【第四十話】典型的で愚かな結末
前を向ける。俺の向く方が前になり、俺のいる場所が世界になる。本来逆な筈の因果は、不思議とその理不尽な現象を否定しない。宇宙に見えた水底から飛び上がって、その裏では宇宙から水面に落下した。上と下の鏡写し。一方にあるものは、もう一方では見えるだけ。その無力感、理由を知ればなんてことはない。現実を犯したように見える《白無垢の聖女》の世界は、同じ位置に元々存在していた。重なりが現れただけで、急に出現したわけではない。異界ではなく、異次元だったのだ。
俺の出現とともに、白く輝く柱のような細い樹が現れ、水面と天を突き穿つ。
現実では、俺は地面から射出されたらしい。それから重力は俺を地面に叩きつけたがっていたが、俺は重力とは別のことを思っていた。
「飛び出たところに落ちるわけないだろ」
俺は自由だった。拘束も束縛もなく、ただ俺の意思のとおりに体が動くと言う最高の全能を味わっているところだった。味わっているのに、それを重力なんてものに邪魔されていい道理はない。折角の香しい全能を、そんなありふれたものが壊していいとは思えない。魂たちに俺を支えさせ、俺はゆっくりと宙に浮く。飛んでいる、という感じではなく、さながら操り人形のように見えたことだろう。
下が見える。恐怖を感じるほどの高さから、恐ろしかった《白無垢の聖女》を見下ろしている。小さく見えても、やっぱりその異形の見た目はぞっとする違和感を感じた。だが、危機は感じない。なにも危機感が麻痺したわけではない、危機を感じている―感じた上で、動こうとはならなかった。
きっと、彼女の正体に気づいたから。そこにいるのは化け物ではなく、変わらず寂しいままの一人の少女だと心の底で分かってしまったから。もう一度も彼女を化け物だなんて思えない。痛いほどに気持ちの分かる、心細さを何かで埋めようとした足掻きを、俺は攻撃とは思わない。
彼女は俺に気づくと、残る腕を引き伸ばして掴もうとしていた。だが、伸ばした腕の重さに耐えられずに彼女は腕に引っ張られるように倒れた。
何を思ったのかは判然としない。
現実、俺は急に自分を支えた数多の魂の腕を蹴り飛ばし、自由落下に堕ちた。蹴って、その動きを止めないままうずくまって、回転していた。体操か、水泳にこんな動きがあった気がするが、きっと俺がしているのとは違う意味だろう。
絶対に、断言できる。俺以外にはできない、俺以外がしては成立しない。傲慢にも思える自信が、今は事実でしかなかった。
俺は星になったのだと、そう思えた。胸の中で熱く燃える白い炎が、器である俺さえも輝きの尽きない太陽にしてくれていた。俺は回る。自転する星と、それを巡る月。それが俺と、世界のその他になった。
根拠は薄く、だが絶対的とも思える自信に溢れた俺は、彼女なんかに怯えるわけがなかった。巨大で異形の化け物―大きくて、違う姿をしているという"だけ"の少女に、特別な感情は抱かなかった。他の―俺の中に入った人達と同じ、終わることができない過去の人間で、特別扱いされるような存在ではない。何も変わらない―彷徨う魂たちと同じように、その生涯を語られなかった悲劇の主人公。ありふれた非運と不遇の、幾百のうちの一人。俺のやることは簡単だった。
「逃げないよ。離れないよ」
俺は、彼女の手に腰かけた。大きくて、だが繊細さの隠しきれない綺麗で柔らかい指に身を任せる。信頼か、不用意か。突発的にやったのだからそう思われてもしょうがない。だが、そのどれもが違う。
強いて言うのならば、性愛だった。それくらい、その歪さに愛おしさを感じるくらい、俺は別の当事者意識に逸れていた。どんなに恐ろしい化け物だろうと、今の俺には関係のないことだ。
俺は彼女の細い中指を寄せ、抱く。目を閉じて、少し冷たい―仄かに感じる温もりに全ての安寧を捧げる。俺は、彼女の手の中で眠り始めた。
その時だけ、というわけではない。そんなに軽々しい想いだが、そんなに重苦しいような気持でもない。
続くのならずっと、永遠こうだろうと悔いはしない。そういう気持ちが、真剣にあった。
嬉しいじゃないか、女の子の手の上で寝れるなんて。
真摯に、軽薄に。
真実に、偽って。
一瞬と、永遠に。
畏怖と、哀憐を。
俺として、"俺たち"として、こんなに嬉しいことはない。
表情筋が緩んで、或いはこわばって、安心か恐慌の交わった曖昧な平和を表情にする。真実的に、薄ら笑っていた。
俺はきっと怖がっている、だが同時に喜んでいる。
目の前の彼女は異質であり、同質で、異形であり、同形の存在。俺の中の"俺自身"は分散し、その立場と感性に何かが入り込んでいる。
夢を見たくない。無意識になって、誰かの意識にその席を奪われたくない。
平和と調和を実感し、不安と孤立を根底の居場所を理解する。笑って、怖がって、泣きながらこう言うんだ。
「助けて」
何者かになりたかった。何者かに、自分の存在を保障してほしかった。だから決して、誰かに乗っ取られたかったわけではない。器はただ、器なだけ―それが器だけの自立はできない。
解き放たれたい―誰か、ぶっ壊してほしい。
無音のまほろばの最中、理想郷の異端は切実に願った。消え入りそうな他人の群れの中に、その切実さがどれほどの意味を持つのかはわからない。けれども、ただ一つ言えるのは、
無意味ではなかった。
ドン、と鈍い音がこだまする。巨大なものが、もっと巨大なものに致命的な破壊を蓄積させている感覚が、音を伝って現実に流れた。
グン、グングングングングングングングングングン…
"抉り"圧す圧倒的な暴力な、次元の境界線を破綻させる力の実在が、残虐的な音を与える。
世界の瓦解は突然、待ち遠しい瞬間はあっけないほどに一瞬で始まった。
夜空は断片となり、境界としての役割を絶対的に果たせなくなる。黒いガラスのような欠片が雨となって降り注ぎ、その合間を縫っても余りある巨大な獣は現実に降り立った。
飛び起きる気力はなかった。けれど、一言、せめても呟くことができたならと、ささやかで大きすぎる願いだけを叶えてみた。
「…フゥトー」
舌足らずで、言葉も足りない。あまりにも不足しているこんな声で、満足できる結果なんて望めない。
けれど、俺はあなたに、また頼っていいですか…?
ヴォゥルグゥゥゥァ…
全ての意味を超越した明確で普遍的な敵意の唸りが、調和を始めた世界に、呑み込んだ暗黒を吐き出すような不快な不調和を突き刺す。明らかに暴走だった。敵意を以て敵意を滅す、脊髄反射ともいえる殲滅者に、何故だから彼は心の底からの安心を感じていた。
獣は拳を月でも掴むように挙げると、まるでそれが当然あるかのように、ヴォンヴォンと歪に肥大化させた。かと思えば急に収縮させ、腕全体が鋭利な大鉈であるかのように変形させる。そして漆黒の刃を力の限り振り下ろした。
無限に膨れ上がった力がただ一つの線を出口に噴き出したとでも言うのか、ありえないほどの力を前に《白無垢の聖女》の柔らかな腕など容易く切断され、それでも止まらない勢いは振り下ろされた刃腕の周囲を吹き飛ばす衝撃波として現れた。
俺の身体は彼女の手に包まれ、相当衝撃が和らいでいた筈だ。それにもかかわらず、俺は突風に晒されたダンブルウィードのように無惨に転がされた。重力に邪魔されたくない、なんて思っていたのが嘘みたいに、体の水分という水分がグルグルと回って嫌というくらい重力と遠心力に邪魔されていた。
そこからは、もう、蹂躙だった。あれだけ巨大で、不気味に感じていた彼女が、今や非力な少女の如く、馬乗りにされて一方的に嬲られている。体を変形させて幾ら獣を棘で貫いても、纏った生溶肉で融かそうとも、獣の体は無事だった。それどころか、彼女は反撃する度により深い傷を負っていた。
怪物が怪物と戦っているという、起きている事態は別次元ではあるものの、その現場は紛れもなく今この場所だ。俯瞰するとつい失ってしまいそうな希薄な現実感を、戦いの余波が伝えてくれる。幸い、全ては我が身に迫っているのだという感覚は保たれていた。
だからこそだろうか、俺の精神のどこかで、ふと思ってしまった。些細でも、ほんの数秒も経たずに忘れてしまうような淡い発想が、つい浮き出てしまった。それを逃してくれればよかったものを、俺の中にある魂たちはその愚かしい不確定さを尊重してしまった。大切だと判断し、増幅させてしまった。
忘れてしまう思いつきが、意図されずに何物にも代えがたい鋼のような決意に変わってしまったのだ。
気持ち悪いくらい鮮明に、力の流れ方が解る。そしてそれを、ただ呼吸するだけでもなぞってしまう。俺は自分の口を塞いだ。取り返しのつかないことをしてしまったのに、俺の中での罪悪感というものは、些末な迷いとして処分されてしまった。
俺はなにかを叫んだ。到底意味があった言葉ではなく、不条理や不都合、どうにもならない無力さの表れだった。無力感を感じるのはよくあったが、ここまでのものはなかった。
我が身で、俺以外が動いている―
この不気味な不一致が、それでも現実では違う形で顕在化していた。
黒い針が―呪枝が、破れた天を更に突かんと鋭く伸びる。暗闇を切り拓くと、真っ白な温かい光明を帯びる。一瞬だった、これだけで―ただ輝く長い針ができたというだけの笑い話みたいな状態で、全てが止まってほしかった。
だが、奇跡は起きてしまった。
純白の光の槍は瞬きの間もなく巨大になり、打ち倒された《白無垢の聖女》の首を―抗っているだけの少女の首を情け容赦なく貫いた。そしてその当然の結果のように彼女の動きは止まり、因果応報とでも言わんばかりに彼女の体の穴を広げ、血を掻き出しているようだった。
「こんなのっ…こんなのあんまりじゃないかっ!!!!」
思考するよりも、体のどこが動くよりも先に、俺は叫んでいた。
俺は膝から崩れ落ち、数秒の間があって腰のあたりに彼女の血の波がぶつかる。暗い紅の血が、手を伸ばすように服に染み込む。それでも、俺の胸にも届かない。
呪枝を生み出した力が光となって俺の指先から雫のように垂れ落ち、血を、暗闇の浅瀬を無視し、小さな金塊のように輝いていた。
無心だった。何も考えることも、感じることも出来なくなった放心の体は、光の雫を拾い上げた。両手の器の中に溜まった不出来なパレットのような色彩を、俺は飲んだ。泥と、血と、溶けた腐肉のような不快感に、冒涜的なまでに澄んだ甘みが舌から胃にかけて温かい道が作られる。その一滴だけが、果てしなく重かった。
口から垂れる血を右手首で拭い、瀕死の病人のようにか細い呼吸のまま、俺は口を開いた。
そうして過ちを、肯定された意志の反対を込め、訂正されてしまう誤りを俺は叫んだ。
「戦いたくなんてないッ!」
誰が、誰がこんなことを!…言葉を続けようして崩れる俺を、かけつけた三人のおっさんたちが支えた。彼らの手はざらざらとして、固くて…逃げられないのだと判った。
「俺はおかしいんだ。俺は肉の中に聖なる蛆が這い回る死体なんだ。聖なる、じゅるじゅるに腐った死体なんだ!」
助けてほしかった、現状を打ち砕いてほしかった。けれども同時に、彼女には平穏無事に、幸せになってほしかった。思う度に悪化する現実に、俺は自我の必要性を失いそうだった。
フルトーさんの言葉を思い出す。
名前を忘れるな。考えを止めるな、思考停止した死人になるな。馬鹿みたいな綺麗事でも生きたい理由を叫べ。暗闇の冷たさは気持ちの悪いものだ、どこまでいっても、心地よいものではない。吞み込まれるな…。今はもう、その言葉が呪いだった。彼との約束を破り捨てて、自分でも致命傷を与えた安寧の暗黒に沈み込んでいきたかった。何が起きても生きたいと思ってしまう自分の身勝手が、全て忘れてしまいたいほど嫌になった。
決心がついた。乱雑で、それゆえに何者にも歪められない決意が俺の中で―"俺だけ"の中で完成した。
『俺はこの力を手放す』―
暗黒と死から抜け出した自我の力を捨て、無我の泥に戻るのだ。
俺はどこまでが本当のものか分からないままに佯狂者のふりをし、生まれた聖樹の偉大さを崇めるように、三人を払い退けて彼女のもとに這い寄った。
こうしているふりなのか、本当にこうしたいのか、或いはこうしか出来ないのか。行動の原因も判らずに俺は腕一本で体全体を引き寄せ、出来損ないの匍匐前進みたいに遅々とした歩みで進んだ。
着いた頃には既に彼女は動かなかった。白い杭で固定された少女が、生きたまま獣に食い荒らされている―と書けば、彼女が動かないのも当然だ。《白無垢の聖女》と呼ばれた恐ろしくも神秘的な化け物は、破壊の黒獣にその全てが暴かれ、剥き出しになった骨が砕けるくらい徹底的に血肉を貪り食われている。異形だが優しいその体は食べかけの残飯のように無惨で、美しい顔からは皮が剥がれていた。あまつさえ、肉がなくなって肌とは別の白色が露になっていた。
動けずに血肉を貪り喰われ、破壊される時だけ体が僅かに揺れる少女が敵。その少女を何本も生えた腕と口で食い散らかしているのが味方。ここまで来れば、もはや戦ってほしいとも思わない。
―ただ、終わればいい。
全能の引き出し方は分かっていた。なんだって起こると、そういう確信があった。だから後は、手を動かすだけだった。奇跡は起こる。不条理が不条理に、理不尽が理不尽に壊される。それがあるのだから、俺は自分のしようとする行動に、何の疑いもなかった。
俺は、光の雫が落ちた方の腕を頭のあたりまで上げ、前に突き出した。手のひらと指先から細い光の糸が放たれた。その糸は増え、紡がれ、次第に少女と獣を囲む巨大な輝き、円環する幾重もの輪が生まれた。
輪の周りに小さな星が生まれ、星の子は讃美歌を歌う。黄金の輝きの輪の中で、血肉飛び散るそこは少しずつ光に侵されてて儀式の舞台に変わっていった。荘厳な旋律の祈り歌が満ち、謳われる神話は現実のものになる。
いもしない神の、ありもしない神話が現実になるのだ。
全ては俺の妄想。狂った尋常ならざる精神が夢見た突拍子もない理想郷。だがそれでいい。狂人の夢が今起こそうとする全てだとしても、俺は何の不満もない。
全ては出まかせ、無為な戯れ言だ。それでも俺は、この黄金輪の舞台に、一つ言葉を添えたかった。
『敬意と、崇拝と。畏怖と哀れみを』
『弱々しい感動の琴線に惑わされよう』
『終わらぬものは終わらぬまま、幕引きとしよう』
『戯れ言の劇は終わらない。真実の暗闇に、全てを沈めよう』
『静律の世界に、生とも死ともつかない命をその尊さを』
みんな、一度だけ。どうか、この狂った悲劇が結末を迎えぬように。
半端なまま、終わらせてしまおう。
「《奈落》(Xia-eqiliv)」
さぁ、幕引きだ。舞台を終わらせ、役者を役者に戻そう。
金色の円環輪は光球となって二人を優しく包み込む。腫瘍から膿を抜くように、異形の巨躯から黒いものを絞り出し、次第に球は小さくなる。あらゆるのあらゆるを、穢れが清浄を取り去った球は遂にはビー玉よりも小さく―だが美しい輝きを放っていた。
光球がフォンという音とともに、まるで毬が解かれるようにして崩壊を始める。するとそこからは抱き合うように眠る二人がいた。
人間だ、人間だったんだ。
当たり前の感動が心配する俺のなにかを包み込むと、動かす力を失った俺は暗闇の浅瀬にポツンと倒れ込んだ。口から、鼻から、耳から―避けようという気力のない顔の穴から、容赦なく悲劇の混じり込む水が入り込んでくる。肺を侵され、息もしづらくなっているというのに、あたかも自分自身が重なっていくような感覚で―不思議と不快感は少なかった。
でも、やっぱり気持ち悪っかった。
傑作だよ。
半分埋もれた口から、ポコポコと小さな泡が噴かれた。
【あとがき】
アイデアと文章と理想が一致しなくてつらい…
至らぬ点ありましたら、どうぞご意見お願いします。
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