【第三十八話】暗すぎる空の下で
『聖女の木像』
手のうちに収まる小さな木の像。 誰とも知らぬ者が ただその優しさにより残されている。
触れ祈ることで、体に溜まった『人間性の闇』を移すことができる。
しかしその量は少なく、所詮偽物の聖女ではこんなものである。
目の前が明らかになった。俺の目を腕で覆っていたフルトーさんが、俺から離れていたからだ。彼だけ特別扱いされ、俺とは距離を置かれた彼の周囲には泡が華のように咲いていた。
つまり目を開かれたのは解放されたわけではなく、保護がなくなったからだった。当然、喜べるような事態ではない。その上俺とフルトーさんが別離されているので、そこにはなにかしらの悪意を感じざるを得ない。単なる脅威の裏付けとしてする陰謀論的な因果の結び付けではなく、明確に俺を見下す何者かの存在を感じたのだから、勘違いなどではない。
"ずっと、なにかに見られている"
「 」
声が出なかった。怒りや焦りを込めた怒号のような言葉だったからか、俺のいる毒気のない空間では俺の声は発することすらできなかった。
全ては黒く、だが暗くはない。上に見える星空と、一際に大きな月の光に照らされているからだろう。
怖かった。敵意も悪意も、抗おうという意思の力も全く湧かずに、それが禁じられた邪心であるかのよう抗う発想すら出なかった。ただ震え、蛇の目に睨まれた蛙のように動けなかった。思考は正常で、いつもの通りに動く。だが、思いつくのは全て後ろ向きで、考える適する解が不思議と形だけで、中身がなかった。
「なんとかしなければ」という幼い無力感にいくつかの注釈を添えるのが俺の能力の限界だった。
巨大な手が、俺を掴む。温かく、柔らかで、見れば肌の白い女の手だった。美しかった、だからこそ堪らなく不気味だった。巨大な手というもの自体には、きっと恐れていないのだろう。《白無垢の聖女》も似たようなものだし、ああいった化け物を認めたのだから、その類に掴まれてもおかしくはない。そういう諦めは、既にしていた。
手が斬られる。勿論俺はなにもしていないし、出来る筈もない。斬ったのはフルトーさん―彼の持っている異斧は、増して巨大な渦を作っていた。いつの間にか外したのか、仮面のなくなった彼は見たこともない怒りの形相をしていた。唇を強く噛んだのだろう、白く美しい彼の口は、血でピンク色に染まっていた。彼がそこまでしてくれることが嬉しかった、それと同時に自分の為に動いてくれている彼を他人事のように考える俺自身が、醜かった。
手は至るところから、虫かごにするように、上から現れて下を浚うように伸びてくる以外にそれらしい共通点はない。あまりの一貫性のなさに、これといって思考することすらなく、呆然のままにそれの一つが頬を掠めることを許していた。
彼は一歩、前に出る。彼の周囲の泡が立つ度に、肉が抉れるように彼の体がへこむ。彼の表情からして、尋常ではない痛みなのだろう。それでも彼は一歩、また一歩。走り駆けられるまでに、彼は揺らがなかった。
走る度に、彼の一歩は大きくなる。大きく、強く、暗黒を軋ませていく。力強さを感じる反面、そうなった彼の姿からは頼もしさは消えていた。
獣がいた。
枯れ木森の怪物がそうしたように、コールタールのようにドロドロと粘性を持つ黒い魂を纏い、暴れていた。ピンク色の眼光はかろうじて左右に分かれ、乱れた六つの殺意として輝いていた。魂が皮となり、非生物的に蠢き、爛れ落ちる。
獣はその身の数倍はあろうかという程に腕を肥大化させ、六本の鉤爪で浮く手を切り裂く。二本の腕では足りず、肩の上に来れば肩に腕を、背後に来れば尾に腕を、思うがままに身体を変容させ、生命の限界を遥かに超えた不気味なほどに的確に襲う脅威を跳ね退け、過剰なほどに切り裂く。それでも追いつかず、獣の肉はあっさりと捥ぎ取られ、儚い飴細工に触れるようにして骨肉を捻り奪われる。しかし、そうなっても獣は―それどころか両者は衰える様子を一切見せず、十の瞬きのうちに獣の肉を奪い取ると、一の瞬きのうちに新たに肉を生やし、星光のように鋭く世界を切り裂く。
青白い怪異に果敢にも戦う命と見るべきか、紅黒の野獣を排除せんとする神秘の使徒と見るべきか…俺は目の前に起きる出来事を整理すると、感情や直感と反する現実に戸惑う。ともかく、それが―目の前に起きる現実の本質がなんであれ、俺は認められなかった。もしそれは猛々しい生命の輝きだとしても、限りなく静謐な超然的な者の偉大さとしても…それがこんなにも醜く、暴力と喪失と血にまみれた茶番である筈がない。目の前の時間が次の一秒になる度に、静と動の―動きの尊さが何の慈悲もなく侮辱される気がした。
「嫌だッ!」俺の口は、今更になって正直になった。
声が出た、やっと出る。だが、そんなことを喜べるような状況でもなかった。出来る事は増えたのに、状況は刻一刻と悪化し続けている。
「嫌だ、来るなッ!」
俺は叫ぶ。ただ叫ぶ。
聞かれたのか、紅黒の獣は魂をぼたぼたと垂らしながら俺に向かう。なにがあったのか、四足獣の姿ではなく、まるで翼を持つ龍のようになっていた。獣は自らの重みに耐えられずに、潰れたように頭は低く、翼のようになっている腕の先を杭のように突き刺して一歩を進んでいた。
そこまでして俺を―
俺は不条理に向けられる理解不能の意志の矛先になって、それから逃げられないことで、恐慌状態となった。俺は逃げるでもなくただ立ち、降伏するように跪いた。からっと、俺の体は力なく崩れ落ちると、折角声が出るようになったのに、呻きとも叫びとも取れない悲鳴の断片を口から漏れた。
「…んだっ…そく…な…こんあ…もぅ…」
肘が地面に埋もれる。底なし沼のような足元の黒い魂は、泥のように粘りつき、だが水のように柔らかで、空を掬うように軽かった。俺はその魂を抉るように、爪が手のひらに突き刺さるほどに拳を握ると、額に打ち付けた。それは―石のように冷たかった。
「…なん…ぁんだ」
倒れていないというだけ。寄り添えるものもなく、無力に沈み込めないだけの俺は思い切り上を向いた。少し湿った目の周りに月光が当たり、少し暖かい。だがそれを裏切るように、却って自然なほどに心が冷たかった。
「なんなんだ畜生ッ!」
それを待っていた、とばかりに、俺の叫びはこの暗黒をつんざいた。俺は何度も、意志のままに響く叫びに全能感を覚え、気の続く限り嘆いた。
ふと、光が遮られたのだろう、顔が冷たくなった。けれども妙な温かさを感じた。俺は少し躊躇い…荒い呼吸で揺れる体に合わせて徐々に赤くなった目を開いた。当然、獣がそこにはいて、視界の全てを覆い尽くしていた。
危機回避しようとする本能が自動で働いたのか、獣から距離を置き、そうしたら次は恐怖が来る。
「近づくな!化け物!」俺は獣に対して地面を掬って投げつけた。泥のようで、だがなにもなかったかのように指の間から通り抜けて、飛沫程度とも言えない僅かなものだった。
命中はしたが、黒に黒を重ねるだけの、なんら意味のない行動だと解るだけだった。それでも俺は投げた。必死に、醜く、力なく、爪の間に残りすらしない千切った魂を獣に向かって投げ続けた。
だが獣は、一切動じることなく、俺のいた場所から動かなかった。反応は疎か眼も手足も、まったく動かずに生気を感じさせることはなかった。死んでいるのかと思えば、そうではないらしい。心ここにあらずと言った感じで、別のどこかを覗き、それと調和を取ろうとしているようだった。暫く、動きはしないだろう。
じっと獣を見ると、次第に奇妙になった。怖い筈なのに、助かりたい筈なのに、俺は―俺の体でも魂でもなく、俺自身は、なにも怯えてなどいなかった。恐怖も危機感も、全ては俺の体が自動で作り出した形式的な反応でしかない。心の底からは、怯えてなどいなかったのだ。
一瞬、我に返った。我に返ってしまった。そして自分が、なにに叫んだのかを理解してしまった。
俺は前を見て叫んだ。目の前で暴れた、黒い獣に向かって叫んだ。あれには―彼に叫ぶなんて、そんなことしてはならかった。その正体も知っていたのに…俺は、
フルトーさんに、叫んでしまった
なにかが―自分の中で基盤でこそないが、致命的なものが欠落してしまった気がする。なにかは判らない。かけがえのないものではない、決して金銭的な価値があるわけでもない、その気になれば取り戻せるような予感があるものだと思う。唯一無二ではない。唯一無二ではないけれど、それを自分がとても大切にしていた覚えがある。特別ではない―多くの者に等しく与えられる代物、そう判ってはいるものの、だからといって諦められるものである筈がなかった。
ただ、なにかが欠けた。
俺は裏切った、俺は身勝手だった―喪失感に空けられた穴からぽろぽろと脆く崩れ落ちるように、淡々と後悔が生まれる。
俺は、フルトーさんをなんと言った?
"化け物"?
"化け物"と言ったのか?
俺は、自分を守って、信頼してくれた人に、化け物なんて言ったのか?
彼の戦う様を見て、獣だなんて思ったのか?
頼れる人を―こんな異世界に一人送られた俺を守ってくれた人に、化け物だなんて、獣だなんて、そんな風に…。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
そんなの、絶対に
そんなことは、絶対に
してはならない。してしまうと、俺はどうなる? 彼はどうなる? 考えてみれば分かることだろうに。それなのに俺は、考えもせずに、彼に…
「そんなの嫌だァァァァァッッ!!!!」
俺は叫んだ。認められない―認めてしまえば、俺の中の一部が決定的に消滅してしまうのに、禁忌を犯した自分の弱さを叫び尽した。
頭が痛くなった。腕が痛くなった。胸が、腹が、足が、上から順に体に穴が開くようになにかが突き刺さる。それは腕だった。この暗黒のそこらから伸びる青白い腕が、俺を掴んでいった。
俺の周りに、白い小さな人形が現れる。小さな白い光に手足がついただけの、頭でっかちで異様に四肢が細い。それが一体、また一体と現れ、俺を囲んで踊り出す。歌を歌い、手をつないで舞踏する。優しい声で、笑いながら、絶望する俺をちっぽけな姿で少女たちは祝福する。心の底から喜んで、だがどこまでも規則的な少女の踊りの円は、広く、大きくなると、その円に従って俺の周囲だけが陥没する。深さなんてありはしなかった足元が、確かに落ち込む。
蟻地獄のようになったそこに、青白い手は俺を押し込む。抵抗なんてできるわけもない。弱さを自由に叫べる―与えられた無意味な全能感に、今はすがりつくしかなかった。言葉にもならない虚ろな音をぼそぼそと口にしながら、俺はより深い暗黒へ堕ちていった。
【 】
失望を待ち望まれていた。絶望を祝福された。もう冷静になってしまった、正気になってしまったからには、もう一度狂気の夢に戻ることは出来ない。祝福する歌は壮大で、優しい歌声だった。だからこそ、自分が騙されているのだとすぐに理解できた。そして、理解したからと帰れるわけではないことも、同時に解ってしまった。
より深い暗黒に堕ちても、俺の絶望は変わらなかった。空けられた風穴からきゅうきゅうと、なにかが抉り取られて抜けていく。次第に自分という存在そのものが虚空になるという自覚が生まれる。おそらくはもう、未来も過去もないのだろう。これから起きることが、今既にそうであるように理解できる。この先が決まっているのなら、動いたところでどうしようもない。ただずっと、空っぽになった"何者かだったナニカ"が堕ち続けるだけだ。
そうであるのなら、動くのに意味はない。生きたいと思ってもしょうがない。完全な無力であるのなら、生きていたところで意味はない。
もう、目を瞑ってしまおうと思った。暗闇は静かで、痛みを消すほど冷たい。救われないのなら、せめてこの冷たい静寂の中で消えてしまうのも悪くない。俺はそう思い、目を閉じた。赤ん坊のようにうずくまり、このまま眠るように消えてしまおうと思った。そして、その思いを撤回することはなかった。
ふと、誰かの聞こえる。どうせ俺を惑わす悪意の囁きなのだろうと、聞こえないふりをする。
ふと、風穴が塞がれる。それどころか、風穴を通してなにかが俺の中に入り、大きくなった。
ふと、誰かが俺の手を握る。柔らかで、傷だらけで歪んだ手で俺に触れる。
「誰」
俺は目を開けた。なにかが見える筈もない暗黒で、すがる星もないのに、希望を抱いて目を開けた。まったくの不意の出来事で、自分自身でも自覚していなかった。その程度の、綻びと呼ぶのも無理な僅かな隙間を、次々となにかを通っていく。全ての風穴は塞がれ、出ていくものはなにもない。代わりに温かな感触が仄かに悴むような痛みを癒していく。
瞼を開け、意識を取り戻すと信じ難い光景がそこにはあった。暗黒で"なにかたち"が―動いていたのだ。それは大勢の同じ白い美しいローブを着た少女たちだった。見覚えのない―あったとして今の俺が思い出せる筈もないのに、疑いようもなく、彼女たちを知っていると断言できた。
名もなき少女たちだった。切られ、食べられ、晒され、その骨の髄まで暴かれ、痛めつけられ、その身の全てを辱められた死体―彼女たちが今まで見てきたそれらの死体の主たちであるとすぐに理解できた。
『罰して』
少女たちは統合意識でもあるかのように、同じ言葉を口にした。以前フルトーさんが聞き取った、本を抱えた肉塊が呟いた言葉だ。知っている。
だが、それで終わりではなかった。
『終わらせられなかった』『救われなかった』
『自分達を』『この世界を』
―『罰して』…
続くのは、それは到底知り得る筈もない言葉だった。彼女たちは、根本的には罰してほしくなどなかった。後悔と、それに連なる自責の念に圧し潰されただけだったのだ。
彼女たちは苦行を望む修行者などではなかった。彼女たちは取り返しのつかない過去を悔い続ける悔悟者であったのだ。魂になっても尚、自らを後悔する強い未練を持ったのに、俺はそれを理解できていなかった。理解できない、冒涜的という言葉だけで片付けていた。それが今になって、言われなければ理解すらできなかったのだ。
フルトーさんの言葉を思い出す―『聞こえる耳鳴りは、この遺跡を成す物語のどちらか一つにしか対応していない』『どちらかがもう一つの物語の前提か、或いは後付け』『時間に大きな隔たりがあるから、ある物語の登場人物は、その物語の前後は把握できない』―それは、本当なのかと思った。俺達をの聞こえた耳鳴りは、この世界に留まり続けた少女たちの魂は、本当にその通りなのだろうか。
彼女は生きていた。命があって、それが動いていた。決して最初から物語の登場人物などではなく、生きた物語の中にいた。だから、彼の言った言葉本当とは限らない。時間の隔たりなど、それを大昔として捉える傍観者側の発想でしかない。連続した人生の中で、二つの物語の登場人物として重なった彼女たちに、"時間の隔たり"はない。俺たちは、もっと彼女たちの声に―耳鳴りに信じるべきだったんだ。なるほど、これでは自称善人としか言えない。少し、フルトーさんの真意が理解できた気がした。
俺は、そっと手を差し伸ばした。大きな穴が真ん中に空いた手を、魂たちに差し向けた。その穴を通って、漂白されて毒気の抜けたこの肉体に、自我の猛毒で侵してほしかった。動けなくなった俺を器に、彼女たちの力で動かしてほしかった。
一人、二人、数えきれないほどの名もなき魂が、空っぽの器に触れ、吸い込まれるように器を満たしていく。俺の手の上に、肩に、背に―薄く儚い白い手は、俺の体に触れる瞬間だけその重みを取り戻す。幻影のような彼女たちの、失われてはるか久しい体温が、少しだがちゃんと解った。器に注がれる一滴の雫になった瞬間だけ、その僅かな一瞬に限られ、名もなき魂たちは死した少女の一人一人と生まれ変わり、また別のものとして混ざる。ほんの一瞬の儚い自我の覚醒で、彼女たちは皆一つの行動をした。
「…ありがとう」
彼女たちは、今一度一人の自我になり、そして消える瞬間に、俺に短い言葉を与えた。生誕の喜びか、惜別の寂しさか、その自我の数だけ数えようもない遺言が俺に刻まれ、消えない致命傷を残した。
ああ、死んだんだ。魂だけ―手に触れられず、抱きしめられもしない孤独な者たちは、確かに生まれ変わり、そして死んだのだ。数多の生と死の輝きが、どうしようもないくらい俺を魅了し、進まなければならない使命を与えた。
少し、自分を憎んだ。
こんな形で―彼女たちの犠牲がなければ暗黒で死んでいった弱い自分を憎んでしまった。
でもごめん、俺は弱いんだ。誰かの力がないと、立ち上がることすらできないんだ。―自覚はした、実感もした。そんな弱さを申し訳なく思いもした。けれど、それでも自責することはなかった。既に理解していたことだし、もう既にそれが前提だった。弱い奴として扱われていたし、自分でも弱い奴だと思っていた。甘んじていた、と言い換えてもいい。だから深く自責の念を抱くことはなかったけれど、今はその弱さに甘んじる自分も憎くなった。だが憎んでいたからこそ、止まりたくなくて自責することは結局なかった。
一つの手が、今度は俺に差し伸べられる。触られたことのない―だが憶えるのある手に取られ、重力や上下などない暗黒を昇天していく。そうする棘だらけの天使を、俺は知っていた。
「…《呪枝の騎士》プラガハ・ベルデロット」
かつて俺を襲った手は、今俺を導いていた。
「覚えていてくれたか…」
「いや、覚えてない。でも、知ってはいたから」
自分でも不思議だった。数日の付き合いもない―ただこの遺跡の中で会っただけの死者の名前がすぐに出るなんて、そんなことをできるわけもなかった。なのに俺は、彼の名前を言えた。
言えると思って、言えただけだ。ある意味では、こんなにも理不尽なものはない―否定的ではない、嬉しい理不尽。
「どこへ行くの」俺は尋ねる。
「ここは肉の国へさ。少しばかりは虚ろではないだろう」彼と、彼の周りの魂は答える。
「そうなんだ」俺はそれ以上訊かなかった。
どうなるかは、もう解っていた気がした。未来も過去もないのだから、今までどうで、これからどうなるかは不明瞭でも、認識はできていた。
きっと、これでプラガハともお別れなのだろう―そう確信をもって言えた。名を知られた、最も強力な彷徨う魂が俺という器に注がれて、俺は別の世界に行ける。みんながいて、初めてただ一つの境界を越えられるだけだ。割に合わない、正直言って。もっと有意義なことで、魂を終わらせるべきだと思った。
きっとどこかで彼女たちは終わりを見つけるだったんだろう。美しく、人に漠然とでも意味を与える淡い色のチューリップか、燦然と明るいヒマワリにでもなるべきなんだろう。俺は、その終わりを穢している。花々の種を潰し、僅かな雫として塵のように消費する傲慢な器になっている。…罪悪感はある。けれど、罪悪感があるからこそ、彼女たちの魂の尊厳を最低限保証している気がした。
俺の手を握るプラガハの力が弱くなる。終わりが近いのか、彼の姿は雫となってほっほつと千切れて俺に降り注いでいた。霧のようになった彼の手の代わりに、柔らかな若い枝が俺の手を掴む。
「遺言は言わないの」理不尽に分かっていても訊いてしまう。
―ないと、直接訊いてみないと寂しさを感じてしまうから。
「言葉は人を縛り付ける。無暗に意思を託せば、それはきっと貴公にとって重荷になる」
今更か、と少し俺は笑った。もう既に、数えきれないほどの重荷を背負わされ、縛り付けられている。今更一人くらい、どうっていうんだ。
「俺を縛り付けたくないのなら、じゃあなんで、枝なんて伸ばしてるの」
「…」彼は少し考えているようだった。
「…思い出せないのだ。戦う為の力だけで、プラガハ・ベルデロットという男だったことの証明がない。能力以外は既に無くなっているのだろう。言う言葉がないのだよ…」そう言う彼は惜しむわけではなく、淡々と―姿は見えても、しゃれこうべで喋っていた時と大差ない様子だった。
「じゃあ…」
代わりとして求めるものなんて、一つしかなかった。けれどその一つを求めてしまえば、彼の全てを略奪しているようで、嫌な気分だった。図々しいし、こんなことで悩むことこそ、彼だけを特別扱いしているようで少女たちに申し訳なくなった。
冷徹に、もうお前はどうにもできないのだから、力の全てを寄越せ―とでも言えばよかったのだろうか。
「『呪枝』―またの名を、いや、真の名を『光岐閃』という奇跡ではね、この術だけは覚えているんだ」
彼は話をする。世界は都合よく、僅かな時間を圧縮し、彼に語るだけの余裕を創っていた。
あるところに、不幸な少年がいました。少年は生まれた親から、村から離れ、ある森に辿り着きました。森についた少年は疲れ切ってしまい、立ち込める霧の中から抜け出すこともできませんでした。
その時、一人の魔女が現れ、彼を助けました。魔女は長い、とても長い年を生き、疲れ果てていました。悩んだ少年は、魔女と一緒に暮らすことになりました。こうすれば、魔女が疲れる事はないだろうと、自分が助けるのだろうと思ったのです。
長い年が過ぎ、少年はすっかり大人になり、魔女は少年と恋に落ちました。ですが、少年を恋した魔女はあることに気づきました。少年は、魔女のように長く、とても長く生きることはできないのです。
ある日魔女は、倒れてしまいました。死ぬ時が来たのだ、と魔女は少年に言いました。ですが少年はそれを認めず、嫌だ嫌だと泣き、生きてくれと頼みました。魔女は自分が愛されているのだと深い愛を知ると、少年に魔法を授け、死んでしまいました。
あるところに、不幸な青年がいました。青年は涙を流し、死んだ魔女を想い続けました。そうして青年が流した涙は、いつしか光の粒となり地に零れ、そこから黒い枝が生まれました。青年は泣き続け、どこかに黒い森が生まれました。そこでは泣き虫の魔法使いが長い、とても長い年を生きているのです。
なんだそりゃ、と思った。素敵だと思ったけど、正直に認めるのは俺のキャラじゃないと思ったのだ。
「昔話さ、私の故郷に伝わるね。幼い頃の私は、魔女に憧れていた。受け継いでくれる者がいるのなら、それが最も幸福なのだと思っていてね。変わった子供だったよ」
思っていてね、か。今はそうじゃないのだろう。今はそうでないからこそ、この物語の術を覚えているのだろう。
「この物語は、少年が不幸のまま終わる。受け継いだ者が幸福になれない。そんなのじゃあんまりだと思って、私は魔女が最初からいなければいいのだと思った…」
彼は悲し気に、なにかに気持ちが沈んだようだった。
「貴公は、幸福にならない覚悟はできるかい?」
諭すような、提示した選択肢を自ら選んでほしくないと願っているような優しい口調だった。
「…嫌だ。幸せにはなりたい」
けれど、
「受け継ぎはしたい。俺は絶対に、不幸な少年にはならない」
宣言ではない、自信や覚悟があったわけでもない。不思議だけど、何故だかそうなるという確信があった。きっとこれは、未来の予感なんだろう。
世界はまたしても理不尽になる。僅かな時間が、僅かな時間へと還る。もう、一言たりとも交わす余裕はない。暗黒を離れる俺に、卑劣な金管楽器がありったけの呪詛を吐き出すような重低音が響く。その対で、暗黒から解放される俺に、涙声の少女たちは持てる全ての祝福を歌い出す。一瞬の形もない攻防。結果は言うまでもない。
巨大な光の玉が生まれる。優し気な祝福を響かせるそれは、白い円陣を纏い始める。古い、強力な魔法陣が、光の世界を廻り出す。その様はまるで、星系の円環のように綺麗だった。
「さらばだ、友よ」
プラガハは枝を離す。しかし、俺はそんなことを許さず、すぐに握り返し、彼を引き寄せる。
「いや、一緒だよ」
励ますように、不器用な笑顔で彼を迎える。
彼を引いた一瞬、彼は俺に重なり、脊髄の上に茨が創られる感覚がした。
多くの魂に背を押され、俺は別の暗黒に入り込んだ。
【あとがき】
ビッグランは無事カンストまでいけましたが、後遺症がすごいです。その影響か、この話をどういう話にしたいのか、詰め込み過ぎてわけわからなくなりましたとさ。
至らぬ点ありましたら、どうぞご意見お願いします。
感想・ ブックマーク登録・評価もよろしくお願いします。




