表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
39/40

【第三十九話】追放者、辺獄(Banish of Limbo)

 手足になにもつかない。無重力だと思った。だが、実際は違う。天地がないのだ。空も、地面もない。その代わりに全ての方向が白とも黒ともいえない曖昧な暗い海が、極めて緩やかな渦を巻いている。

 ここが死の世界だと、すぐに理解できた。本物の地獄と人間世界の地獄の合間、虚無の一歩手前、現実の一歩先。その果てしない一歩と一歩を繋ぐただ一つの資格を与える処、つまりは曖昧な死の流れる海なのだと確信した。

 理解したし、納得したし、確信もあった。けれど、だからといってそれだけであるわけがない。正直混乱している、なにが死の流れる海だよ、と認識する抽象画のような景色に思う。人間的な理性があることが裏目に出たか、到底理解できないものを理解してしまった矛盾が解決せずに、俺は悶々とし続けている。いい加減現状の説明が欲しい。

そう欲する俺に、声もない声ががやがやと囁く。

『大丈夫』

『考えると辛くなる』

『今は貴方自身だけを想って』

…勝手なことを言ってくれるものだ、お節介もいいところだ。あの暗黒から抜け出す為とはいえ、厄介なものを受け入れてしまったのだろうか。今のところ、脳内会議が複雑になった以上の効果が見られない。もっと三人のおっさんのように、せめて無害ならよかったのに。

 人間的な毒気が入った弊害か、恐怖で覆われていた俺は人間的なくだらない悩みばかりが思い浮かぶ。お腹減ったし、早く帰りたい…いや、帰ったとしても特に安心はないか。

 生気を得た筈なのにやや生気を失った俺の瞳は、突然訪れた一つの変化にかっと開いた。

明かりだ、ただ言えば白んでいるだけかもしれない。明るい四角形が奥行を悟らせず、周囲との調和を諦めて独立している。ただ白いだけだとしても、この不安定な世界で綺麗な白というのは目立つ。それが辺りと混じらず、大劇場のようにそれだけが存在しているというのは奇妙でしかなかった。目に見えた罠だと理解していても、そこに行くしかない。その上俺の中にある複雑な脳内会議の議員は、誰も異議を訴えなかった。

 勧めはしないが、行けということなのだろう。

 吸い寄せられるように、唯一出口を見つけた真空のように行くと決めたら強引なまでにその大劇場に降り立った。

 俺にある筈もない翼が動いたように、ゆっくりと俺はその大劇場に降りた。認識の速度ではなく、落下の速度に合わせて次第に白んだ明かりは姿を変える。ぼやけたその一角は徐々に露になり、それらしい光景が視界に映った。景色と眼球ではなく、世界と魂が調整されたような不思議な感覚だった。

 その光景には見覚えがあった。正確に言えば「きっとそうだったろう」と予想していた―もう既に、俺の頭の中でしか存在していない光景。穢されていない、まだ地獄にも煉獄にも繋がっていない―異界の混じらない聖域。オルハ地下水路、その最後。あの《白無垢の聖女(ゲーダァド・セーメル)》と戦った四角形の空間と相違なかった。

 見た覚えはあるのに、生溶肉スライムや黒い浅瀬のないその景色はまるで別物だった。そんな別の姿を見ると、自分の注意がなにに向いていたのかを思い知った。ならば、今度は別のものを見てみようと思ったのだ。空間の引力から離れ、不思議とこれ以上ないほどに自由を感じる五感で、改めて把握を試みた。

 よく見れば、特別なところなどなかった。灰色の石で造られた牢獄のような味気ない空間。到底これを聖域と呼ぶなんて、馬鹿馬鹿しいと思える。少し埃っぽい、強く当たればいつかは欠けるただの石だ。綺麗なだけの、神秘性など感じない石の世界だ。

「…」

なんだ、あっけない、これだけか―いくつも思いつく失望の言葉を、それでも口にして、広めてしまわないようにと努めた。しかし声なき声の誰かが、ふと呟いた。

 『なにもなかったね…』郷愁に紛れて、寂しさを口にする。

 『こんなとこを目指したんだよ』俺の触覚を媒介して、ただの石に触れる。

 『広いだけだったね』俺の聴覚を媒介して、響き渡るただ一つの足音に聞く。

 『良い香りも、悪い香りもしなくて…』俺の嗅覚を媒介して、無機質な石室の匂いを嗅ぐ。

 『見たとおりに、なんでもないよね』俺の視覚を媒介して、それ以上でも以下でもない様子を見る。

 『湿っぽくて、御墓らしかったね』深いため息の反動で、大きく吸ってしまった空気に味覚を媒介して、舌上に触れる感触を味わう。

彼女たちは淡々と、今更だと思い出すように失望を口にする。その語り口には俺と何の変りもない―ただ今か、過去かの違いしかない。その認識に、俺は多少の感動を覚えた。

 だが、水を差される。引き伸ばされた血のような朱色の瞬間、わずか一秒にも満たない極めて短い時間だった。知覚で捉えられない理不尽な襲撃を、フィルムの一部を塗り潰されたような不快感だけが知らせていた。この体の―肉の感覚ではそれに影響されることすらないのだろう。そう後悔しても遅すぎると、足元の黒い水面が示していた。

 元に戻った。俺の知る、屍と溶け合った黒い浅瀬のある世界に変化した。今一度見てみると、その変容ぶりは残酷なほどに徹底していた。少女たちの記憶を完膚なきまでに辱め、穢すように彼女たちの言ったものは消えていた。どす黒い肉塊が蔓延り、水音に紛れて幾百の囁きが俺の鼓膜に突き刺さる。そこを歩く俺は踏み込みは浅く、一歩一歩に物質感がない。水面に隠され、途端に底知れない異質さが姿を見せる。

 そんなにも忘れたいのか。

 誰かの死の観念が混ざり合った黒が、鮮明な記憶を侵略する。俺はその無関係な筈の記憶が犯される光景に、ただ自分の知った光景に戻る現在に、堪らない不快感を覚えた。この不快感、そしてこの怒りは、俺のものなのか、それとも俺の中の少女たちのものなのか。判別できない感情が、それでも何の問題もなく動機として俺の身体を動かし始めた。

 無我夢中に、文字通り何も思わない自我の介入する余地のない動きの果て、やっと体の主導権を握れたと思った瞬間には、俺は空間の果てに来ていた。門がはるか遠くの反対側に見える、来たこともない、見たこともない景色。知る世界の知らない光景。その光景がリアルなのか違うのかを判断することはできない。ここまで来てようやく、俺はプラスマイナスゼロに立てた。フラットな大地に直立する旗になれた。

 さぁ、どうする―俺は既知の地平が見える未知の位置に立ち、不自然にも挑戦を望んでいた。誰も知らないこの視界に、死の黒はどんなことをするのか、それが気になってしまったのだろう。誰の為にもならないただ無益な興味として、俺は仁王立ちをして静観した。余裕などなく、気持ち悪さと怒りに押し潰されて嘔吐していないのが不思議なくらいだった。しかし、そんな圧力の中で一つ立ち続ける意志があった。全てを知りたい、目を逸らさずに、なにが起きて、なにが終わるのかをこの目で見たかった。誰の為かも判らない―操作された興味かもしれないそれと一緒に、異常なほど勇気が湧いてきた。

俺の中に渦巻く、俺を器とした幾百の魂の代わりに、俺の眼球は揺らぎも怯えもなかった。覚悟で目が潤み、涙が出るのなんて初めてだった。

「来いよ」

正直言うと、来てほしくはなかった。見たいという興味は揺らがなくても、怖いし、進んで待つ理由なんてない筈だった。だが、体は動かなかった。俺の自我が己の安全を確保する本能を諦めた今、もはや死の黒がいつ来ても変わらない。好転も悪化もしない、前のめりのまま、俺は停滞していた。

 一瞬、ではなかった。一体、地平の彼方に人影が見えたかと思えば、その数は時間をかけて増えていった。そしてそれが俺の隣にまで迫った頃、人影はそれ以上増えなかった。奇妙だ、気持ちが悪い。怖い、逃げたい。そう正常に判断する精神と裏腹に、俺の魂はその全てを裏切っていた。奇妙だからなんだ、怖いからどうした。周りの魂が荒ぶり戦慄してもなお、俺の魂だけは停滞のままの無敵の気分であった。なにがあっても、どうにもならない。俺は諦めているようでもあり、だからこそ現状打開に何の覚悟も要らなかった。

「俺は進むよ」

小さく呟き、だが心の中で何度も反復する。

 俺は進む。

 俺は進む。

 俺は進む。

傍から見れば、俺のは不思議な歩き方だったに違いない。恐怖と違和感に何度も足を止められながらも、強引に一歩一歩を踏み出すその様は、常に転びそうに見えたことだろう。二足歩行初心者か、と自分でも呆れた。だが、そう言ってもあまり違和感はなかった。今一度、ようやく自分の足二本で歩いているという実感があったのだ。

 俺は真ん中に来た。右を見て、左を見て。死んだような顔で、一周ぐるんと楽しそうであるかのように手を広げて回ってみる。そうすると、不思議なくらい何の変化もなかった。どこを見ても、どれも見えない。何かを視えているという感覚がない。人影が、その言葉のままで影であった。

 俺は、影を人に戻す術を知っていた。無論、やったことなどない。だが知っている。目の前の人影が、人であるのなら、魂であるのなら、その方法は感覚で理解していた。そしてその実践だ。

 俺は一人に触れる。力を込めず、ただ触れているという事実を噛み締めるように、ひたすらにしっかりと手を握る。ファーストコンタクト、拙くとも信頼を示すように、しっかりと握手をする。体温はない。伝うものはなく、泥のように粘度のある影がその質量だけを俺の手のひらに与える。

 それで良かった。それで何の問題もなかった。

 何も与えないのなら、俺が与えればいいだけだ

俺は力を込めた。頭と心と、中にいる幾多の魂たちと同調し、その全ての代行者として握る手に力を入れる。影と分かっていても、握り返すものがないと理解していても、俺は真剣にただ一つの力なく垂れそうな手を両手で握る。心を通じ合わせるように目を閉じて…そうすると、なんだか祈っているようでもあった。だが、俺は何にも祈っていなかった。何も祈る必要はなかったし、祈るべきでもなかった。ただ一人の人間と触れるのに、自分でも彼女でもないその他の誰かに思いを向ける必要なんてない。

 ただ、彼女の手を握っていた。

 遠い、遠いどれほど長い時間が経っただろうか。気の長い話だと思う。三つ近くにあるだけの天井の染みと会話して、友達になると言っているようなものだ。正気じゃないし、無駄なことだ。だけど、それはあくまでも例え話。現実はそれよりもうつろで、人らしさなんて見えない。ただ少女の形をしている影。けれども諦められなかった。だって、目の前の彼女が、人間だという確信があったから。

 「もう、帰ろうよ」

俺の口から言葉が出た。

「待ってるよ」

もう一度、声が出た。

「大丈夫、もう一度一緒になろう」

誰かの思いが、声に出た。だが、誰かの思いというだけではない。だって、俺もいつかそう言っていただろうから。

「俺は、受け止める」

俺は彼女の手と握る手を、彼女の目の前の高さまで上げた。

「さぁ!」

手が熱くなった。何十何百という人の温かさが、俺の手に集まって太陽を触っているように熱くしていた。その熱が影をヒトにかえる。煤を丁寧に払うように、死の黒を覆し、肌の白い若い少女が―やっと見えた。

泣いたと思う。何度も繰り返しその顔を見る為に、涙が目を濯いだ。それだけでなく、喜びでも泣いていた。

「やっと…やっと」初めまして、ではない。やっと出会えたのだ。

彼女と指先が触れ合い、指の腹がくすぐったかった。異なる人の、異なる指が触れ合えた。肌の擦れる感触が、こんなにも嬉しいものだとは思わなかった。手を伝って彼女の全てが俺の中に渡ってくる。俺という器に入り、同胞の魂と再会するのだ。

 彼女の最後、それが入り込んだ瞬間に、頭を弾丸で撃ち抜かれたような気持ちだった。死んだという意味ではなく、取り返しのつかないほど巨大ななにかが頭に入り込んだという意味で。きっと、それは死の観念だったに違いない。死者ではなく、死から解放され―ただ死んだ者に還ったという決定的な重みだった。脳天に楔を打ち込まれたように痛かったが、それで怯むことなんてなかった。寧ろ、その痛みで俺の身体は何にも惑わされない透明な視点を手にしていた。

 その視点のまま、もう一度人影を見た。


 目の前の全てが整列している。胸から一直線に扉のように開かれた腹から垂れ下がる筈の内臓の全てが、整列している。

地平線の彼方まで、首を切られた白衣の少女が並んでいる。乱れる様子もなく、碁盤目のように規則正しく並んでいる。生き物ではありえない程に秩序立っている。秩序的に立って、生きている。

視界の彼方まで続く首切り死体の列は、その終わりを見せない。

 暗闇の中、しかし仄かな明かりが事実を照らし出す。なにもわからないのに、それが現実だと映し出す。灰色の何かが砕かれたあとの欠片が転がっている。それがなにかはわからない。それでいい。なにであるかをわかりたくない。

それでも列は続いている。

嫌なくらいに視界は鮮明だ。鮮明に、死んでいる筈の彼女達の顔が見える。


―何故笑う。


切り取られた頭の代わりにそこにある石造の頭は、否定の余地もないほどに笑っていた。それに押し出されたように、彼女らの両手には別の頭が置かれている。それは元の頭。生きていた頃の名残を残す、今は死んでしまった頭。

 それは、言うまでもなく泣いていた。嘆いていた。叫んでいた。怒りに歯を食いしばりながら震えていたものもある。何故だか判る。視えていない者も含めて、この場にある全ての表情が読み取れる。状況が、真意が読み解ける。そうして解るものは一様に、全て現実、冒涜的なまでに犯され、改竄されていた。そんなことなんて最初からなかったように、自然な、間違いようのない笑顔で置き換わっている。

 やめろ。

知らない誰かの為に、知りたい誰かの対して、知りたくもない誰かの怒りが聞こえる。それに誘われるように自然と俺の中に嫌悪感が満ちていく。

 そんな顔をしていない。まずは、全ては否定から始まった。そんな笑い方はしない。そんな体はしていない。そんな想いじゃいられない。

その全ての意味に圧し潰されてしまいそうなほど重々しい憎悪が俺の身体にのしかかる。自分の内にある全ての情報が押し流されてしまいそうなそれに、俺は苦しかった。この場に溢れる全てが、この場に存在する"俺"を圧倒する。ひとりの身に納まるわけのない感情が、今ひとりの身に流れ込む。

 圧壊しそうだ。俺は叫びたかった。けれど叫べなかった。爆発しそうだった。これが侵略、これが呪い。今は去ったプラガハの言葉がここに来てどうしようもない一方的な実感と共に理解させられる。これを啓蒙なんて呼ぶな、これはただの押しつけだ!心の中では理解していても、体は今、何者とも呼ばれなかった―計上されなかった誰かによって引きちぎらんとばかりに"あっち側"に引っ張られていて、自分の意思で動かせるものなんてなかった。

「せめて並べよ! 一度に言うな鬱陶しいッ!」

死の黒は圧倒し、視界は仄かに暗い。だが暗いままなのに、視界が広がる。"見えない"が視える。暗黒が拓かれ、更なる暗黒が出で来る。白いエクトプラズムが雲のように上がっていく、どこからか吐き出された煙が逃げていく。

あれはなんだ?―わからない。だが直感的にわかりたくないと思ってしまう。


 でも、わからなければならない。俺の中の魂の思いが、俺を操る糸ではなく、与えられた使命としてどうしようもなくラク・ロゥという人物を規定し、尊重していた。全てを失いそうなこの暗闇の中で、その使命は永遠に明るかった。

「逃すかッ!」

俺は天に手を伸ばした。彼女たちから伸びる白い雲を全て手に入れるように、力の限り手を伸ばした。

伸ばした先で俺の―"俺たち"の手は、なにかを掴み、丸ごと我が物にするように引き寄せた。

全ては俺の掌の中に収束し、世界そのものがぐるりと一つにまとまった。人造の死の世界は、こうして終わったのだ。


 【 】


 とうとう俺はどこにもいなくなった。死や暗黒や、およそ俺の認識できる概念に当てはまらない―言うなれば、"虚無"とでも言うべき感触のない世界だった。永遠に変わらない、果てしなく、果てしないままでいる超越的で無意味な世界。何も思うものはなく、何も考えるものはない。思考する対象も主体もない。まず"生"や次に"死"が成立しない。何も起こらず、そしてこの先も何もない。始まりも終わりもないのに、だが自分は途中から突然現れられる。

 何の脅威や意味もなく、ただルールとしてそこに存在していたなにものかとして紛れ込む。大海に織り交ぜられるその様は、まるで分解させられて薄められる―紙にでもなるんじゃないかというほどだ。知覚はなく、認識もなく、ただ存在しているだけで究極の理解が与えられる。それはあまりにも易しい、優しすぎる。

 俺の気は安らいだ。やっと恐怖も、不快もない。強制的に浄化されると聞けば、また人間的な毒気が抜かれるのかと思うかもしれない。けれどそうじゃない。"俺"はあの時とは違う。毒がなくなっても、恐怖することはなかった。敵意を持つことも、悪意を抱くことも出来なくなったとしても、なにも問題はなかった。そもそも、敵意も悪意も必要ないからだ。不思議と気楽で、苦しみから解放され、まるでマッサージでも受けているようだった。

 俺の中に、自分を失わないものがいるから、俺も俺を失わなかった。だからこんなにも、危険がない。この"虚無"はなにも始まらず、なにも終わらない。だが、今の俺は器だ。器は器で、注がれて零さなければいい。俺が始まる必要はなく、終わる必要もない。自己完結した存在に、始まりの終わりも関係のないことだったのだ。やけっぱちな捨て身が、今は全能感の面をして、機能している。不自由の海の中で、ただ一つ自由な自分という存在が愉快で堪らなかった。

 だが、脱出はしなければならない。不安はなく、寧ろ確信しかなかった。数少ない、相手側に過剰に制限された手札の中でも、俺は必殺の一枚を選べるのだ。こんなに愉しいことはない。

 自分でも自覚できない、時間と空間が平坦に押し潰されたこのまにまに、俺はなにかを否定した。敵意も悪意もなく、目の前にあるイエス/ノーの、ノーを選んだというだけの話。当然存在する、二者択一。自然選択の枠から逸脱することのない取るに足らない出来事。そんなちっぽけで不明瞭な否定が、なによりも嬉しかった。俺の中にあるなにかよりも遥かに、まだ抵抗できるという事実が希望になった。

 後悔しないように、これが最後でもなんら不思議なことはないように、俺の思いつく中で最も毒々しい否定を企てた。

 現状への否定―全てが一次元的になった現在では、それはこの世界そのものの否定にも近かった。

 敵意も悪意もない、ただの事実としてその証拠を上げる。前の俺―なにかから落下し、他の名も知られない生命の屍と同じように、絶えかけた意識の中で体が記憶した感覚を列挙する。痛み、苦しみ、恐れ、無力さのまま死に絶える絶望の感覚を再現する。

 世界が歪む。毒物を排そうとその姿をうねらせるが、それはただの一波として終わる。俺はまだいた。

 感情から枠を広げ、俺は体全てを思い出そうとした。頭の割れる焦りと解放感。打ち付けられた骨が折れ、肉に食い込む。肺か横隔膜がぷすと破られ、呼吸の一回どころか、それをしようとすることさえ叶わない。血と体液を抜け、空気の泡がぽほぽほと口から出る。吸い込むことなんてできず、ただ吐き出す。鼻が血で、口が唾液の作った幕で埋まり、とうとう吐き出すことすらできなくなる。空気が上に溜まる。今まで体を動かしていたものが、今まさに体を殺そうとしているのだと命の不安定さを実感する。ただ落ちるだけで死ぬなんて、なんて欠陥生物なんだ。欲しかったものが飽和し、満足することなく溜まっていく。次第に意識が遠のく、体温を発さなくなった体に、血が熱い。ずっと痛かった、ずっと苦しかった、ずっと怖かった。ずっと、絶望していた。

 死因は確か、善行をしたかったからだと思う。何かを守って、認められたかったという欲求があった。ずっと欲求不満で、気まぐれに満たされてほしいと思った。だが、結果は―

 俺はなにも守れなかった。誰かを…誰かしらを守って、受け入れられたいと願う俺自身すら守ることはできなかった。確かに、その時無力感はあった。死の間際のその感覚は、確かに今と似ている。だがしかし、決定的に異なる部分がある。俺の知る死の感覚の方が、よっぽど本物なのだと判ってしまう部分があった。

 絶望だ。人間性を駆逐し、幸福から遠ざける毒が、死の瞬間にあったのだ。それが無い時点で、この暗黒は死ではない。浄化される死なんてない。その最期の瞬間まで、人間は穢れ続ける。だから最期、最期の最期なら浄化されていいなんて、そんなことはありえない。両立しない二つのものが、矛盾しながらも崩れていない―現実味のなさこそ、俺が否定したいものだった。


 死者を尊重するのなら、死は綺麗であってはならない。


一度死に、幸運にも生まれ変わった俺が、最高のOBとして一つ言葉を与えてやる。


『出直してきやがれ』

論理を考える最後のピースは、醜いほどに感情的で、それ故に俺の思考の全てを代弁していた。


「慰めにもならない、こんな偽物じゃ」俺は一言、呟いた。

敵意も悪意もなく、だからこそ排除されない一つの不満。それが生まれてしまった。どんなに小さく、一人の言葉でも、それはこの一次元的な世界に伝播した。歪んで、歪んで、とうとう矛盾が干渉しあう。抑圧していた一つの絶対的な解に苦しみ出す。


―「満足しない者がいるのなら、それは理想郷なのか」


―「死は理想郷ではなかった」


この世界に課された命題は狂い出す。成立すらしなかった世界律が、成立こそしていた世界律の崩壊に巻き込まれ、ともに崩れ去る。

 たった一言の否定で、優しい暗黒は消滅していく。偽物を自覚した世界が、その役割の二律背反で互いを薙ぎ倒し続ける。混沌になる暗黒の中で、魂たちが動き出すのを実感する。動揺しているようでもあり、混乱しているようでもあった。だが一つ、星のように多い魂たちは、一つの同じものを持っていた。

 彼女たちは、喜んでいた。

「戻ろう」俺は声に出す。今度は決して響かない―三次元的な存在として、俺は肉声を発した。

「帰ろう」周りの魂たちは、手足の捥がれたまま、俺を巻き込む一塊となって飛び出した。

俺は辺りを確認する。右を左を、目がないからこそ、自由に見渡せる。そして気付く、魂たちの輝きを。極彩色の鮮やかな星々のような輝きを、俺は知る。

 俺は、ほくそ笑んだ。苦笑するように、大して大袈裟でもなくふと笑う。乾いているようでじっとりと、未知を噛み締めて湧き出る汁の妙な感覚が、俺を笑わせる。真実の神秘性と、それを壊してしまった自分の馬鹿馬鹿しさに、俺は笑った。そしてまた一言、置き去るようにさりと言い捨てた。


「宇宙は地下にある」

星々のように輝く魂を引き連れ、俺は宇宙を突き破り、上へと落下していった。

【あとがき♠】

 書きたいことが先行して、それが形にならないことが多いです。というか形になっていないことしかない…


至らぬ点ありましたら、どうぞご意見お願いします。


感想・ ブックマーク登録・評価もよろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ