのだろう。
「…見たのか?」
「えぇ、その子に追っていたら。…でも、本当になにもなくて。閉ざされてた門と、その奥に石の棺があったくらいで…」
俺の口から出る回想か愚痴のようにくだらないちぎられた情報に、彼は何故だか真剣に聞き、意識の一切を思考に回していた。
「…その棺、なんか喋ってたか?」
「なんかって…」
こう訊くということは、彼の中では既に俺をはるかに凌ぐ鮮明な追想に成功しているに違いない。しかし、棺という単語だけで素早く心当たりが出るということは、きっと既存の発想の中で結びつくものがあるのだろう。だとすると…
「呪術…ですか?」
「あぁ。呪術由来の技に『死後、魂を棺に閉じ込めることで力を増す』というものがある。もしその技を使った術者が元凶だとすれば…相手側に行くのはまずいな。増した力で一撃で死ぬ可能性がある」
「ならどうするんですか?」
「こっちに引っ張り出す」
…そう簡単に言われましても。
事実、枯れ木森の怪物も《白無垢の聖女》も、現実の側に出てきたのはどれも厄介な怪物たちばかりだ。二の舞になる気がしてならない。
「…そう露骨に嫌そうな顔するなよ。こっちが準備できない以上、準備できる相手側に行くのは危険だ。第一、相手の次元で勝負しても勝利は望み薄だ」
やろうとしているのを『屏風から虎を出す』と言い直すと、どれだけ馬鹿なことをしようとしているのか、だがそうしなければならないという絶望感が伝わるだろう。あーあ。
「だが、顕在化させるには媒体がいる。最悪ここで拾った魔導書を使って…」彼が俺の抱えている本に手を伸ばした瞬間、彼の腕に乗せられた手があった。大きく膨らんだ腹部のように、膨らみのある籠手の持ち主は、契約霊体の一人である『鉄塊』レクレス・マエオミロイだった。
「我らがやろう!」
髭面の海賊のような兜越しに発せられたその声は、すごく心強く感じた。けれど、その声が自信から来るものか、捨て身から来るものなのかは分からなかった。
怖くなって、彼の後ろにいた彼の盟友、ルカウェイと青の戦士に視線を向けた。だが、彼らは静かに頭を縦に振るだけだった。
俺にできるのは、彼らを信じることだけだった。
「頼むよ、だって…」
不安があった。言っておかねば後悔するような、大きな不安が。だけれども、それを言ってしまっても彼らを穢してしまうような気がして…
俺は言わない後悔を選んだ。
フルトーさんは、彼と俺と少女で三角になるように立つと、各々の背後に一人ずつ契約霊体を立たせた。それから低い唸るような声で非常に素早い、強いて母音の判別ができる程度の小さく連続した言葉を口にすると、それが呪文となって徐々に俺達三人を繋ぐように青い閃光が浮き上がる。
魔術の光を形成する古い字は、時間の認知をすり抜けるように不気味なほどするりと動き、俺達の背後を通って円環を築いていく。温かいが鳥肌の立つ神秘的で異様な雰囲気に俺は左腕に手を置き、撫でて収めようとしたが、中々鳥肌は止まらなかった。そうする俺の腕を、ふと誰かが掴んだ。振り向くことはできなかったので、それが背後に立つレクレスのものなのか、それともかつてのように数多の魂たちのものなのかは知れなかった。しかし確かなのは、その手はとても温もりがあり、そして少し冷たかった。
好奇心に耐えられずに振り向こうとした瞬間、突然空気が一変する。青の円環は一瞬にして断片に粉砕され、かと思えば一瞬のうちに再構成され、黒い渦に変質する。
困惑してフルトーさんの方を向くと、彼は目を大きく開き、邪な歪んだ笑みを浮かべていた。彼は肩ごと腕を自分から千切るのかと疑うほどにぶるんぶるんと振ると、彼の手先は巨大な黒い爪のようになっていた。
明らかに変化した。根本的な部分が完全に切り替わった。それは毛穴一つ一つから侵入し、俺の魂に棘を指す奇妙な感覚が嫌というほど伝えていた。だが、自分でも不思議なくらい怖くなかった。安心こそないが、不安もなく、こうするべきだという確たる大義が俺を支えていた。
彼は歪曲した不気味な笑みのまま、より高速で呪文を暗唱すると、彼の周りに黒いモヤが出現する。それはかつて見た石化の霧―『人間性の霧』に似ていた。
彼はその黒い霧を流体のように腕に巻き付けると、霧は収束し、彼の腕は黒い帯のようなものに覆われる。仮面を取った彼の美しすぎる容姿もあるのだろう、禍々しい筈のその様子がまるで高級なローブを着ているかのように優雅だった。
黒い帯は彼の肉を抑えつけ、骨が軋むほどになったかと思えば、逆転して溢れるように、白い螺旋になった。変化を受けて騒めく水面に立つ暗黒の泡と、不自然なほど純白の螺旋は真逆なようで、どこかが似ていた。
瞬きをした、ほんのわずかな数秒と数えるにも相応しくない刹那の隙間に、世界は静寂を手に入れた。黒々とした暗黒の混ざった水面は、途端に波一つ立たない真っ白な平面に変わった。きっとフルトーさんが与えた沈黙を、滞留する魂たちは受け入れ、自らを純白に染めたのだ。自分でも納得の意味は分からない。おそらく自分にもその沈黙が与えられている。不意に説得を受け入れている。腹が立つ、黙ってそんなことをされたら怒りや悲しみが湧いてくる筈だ。
なのに、どうしようもなくその沈黙は優しく、全てを包み込んでくれた。彼のくれた沈黙の無機質な中立性に、俺は身を委ねていた。
隙間の見つからない緩やかな別世界への移行に違和感はなかった。違和感よりも、これまでがそうだったように、フルトーさんに手を繋がれるように確かな安心感の方が強かった。背中からゆっくりと体が水面に沈んで、再び暗黒の海に魂も飲み込まれていく。
その時には暗黒の重みも、海の冷たさもなかった。空白を埋めるように、じわりと芯だけが温かくなる奇妙な純白の穴が延々と続いているような、別の恐ろしさがあった。
けれど、それも自然と消えた。
元居た世界からはレクレスたちが見ている。
これから行く世界にはフルトーさんがいる。
俺のいる道の前後には彼らがいる。俺は人の立つ道の間にいる。俺は歩けばいい、ゆっくりでも、急いでも。二つの世界がある、二つの未来がある、二つの人種がある。俺は幾つかの境界の、見えない境界線の上に立っている。俺の選択がそれにどう与するわけでもなく、ただの狭間に―そこに立つ一人でしかないのだけれど、つい、考えてしまう。
―俺は、俺の決断をするだけだというのに。
俺は目を閉じて、どちらも見ずに、だがどちらの姿も鮮明に思いながら、境界線から落ちていった。
【 】
残虐で拷問的な監獄の考案者、ミシェル・フーコーという哲学者の言葉を借りれば「死とは権力の限界である」らしい。生物的な死亡というのは、人間内でだけ効果を発揮する権力というやつではどうしようもない。介入して止めさせることも、無礼と処罰することも、仮にでも支配することはできない。死とは権力の魔の手を断絶する絶対の境界線であり、その境界線を隔てた死後という存在は人間にとって最も秘密で、私的な点である。だが、それが到達点であるとは言っていなかった。
…あくまで言葉を借りたに過ぎないので、この考え方が役に立つのかは不明だ。というか、フーコーはパノプティコンという構想を引用しただけで、考えたのは彼ではなかった気がする…
《白無垢の聖女》の世界の、更に深いところにある世界。死人の世界の中に閉じ込められた、別の死人の世界。
暗黒も、死もない。抽出された苦痛から創造された幾層もの夢想的な異世界は破壊され、今度は驚くほどなにもなく落下していった。弁も関もなく、それらしい境界線すら存在せずに―まるで侵入を求められているかのように俺たちは簡単に目的の世界に辿り着いた。面倒がなくて楽だったといえば良かったと思えるのだけれど、実際に俺が感じたのは不安だった。混雑した世界構造がを体験したからこそ、空っぽの今の世界構造に対して疑うような心配を覚える。
と、上の空になっていた俺は背中から思いっきりなにかにぶつかった。
「痛ッツたぁ…」
引っかかるものなど、況して物質的なものなどある筈がないと思っていたので、対応できるわけもなかった。油断してたな…
「馬鹿か? 落下方向くらい見てろ」
身を起こそうとする俺の目の前を少女を抱きかかえたフルトーさんが通過する。手は貸してくれなかった。当然のことだけれど、やっぱり背中は痛い。
「あぁー…うぉー」
「強打ってほどでもないだろ。それより、これだ」
そう言って彼が顎で指した先には骸骨の巨人が二体脇に立っている、灰色の大きな門があった。以前、フルトーさんの腕の中で眠っている少女に誘われてここに来たことがある。その時は鬼気迫る様子で扉を叩く彼女に気圧されてよくわからなかったけれど、今見てみるとその門はその時感じた異質さとは別に、とても美しかった。
灰色ではなく、光源のない明りに照らされただけのくすんだ青銅色だった。乱雑に思えた扉の装飾も、右端から見てみれば意味を感じる。きっと絵巻のようなものだ。抽象的な線と点は人と光を表し、それがなにか物語を作っている。だが、なんだか不穏だ。左に行けば行くほど、点同士の間隔は狭くなり、線の交差が増える。混じり合っている…? 襲われている…?
「とっとと開くぞ、一度来たことあんだろ? どうせ」
「は、はい」
正直躊躇った。すべきことも、できることも自明なのに、俺はどこかで小さな悩みの種を持っていた。
思えば、どうするのだろうと懸念があった。俺は身の丈の数倍はあろうかという巨大な石扉など動かせるわけがないし、フルトーさんは少女を抱えているので両腕がふさがっている。非常識的な視点を無視すれば、不可能性が無視できないのがこの局面だった。だが幸い、非常識な視点が不可能性を取っ払ってくれた。というより、フルトーさんが生やした触手のような手が物理的に扉を取っ払った。
「…」唖然として声が出なかった。
そりゃ、よくわからない闇の力的なものを纏っている彼には、腕を生やすことくらいできるだろうけど…。俺の意識の飛んだ顔を見てか、フルトーさんは「俺が獣になった時に似たようなの見ただろ」とは言ったが、状況の説得力はあっても、状態の説得力がないのが彼だった。できることはできるから、としか考えられなかった。
肩と腰のあたりから袖と服を押しのけるように生えた白い腕を、当然のことであるみたいにしまった彼について行って、遂に最深部―その触れてはならない空気から、勝手に『聖域』と敬称をつけてしまった場所に辿り着いた。
しかし、そこで目にしたのは知らないものだった。
本当の虚無。かつて見た石棺すらない。
右を左を見渡すまでもなく、空間と溶け合った絶妙な自我が"無"を認知する。"なにもないしかない"という虚しい状態が、最高にこの空間を言い表していた。
しかし、それで構わなかった。何故ならば、変化とは起こすものであり、自然と起きるものではないからだ。
その変化は、感じようと感覚を研ぎ澄ますまでもなかった。自然と、感じなければ生命として致命的な欠落が存在していると訴えかけるような緊急的な察知だった。虚無にて発生する、強大な力と力の衝突。フルトーさんと、姿見せぬ聖域の主は自ずと均衡を生み出していた。同質故に入り混じり合う禍々しい瘴気は、だがごく個人的なレベルでの決定的な相違により、矛盾と適応の応酬により絶えず拒絶と寛容が繰り返されていた。起こっている出来事の正体は把握出来ないが、肝心な危機感だけは感じられいた。
聖域が胎動している。光の差さない漆黒の空間に、脈打つように周期的な光筋が入る。雷鳴の前触れのような一瞬の光だ。光は力に押され、飲み込まれ、行ったり来たりして、落ち着くということを知らなかった。それどころか周期はどんどんと早まる。その周期に呼応するように、俺の体の中に入っている数多の魂たちは騒めいている。
とうとう光の脈は瞬きよりも早くなり、人体の認知速度の限界に迫る。つまるところ、知る全てが光になり、感覚が丸々光に包まれる。
黒、黒、白、黒、白、黒、白、白…両極端な連続する単調は決定的な刺激を与えず、脳は時間の経過を数えなくなる。どれほど続いたのか、それを確かめる術はないけれど、結果だけはわかる。
相手の勝利。
だが、フルトーさんの目的は果たされていた。
衝突を繰り返して激化した力はもはや歯止めが効かないほどに肥大化していた。そんな状態で、衝突に勝ってしまったら―力を発散する相手がいなくなったらどうなるだろう。ぼこぼこと沸騰するように暴走した力は聖域の主の手から逸脱し、遂にその版図を飛び出した。水面の底に沈んでいた暗黒の根源は、俺たちの使った穴から濁流のように溢れ出し、そこにいた侵入者三名も一緒に押し出した。
【 】
視界が明らかになるまでに数秒あったのだろう、俺の体は膝をついてはいるものの、呼吸は安定している。呆然のまにまに、無意識が体を動かしたのだと思う。急激な変化の後にしてはえらく明瞭な思考を以て相対する現実は、予定調和にも混沌だった。粘性のある黒い流動体である闇はせわしなく形保たず変形を続けていた。
神聖な輝きを放つ長杖を掲げる乾き切った老人。
人の身の丈三倍はあろうかという大剣を打ち付ける皮の剥がれた巨人。
血塗れの手をでたらめに動かす三つ頭の怪魚。
人骨で構成された高級そうな皮をした牙が剥き出しの龍。
眼球が幾つもある軟体動物の頭をした内臓をまとう三本腕の怪物―
暴走する闇から生み出される面妖な怪物たちは、混沌から離れられないのか、暴れるとすぐに霧となって消滅する。
脅威であり、悍ましくも哀れで儚い怪物たちは、よく見ればどこかしらには人体のパーツが使われている。それを見て俺は"肉体の恣意的な改造"という言葉を思い出す。以前フルトーさんが言っていた言葉で、呪術―この異常遺跡を構成する根本的な技術の特性を表したものだ。その言葉を思い出した途端、俺は怪物への如何なる感想も過去になり、ただ真相は目の前まで来ているのだという妙な高揚感に胸が昂っていた。
待ち望んでいた景色への道が冒涜的な怪物たちの断末魔でも、俺の心は初恋をする乙女のようだった。心に揺らぎはない。麻痺した感覚が、幸いにも目の前の反人間的な恐怖を無視する鎮痛剤になっていたのだ。
ごぶぉごぶぉ、と嘔吐に近い放出の音を絶やさず、崩壊と再生を繰り返す混沌はしきりにその姿を変形させる。それは龍の顎であり、指の間に鰭のある魚の手であり、虹色に輝く鱗翅であり、ゴワゴワとした毛皮に覆われた威圧的な獣の蹄であったが、そのいずれも決定的に"人"であった。目では確かめられないが、直感はどういっても"人間"を感じざるを得ない。変形させても、弄っただけの人体の延長線上でしかなかった。崩壊と再生を繰り返すうちに、自然と混沌が選択したのは「人間への回帰」だったように思える。暴走していても、なにか手足を持つ生き物になることを諦められていない。
人間性を取り戻そうと蠢く混沌は、いつまで経っても解放されない。それの周りにある三つの深緑の光を放つ柱―霊体契約の三人が変化した文字通りの人柱に遮られ、閉じ込められているのだ。そこから逃れようと足掻けば足掻くほど力は消耗し、激しさを増す混沌は己の自滅までの時間を自ら早めていた。知ってか知らずか、自分で首を絞めるようなこの光景に俺は…いや、きっと混沌は知っている。現状が如何なるものであるかを、力を使い果たした先に待つものを。
小さな世界で行われる生まれ変わりの連続に想像を巡らせている瞬間、その時は急に訪れた。
人柱による限界を示すかのようにありったけの体積へと変形した混沌は、破裂してしまったのだ。それでも俺はまた変形するのだろうと思っていたが、それは違った。変形はしていた、だが一回きり―弾け飛んだ混沌は、自身を丸め込むように蹲る小さな人の姿に変わって動かなくなってしまった。
【あとがき(泣)】
予想以上に迂遠な道筋になってしまいまして、馬鹿みたいな文字数に膨れ上がりました。あと構想も膨れ上がってしまったので、大変読みづらいと思われます。
よしなに。
至らぬ点ありましたら、どうぞご意見お願いします。
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