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【第四十二話】誰かが描いた世界の中で、あなたを傷つけたくはないよ

『理想郷のペンダント』

 今や何の意味も持たない装飾の剥がされたペンダント。かなり古い形式のものであり 中にはモノクロの写真がはめ込まれている。


どこか大国の貴族が持つような絢爛豪華な名残を感じさせるが おそらく修復は不可能であろう。


何の効果も持たないが 思い出など初めからそのようなものだろう。

 混沌が静止したのとは対照的に、俺の体は動いていた。何故動いていたのか、理由は行動を後追いするように生まれていく。体を動かす神経が一つ動く度に思考を働かせる神経がその何倍も動き、一瞬のうちに何十何百もの理由が浮かび上がってくる。だが所詮それはひょんと思いついただけの独善的なもので、それらしい理由は数えるほどもない。まともに理由になりそうなものなど、「どうにかできると思った」というあまりにも陳腐で愚かしいものだった。

 背後から気配を感じる。きっとフルトーさんが俺を止めに走っているのだろう。分かっているのなら止まればいいものを、俺の体も意識もその意見に賛同せずに、方向だけ定まった意志のままに動いていた。だが、止まれない無謀の意思伝達(マラソン)は急に止まった。


 いや、正確には急ではない。視認し、減速し、しっかりとした手順通りに人柱による境界、その一歩手前で立ち止まったのだ。それは俺による判断ではなく、俺という存在自体を止められる巨大な力によるものだった。


「まだ生きてる」先ほどまで走っていた筈の彼は驚くほど静かに俺の横に立っていた。

「今は余分なものを放出したに過ぎない。完全に力が抜けきったわけではなく、寧ろさっきまで暴れていたよりも凶暴で濃い力が内部で渦巻いている」

そこを見ればわかる、とフルトーさんが指さした先には当然蹲る人の姿があったが、近づいた今だからこそわかる。


 あれは人だ。

 そして人型だ。

 だが、"人間"ではない。

人間なんかよりも遥かに人間性を、その闇を内包した生命の猛毒だ。


 艶のある漆黒の人型は時折内部でわずかな光を放つ、そうした時に黒の帳を透かして中が見えるのだが、そこにあったのは悍ましくも"人"だった。歪み切った骨が、どす黒く腐った肉が限られた人型の器の中で変わり続け、進化している。その美しいまでに禍々しい人型の力は器の中に留まらず、常に力が漏れている。それはわずかに結界との境界線に触れた時にだけ可視化されるほどに自然で、世界に同化した暗黒を放っているのだ。

 どうしようもないほどに狂いきり、腐り、歪んでしまった命は、その恐ろしさとは裏腹に神秘的で―本質的には一つの存在の完成を目の当たりにしているようだった。少なくとも俺は、それから与えられる恐怖を克服できたとしても、それに手を出そうとは思わない。


 進まなければならない使命感と、退かなければならない恐怖への理解。前進と後退の両方向の意思が衝突した結果、俺は完全に硬直していた。鳥肌も悪寒も、背骨を覆う恐ろしいまでに熱い緊張もない。永遠にも思える急な停止状態は、直感的に最も危険な状態であると分かった。しかし、だからといって何もできないのが歯痒かった。そう思考だけが働く俺の視界の隅から彼は見えた。

 フルトー・アダリオン。俺なんかとは比べようもない強者。彼は俺の懐で持っていた赤い本を手に取ると、境界線を越えて闇の人に近づいて行った。

 

 …俺は、彼の足手まといにならないように必死になることしかできなかった。

 行動することができないと、こうも俺は自虐的になってしまうのか。また置いて行かれてしまう―彼の大きすぎる背中に必死に追いつこうとするしかないのか。


 ひとつ、俺の中に恐怖が生まれた。


それは死や存在そのものに訴えかける恐怖なんてものに比べたら、遥かに見劣りする。


 「置いて行かれたくない」


きっと落ち着いた自分が見たら、その幼稚さに笑ってしまうだろう。惨めで、そう思うこと自体が無様だ。けれどもその恐怖は、どんな恐怖よりも実感のあるものだった。思い出せないが…きっと俺は、この恐怖と何度も向き合った気がする。思い出せない…記憶のある部分が欠落している。が、思い出せるものはある。思い出す以前に、忘れる筈がない、こんなにも深くそして惨めな傷跡が残っているのだから。


 置いて行かれたくないのなら、追いかけるしかない。どんなに辛くても、どんなに恐ろしく苦しく投げ出したくても、諦めずに追いつこうとするしかない。恐怖に竦めば、また別の恐怖に足をすくわれる。なにも俺を待ってなんてくれない、なら俺が追いかけないと!


 俺の中でなにかが弾けた。境界線の外で取り残され、ただ一人停止していた時間はその反動と形容するにも強すぎる力を以て、突然俺を突き動かした。

息は荒かった。鳥肌も悪寒も冗談みたいなくらい体に走っていた。まともに拳も握れないほどで、五指は俺の掌に収まらないか突き破るかしか考えられない。体の震えが止まらない。俯いた顔を直そうとしたらそのまま天井を見上げてしまう。それは明らかな暴走だった。誰かに保証してもらうまでもない、ぎこちないロボットのように関節への虐待を繰り返す俺の動作は、それでも明らかに進めていた。

 前を見て、腕や脚の筋肉をやわらげ、脳の信号が明瞭に発信される。緊張と緩和の連続は顔面の紅潮によって示される。赤熱したその顔は、正体すら分からない感情で歯をガタガタと打ち付け、瞳孔の開いた眼球から溢れ出すぬるい涙と、今にも倒れてしまいそうな泡を流すことで自らの状態を伝えていた。笑って、泣いて、睨んで、死にかけて―傍から見れば俺の必死さは伝わらない。たった十センチもない距離を進む為に気絶しそうになりながら一歩を踏み出そうとしても、それは…


 いや、ただ進めばいいだけだ。何故だか急に全てが楽になった。あれだけ張り詰めた思いは、ぷつりと切れたことでたった一歩の歩みの反動に変わった。理不尽な一歩は用意する隙は与えずに、俺は顔から倒れた。

「…なんで泣いてる?」

が、倒れる途中で境界線の向こうで待ち構えていた彼に支えられた。

「が…フ…れ…」

「まったく忙しい奴だな。はいはい、頑張った頑張った…」

彼の顔は見れなかった。俺自身顔が涙や涎で到底面と向かえる状況ではなかったし、彼は俺を自分の肩の上で泣かせていた。彼は美しい白髪で感情を隠したが、彼の思いは分かった。

「…本当に、頑張ったな」

彼は俺の背中をさすり、温かい抱擁をくれた。言葉はなかったが、彼は感傷に浸っていたに違いない。そして、彼がそんな感傷なんかに浸り続けるのを良しとしないのも違いない。

「んな場合じぇねぇわ…」

彼は俺の両肩を突き飛ばすと踵を返して結界の中心で蹲る闇の人を睨みつけ、俺から取った赤い本を開いて書かれている呪文を詠唱しだした。

切り替えの早い人だ、と思いながら尻餅をついて痛い尻をさすりながら立ち上がると俺のそんなに暢気していられないのを思い出した。

 飽和した暗黒の瘴気と赤い本から溢れ出す『人間性の霧(ネウラ・ニマグ)』の魔法の霧と衝突していた。結局は力同士がぶつかるだけ―逆に言えば、力だけでぶつからなければ危険だった。五感が機能しなくても生命の危機だと理解するその圧倒的悍ましさを前にすれば、誰だってそうすると思う。

 拮抗してるな、彼はそう呟くと白い腕でも解りやすく青白い閃光を迸らせ、より強い魔力を注ぎ込んだ。赤い本の文字すら青白い光を帯びた頃、彼は急に俺に本を押し付けると単身闇の人に走り寄った。

 外部からの刺激に反応して瘴気はくっきりと目に見えるようになっていたが、可視化できているからこそ、走り出した彼に叫ばざるを得なかった。瘴気の中は言うなれば"嵐"。青光に呼応するように激しさを増すそれは内部で稲光のような触発の連鎖が発生していた。力が力とぶつかって爆発し、そうして勢いをつけたまま別の力とぶつかる。その苛烈な分子運動の中に飛び込んでいるような彼は、俺の自分でも判別できない叫び声にかすりもせず、自分に降り注ぐ全てをよけながら一直線で瘴気の中心へ。

 俺は赤い本に残留した魔力によって続いていた霧に守られていたが、だからといって霧の先にあるものを正確に見通せていたとは限らない。無心の突撃の、その背後を眺めるしかできていなかった。

 そんなのじゃ、満足できなかった。不安はもはや何の妨げにもならず、確実でないものへの恐れはなくなっていた。無謀は決死の発露ではなく、当然な選択肢の一部だった。だから、気楽だった。

 俺は青い光を迸らせている本に触れると、込められている力を指先から血管、神経、体の中で再度循環させ、もう一つの手で出力した。

眼球は些細な運動をしつつも真っ直ぐで、口は無我のままに適当な言葉を紡いで支離滅裂に思える呪文を語った。その様は不自然で、何者かが俺を操っているようだった筈だ。けれども俺は気にしていなかった。寧ろ、自分が体を動かしていない―誰かの存在が俺の体の中にあるという事実が嬉しかった。

「『呪枝』」

 これではダメだ。

朧げな記憶の隅で、確かにそう言う俺がいた。それでは"彼"を模倣するに過ぎない。それは彼の言葉を借り続けるだけで過ぎてしまう。もっと俺の…俺なら彼の物語に、どういう言葉を与えよう?

 自明の行動をしていた体は突然止まり、俺は馬鹿っぽく口を開けていた。何をするにも足りないこの瞬間に、俺は自分の体の熱さを思い知った。

 これは、俺のものだ。

「…改め、『光岐閃(カラクモ)』」

その術は俺の術ではなかった。《呪枝の騎士》プラガハ・ペルデロットという無念を果たせずに闇の中へと沈んでいった騎士の、唯一それらしい遺産だった。そして彼から引き継いだ俺の術だった。

 そこからは輪をかけて不自然だった。本来光球を発生させ、そこから枝を伸ばすだけのこの技は、小さな光の柱を創り出すものになっていた。察知しようもないその変化に、何故だか俺は適応していた。まるで数年当たり前に使っていたかのように見事に使いこなし、瘴気に満ちる結界内で児戯のようにぴょんぴょんと光柱の間を跳ねていた。対して苦もなかったが、不可解なところがあった。あまりに周囲に変化がないのだ。まるで光柱だけが例外であるかのように、時間―変化が消えていた。正確には極めて遅く動いていた。

へー、便利。とは思ったが、それでは気が抜けすぎている。そう思った俺は周囲との時間差を生むこの術の具体的で且つ有用な活用方法を思いつこうとしたが、結果が出る前に目的は完了していた。最初の方の目的だ。

「…!」

早っ…と漏らすようにつぶやく彼の肩越しに覗く目標―闇の人は徐々にその形を解かし、純粋な力の奔流に変わりつつあった。人がその本性を明らかにし、闇に戻っていたのだった。

「…こっち来てどうする」

彼は背を向けたままそう訊いたが、俺は適切な言葉を持たなかった。何が起きているのか、全く理解が及んでいないからだ。

「思ってたのと違う結果になって…」

俺にとっての一歩は、彼の気遣いを無駄にすることになった。それは承知の上だ。それでも彼を納得させるべきであって、ならばとできるのは一つしかなかった。

「…あんな感じに」と俺は自分の足跡の刻まれた光の柱たちを指さした。


 彼が光の柱を見て何を思い、考えたかは定かではない。ただ言えるのは、彼は間違いなく一瞬一瞬が生死を分かつ世界律の上位が関わるこの異質な戦場に於いて、最善を尽くそうしたというこだ。彼は自他の能力、可能性と現実その他彼に内在する秤にかけられた全ての要素を脳内に並べた。その中から最高、最善、最悪…数多の結末の予想の末に辿り着いたのは、発想した彼自身ですら苦笑いせざるを得ないものだった。

「おい、それ、あいつのとこにやってみろ」

俺は困惑した。そんなことを言われるとは、況して言った彼が頭を抱えたまま悩んでいるのだか笑っているのか分からなかったからだ。

 俺の心は迷い、困惑が続いていた。

けれども俺の体は何の躊躇いもなく瘴気を放つ人型に向かって指を伸ばし、下から上へ、一筋の線を引いていた。

骨身震わせるような流れに先んじて指で引いた線をなぞるように光の柱が何本も、何本も立ち、挙句闇の人を囲んでいた。

 光に覆われる闇、と書くとさぞ有効な結果になったと思うだろう。だが、現実は少し違った。

 純白の光に貫かれた闇の人は、その内部を明らかにしながらも進化を止めなかった。数年単位を要する莫大な進化の遍歴は光柱の与える時間差を受け、俺たちの視界にはコマ送りのように見えた。その光景に、俺は失敗を予感したが、それの結果を考えるまでもなかった。考える時間すらなかった。

 呆然と立ち尽くす俺の視界は、一瞬にしてヒビが入る。闇の人を覆い隠した光の柱はなにか"巨大な指"に突き破られる。指は一本、もう一本と増えていき、最後には薄い帳を鉄の鉤爪で切り裂くようにして光の柱を破壊した。

進化の過程で飽和した瘴気は破壊とともに一気にこちらに溢れ出し、塩っぽい血の匂いと肺に突き刺さる腐敗臭と、形容しがたい"肉"の臭いが俺たちを襲った。あまりに強烈なそれに俺は袖で口を覆い、目を閉じて顔を隠した。なにも見えなかったけれど、再び隠されただけのそれが如何なる状態にあるか、考えるまでもなかった。


 当然、新たな脅威の誕生だ。


 光を破って現れたのは、巨大な二対の腕、その持ち主をと見上げれば、かつて戦った枯れ木森の怪物をも上回る、大きな骨の龍だった。四つの関節を持つ五本の指を、明確に肘のある細長い腕が操る。

 それこそが龍の最大の特徴だった。四肢としての腕は勿論、あばらの骨も、皮膜のない翼も同じく腕であり、関節を伸ばして地面から巨躯を支えていた。

 骨の龍は先ほどまでに己を縛り付けていた人柱を容易く破壊し、それから溢れた黒いモヤのようなものを吸収し、かと思えばその体は輝くような優雅な銀色に鍍金された。すると球体関節人形めいた体は己を形成する腕の全てを対と合わせて合掌し、星を失った漆黒の空を向いて祈った。


 突如、紅い一陣の風が駆け抜けた。異臭から顔を背けていた俺は、その時になってようやく顔を上げたが、その風の理由は分からなかった。俺に覆い被さるようにして護っていたフルトーさんの腕の合間から、見えた景色は未だ進化は終わっていないことを理解させた。

 星のない筈の空は雨でも降らせるかのように勢い強く小さな流星を下界へと放ち、それは俺たちの足元の水面の一部として変わっていった。

 空が流星を雨粒として落としても水嵩は増えず、何故かと探れば当然のように銀色の龍へと辿り着いていた。龍は翼を成す数多の腕で水面の底を暗黒ごと掬い取ると、それを頭からかぶり、まるで自分自身で洗礼の灌水をしているかのようだった。しかし暗黒をかぶる龍の姿とは洗礼とは真逆で、銀色の美しい骨は泥のような暗黒に覆われ、ゴワゴワとして爛れ続けていた。

 とうとう暗黒が骨を覆い尽くし、歪だが美しい骨格が不定形の闇に溺れた。ただ巨大な黒龍に堕ちた時、龍は満足そうに合掌を解くとゆっくりと視線を下界へ。俺たちを捉えた龍の瞳は水晶のように無垢で透き通り、その視線は脅威からの逃げられないという確信ではなく、まるで暗夜に差す唯一の月明りであるように安心感に満ちたものだった。


 これもまた洗脳なのだろう。他に何も考えられず、感じられないほど俺という矮小な存在を呑み込み、圧倒する存在感。超自然的で、概念的で、相手を形容しようとする言葉全てが人の身には遠すぎる。奴の放つ威は、抵抗は無駄だと残酷な事実を突きつけている筈なのに、教えを説く神聖な教示であるかのように思わせた。

 龍は手を皿を作り、自らの眼に釘付けになっている俺たちを水面から掬った。龍は手を自分の顔の前まで運ぶと、禍々しい歪形の牙を開き、内側に隠されていた整えられた人間的な歯を見せた。


 食われるのだ―と分かっても、なにも思わなかった。

《白無垢の聖女(ゲーダァド・セーメル)》の口に入り込む時、寝ている少女の口に入り込むのには怖かったのに、それよりも遥かに巨大な化物に食われるのには怖くないのか。驚くほどちっぽけな走馬灯のように一瞬の回想を経て、思うのはそんな簡単なものだった。不思議なものだ、その《白無垢の聖女》だった少女は今俺の腕の中で小さく眠っているというのに…


 …俺の腕の中?


事実を羅列する脳が一つ違和感で立ち止まる。俺が抱えていたのは赤い本だった筈、しかもその本は置いてきた。彼女を抱えていたのは、俺ではなく、フルトーさんだった筈で…


 集中と緊張の狭間、超加速した時間感覚で永遠にも感じる一瞬。俺は自然と上を向いていた。そこには腕のみならず全身に白い螺旋を纏い、背から不揃いな羽を広げるフルトーさんの姿があった。なにもなかった筈のその手には、チェーンソーのように黒く渦巻いて凶悪な雰囲気を漂わせる異斧が握られ、間違いようのない殺傷の意思が込められていた。


圧倒による浄化が成されたこの時の中に、たった一つの殺意の凶星が眼球を焼かんとばかりに輝いていた。その輝きを放つ為に、俺の腕に自分が抱えていた少女を忘れ形見として…


「きれぇ…」


殺意の凶星と絶対の神聖が相対し、決着まで間もないという僅かな一瞬。俺は後悔していた。

これ以上はどれだけ生きても拝めない、この他にはこの世のどこにもない。そう確信させるほどに、目の前の二つの絶対存在は美しすぎた。

「また地に伏せよ(ラナ・ゼミュディオラ)ァッッ!!!」

嗄れかけた声を無理矢理張り上げたような低く響く叫びは、一人恍惚としていた俺の意識を呼び覚まし、龍が噴き出す血を以て彼の力を証明していた。

 嗄れ声の殺意の天使は自らの掌を貫くほどの鋭利な指を握り込み、その体躯と比べてあまりに巨大な龍の暗黒を抉り取っていた。

 振り下ろして、斬る。振り下ろして、斬る。回転する刃を押し当てればいいものを、彼は殺意のままにひたすらに振り下ろし続け、生半可な傷跡だけを作っていった。それが数秒も続けばどうなるだろう。神聖に思えば龍は暗黒を剥がされ、中の銀の骨すらもがズタズタに砕けた原型留めぬなにかに生々しい血がべっとりと滴っているのみとなった。


 胸元がほんのりと温かくなる。離すまいと抱きしめていた少女の寝息が当たったのだろう、そうして気付くのは、俺が息を呑みっぱなしだったことだ。

 意識をリロードする。雑念をリセットする。遥か高みを見すぎて狂った感覚を、純粋な俺だけの視点に戻す。その他、言葉にならない曖昧な妨げを消し去る為に、止まっていた息を吐く。一つ一つの行動に、一つ一つの意味を持たせて消化していく。

たった一つの生理現象に、俺はあまりに多くの意味を込めすぎる。


 …ダメだな、思うようにいかない。


喉に詰まるなにかを無理矢理呑み込み、喉を整え、鼻をスンと鳴らし、二段、三段と過程を細かく刻んでいく。そうしてようやく詰まっていた息が流れ、肺に外気が入り込む。龍の齎した恍惚は口から吐き出され、代わりに血の臭いが入ってくる。

「そうか…」なにを言うわけでもなく、自分以外の、遮断されていた不明ななにかを確かめる為にそう呟く。

視界は鈍い、疲れで隅の方が粘膜の網目が淵だけ見せている。思考も明瞭とは言えないけれど、妨げるものは元々俺の中にあるものだけだった。

 魔法が解けたかのように一気に正気へと戻った俺の視界には、神の如きも悪魔も不在だった。そこにあったのは頭頂をぱっくりと割られ、口の方で肉が繋がっているだけの残骸と、反逆心に我を忘れて刃を振り下ろして骨を削り、肉を抉る男があるだけだった。


「死ね(イェメリ)ッ!死ね(イェメリ)ィァ!」


 聞いたこともない、自分すらを切り裂くような大きな声を上げてただ暴力だけに力を使う彼の姿は言うまでもなく恐ろしかった。けれども同時に、その姿に少し俺は笑っていた。


 今度は俺の番だ。俺が彼を助ける番だ。


やるべきという使命感だけがあって、その実なんの算段もない…というのとは今は違う。馬鹿馬鹿しくはあるけれど、一応方法は思いついていた。

 実行するしかない。成功するという確信はない。けれども迷えば遅れる、悪化する。ならば今だ、ならばやるんだ。俺は自分を奮い立たせると少女を背におぶった。

 最大に最近の、最も避けがたい問題として「どうやって彼に近づくか」というのがある。兎にも角にも近づかなければなにもできないのだが、彼は凄まじく殺気立っている。そんな状態に無策にも迂闊に近づこうとしたら、おそらく彼は振り返るまでもなく俺を八つ裂きにしてクズ肉のようにしてしまうだろう…絶対に避けたい。攻撃らしい攻撃をされなくとも、バサバサと羽搏かせている彼の翼に当たった時点で瀕死になるだろう。だから「最短かつ余裕をもって」にやらなければならない。どう考えても俺にはそんなもの矛盾しているとしか思えないが、俺が運がいい。偶然にも、本当に意図していない形で俺は「最短且つ余裕」に実行できる手段を持っているのだ。


 頭の中ではこれから起きるだろう未来が鮮明に描かれている。だからこそ、その未来の安直さに笑いそうになる。俺は自虐的な笑いを堪えつつ、大真面目に右手の人差し指を前に出す。一人背負って重いからだろうか、自然と伸ばされた指はややだらりと垂れていて、伸ばすというよりは突き出されているという方が近い。

「見つかりませんように…」

俺は今更不安に襲われたわけではないが、ふとそう呟いてしまった。

 俺は息を吸い込み、肺に世界を一部取り込む。未だ血は生々しく鉄臭い匂いを漂わせ、それと反するような暗黒の静かで穏やかなぼんやりとした匂いと混ぜ合わさり、もうなんだか自分がどういう状況だか尚更混乱するだけになった。ぎよっと目を開いて匂いに驚いてしまったが、それもそこそこに。俺は目を閉じて呼吸を整え、左手で右腕をつかんで脈を確かめる。血管の中で流れる血がサーサと音を発し始めたら、静かに瞼をあけて、ただの一点を視る。

 視線に一筋の調和しない光が見える。それが兆し、術が使えるということを知らせている。俺はその兆しを逃さず、けれども慌てずになるがままに指にその光をなぞらせる。

「『光岐閃(カラクモ)』」

となればあとは簡単だ。

俺の口から発せられた四文字を合図に、俺の中の、そして周囲に滞留した力が兆しを光の巨木に変える。なればすぐに光の中に飛び込み、内部の緩やかな時間の流れに身を任せる。ゆっくりと流れる時の中で、俺は落ち着いて彼に触れない―けれども離れないルートを考え、そのルートの線に点を打つ。頭の中にルートが考えついたのなら、あとは俺自身が線になって点を通ればいい。そうすればルートが完成する。


線を引いて、その間を渡る。できることは増えたけれど、やることはいつも通りに単純(シンプル)だった。


 実際に点を打つ―現実に光柱を発生させるのは慣れれば意外に簡単だった。だが可能なのは、いつでも、というわけではない。当然未熟なので練度の所為なのかもしれないけれど、光は一度に一本しか伸びない。それも極端な集中状態になり、"見えるものを視ようとした"時に限ってだ。けれども言えるのは、限界が一本というわけではない。集中を続ければ、兆しは何本も見えてくる。奇跡の種はそこら中に蒔かれている、というわけなのか、俺にはさっぱり分からなかった。

 過集中なのでしょうがないと言えばしょうがない。けれどももっとしょうがないことは、自分を擁護することだ。だから正直に告白すると、俺は失敗した。本当はフルトーさんの背後で止まるつもりだったのに、夢中の思いで指を動かしていたら彼の脇腹のあたりからはひょっこりと顔を出す位置になっていた。


まずい。


「…んっ……く」

俺が結構大きい光を造っていたことなど目もくれず、斧を振り下ろし続けていたことに助かった。俺はすぐになにかされるということはなかったけれど、だからと言ってだ。至近距離で腕を壊さんばかりに力強く動かす彼を前にして、俺は気まずそうに再び息を呑むことしかできなかった。


…オーケー、オーケー。


大丈夫。


不安がるな、今更恐れるな。姿形は変わっても、相手は変わらない。


フルトーさんだ、あのぶっきらぼうで妙に几帳面な男に、もう一度会いに行こう。


目と目を合わせて「こんにちは」って言うんだ、そして「気味悪いことすんな」と言ってもらおう。


きっと彼ならそうする。


きっと俺ならできる。


 目を開けて、閉じて、もう一度開ける。目は開く。

 口を開けてあわあわと動かしてみて、舌で乾いていそうな唇をそっと舐める。口は動く。

 これでいい。目を見て、彼に言うんだ。

「こ…!」

目が歪む、口が噛み締めてしまいそうになる。それでも目は逸らせなかった、口は言葉を発する形になっていた。

 目の前にいたのは、悪魔だった。白い螺旋に吞み込まれた彼の姿は、もうそうとしか言えなかった。美しいエメラルド色の瞳があった目は眼窩が大きく、鋭く広がり、虚ろなその中には煌々と揺らめく紅の光が三列並んでいた。顎は二つに分かれ、首の後ろのあたりまで大きく後退していた。分かれた顎の代わりに龍にあったような第二の口があって、そこには言葉を閉ざさんと鋭利な牙が隙間なく噛み合わさっている。昆虫的で、動物的で、にもかかわらず彼の流麗な石英色の長髪は所々肉に巻き込まれながらも残っていたのが生々しくて嫌だった。


そしてその変わり切った顔を、宇宙の星明りが静かに、白く照らしていた。


「これで…!」


何故ここまでするのか、何故こんなになっても戦うのか。俺には理解できなかった。けれども戦う理由だけは理解できたので、またしてもこんなところで彼に置いて行かれた気がした。

だが、これは置いて行かれていい。


「これで……終わりにしましょう…?」


すがりつくように彼の口の方にそっと手を伸ばすが、悪魔はただ強靭なまま細く伸びた腕を筋肉が裂けるまで無心に働かせているだけだった。当然その働きに手加減はなく、振るわれる彼の腕に巻き込まれて俺は飛ばされる。後方に背中から吹き飛ばされたが、なんとか痛みを堪えて立ち直る。そしていざとなればと光の柱を淵に走り、もう一度彼に近づいた。


「もう…!」しがみつこうとしても彼の動きは止まらず、またしても彼の殺傷の動作に巻き込まれて飛ばされる。

 それはまさに機械。俺が寄り添おうとしても、さながら歯車の間に突撃するかのようだった。そして言うなれば、俺も機械だった。何度やっても飛ばされ、何度も立ち上がっては足が許す限り走り続ける…

俺の中にある意志の大きさと反比例するように、起きていることの様相は不出来なオモチャのように単純で陳腐だった。


 そして機械は、とうとう壊れた。

「だ…」漏れそうになる弱音を、血を拭くついで抑え込む。

もう駄目か、もう無駄か。心はまだ折れていなかったし、折れることはないだろう。だけれども、体はとっくの昔に限界を迎えていた。立ち止まってしまうことで全身の痛みが鮮明になり、痛みが無から生まれたものでないと実感する。体中から血の出る傷と血すら出ない傷が、今だとその存在を強めている。肌、筋肉、骨、臓器さえも鈍くだが鋭い苦痛を訴えている。俺の体を動かしていたのは、体の許しではなかった。心が限界の現実を許したくなかっただけなのだ。

限界は、もう既に遥か下にあった。

 事実を知ってしまうと、まだ動いていた心すら諦めかける。打開のきっかけはなく、彼に訴えかける言葉もまるで水面下の魚に話しかけているようだ。通じないのではなく、通じていない―微かな希望を与える感覚は、今となっては邪魔だった。疲労に絶望、なんとか凌いできた古傷が今の良好な状態をかき乱す。

 足首が曲がらない、瞼は痙攣し、片目はほぼ見えないと言っていい。

理由を見つけた俺は、遂に殺意の悪魔に跪く。

「…ん……ぐぅっ…」

敗北を認める瞬間も、また呼吸に混ぜてしまう。

『俺、楽伍知郎は負けました』―

そう、世界に宣言してしまった気分だ…



 『大丈夫』


誰かがそんな無責任な言葉を口にする。根拠のない慰めを試みている。はっきり言って腹が立つ、分をわきまえない偽善行為だ。


「あなたは―そう言ってくれましたよね、フルトーさん」


血と瘴気が蔓延する惨劇の予兆に、月光と同じくらい相応しくない優し気な声が耳に入る。閉じかけの瞼も開け、本能的に両目を刮目してその声の主を知りたかった。だが、そうするまでもなかった。その人を見るにはただ顔を上げればよかった。


「覚えていますよ、優しい言葉―今度は私の番ですね」


少女が立っていた。化物から戻って以来、ずっと深い眠りに落ちていた少女は、今になってさも当然であるかのようにしなやかな二本の脚で彼の後ろに立っていた。白く漂白された彼女の姿は生気のない人形のようだったが、そんな彼女が喋るとなると全く違和感はなくなる。そこから起きた感情は、驚くというよりも悔しかった。今思えばそうなるんじゃないかという可能性は感じられた。『今にも動きそうな人形』はこの異常遺跡では『今に動く人形』と同じ、それくらい常識外れしているのが現在だ。

…だからって、いくらなんでも都合が良すぎる。


 彼女は音も立てずに、真っ正面から彼に近づくと、そのまま腰にある翼の付け根を優しく撫でた。すると翼は大人しくなって、彼の腰にスカートのように畳まれる。拒むもののなくなった彼女はそのまま斧を振り下ろしていた方の手と、自分の手を合わせると斧を握る手は緩み、そのまま刃は龍の血肉に突き刺さったまま止まる。そうして手を止めた彼と、少女は対面する。二人は見つめ合っていたが、体格差があるので自然にそう落ち着いたわけではない。フルトーさんの視線は変わらず、切り刻むべきと思う龍の残骸へ向かっていた。その決められた視線にぴったりと収まるように、彼女がただ見上げているだけだった。


 「大丈夫」


 言葉少なに、少女は血肉の飛び散った彼の顔を舌で舐め拭う。

異形と化した彼の顔を彼女は自分の舌で舐め、少女の漂白された舌はフルトーさんの流した血に汚れていく。清らかな白が、暴力の赤に染められていく。冒涜であり、侵略。だが彼女はその行為を自ら進んでやっていく。言うまでなく、堕落的で倒錯的な変態性欲の類が衝動か―そんな馬鹿げた、彼女を貶めるような邪推はできない。

 それは洗礼であり、恩返しだった。

俺は見ていた。奇跡が終わり、二人の化物が人間に戻った後を、俺は今も閉じかけている方の瞳でよく見ていた。彼女のしていることは、彼女のされたことと同じだと、すぐに判った。彼が彼女の内に巣食う"死"を吸い取ったように、彼女は彼を覆う殺意を拭っているのだ。それを分かってか、彼もまるで同族から毛繕いを受ける犬のように穏やかで、紅に光る六つの瞳も閉じていた。


 …俺もそうしたかった、と思っていた。なにも血のついたおっさんの顔を舐めたいわけじゃない。助けてくれた恩人に―危機的状況に陥った彼に、「なにかしてやれれば良かった。助けてくれた人を助けたかった。それは恩返しというには下卑た自尊心の欲求で、決して高潔さなどない。恩返しというよりは、本質的には"やり返し"という方が正しい。その程度の感情だと自覚しているのに、少し彼女が羨ましかった。


 羨ましかった、妬ましかった、やりたかった、なりたかった…けれど、それは無意味だとわかっていた。


 俺のなりたかった位置に、彼女はすっぽりと綺麗に当てはまっていた。

 そして彼女こそ、俺の求めていた位置に最も相応しい存在なのだと理解した。俺はただ、彼女を運ぶ為だけに同じ意志を持たされた使い捨てなのだとも理解してしまった。


 これが自分の役割なのだと、深く理解できた。疎外され、否定され、それでも俺は完膚なきまでに納得していた。

 力及ばず…なんて簡単なことではない。最初からその資格がなかったんだ。俺では彼にどうすることもできなかったし、どうにかすることは初めからできなかった。

 反発することはできない、抵抗することもできない。だが、なにより苦しいのはそれが正当なものだからだ。異界による不当な介入―悪意を浄化されたわけではない。浄化されても残る、純粋な人間の感情だ。もし神がいて、どういうと糾弾にしようとしても、きっと俺はできない。俺は納得してしまっている。


俺は運命に論破されている。


 最初から、俺は…


言えもしない静かな涙が俺の不意をついて、いつの間にか襟元を濡らしていた。


以前貼った続きとして、以下の文章をファンタジーとして評価、具体的な改善点を示してください。


 物語は回帰した。

それは現在、フルトーという男の物語であり、

それは過去、白無垢の聖女と呼ぶにふさわしい少女の物語であり、

原初は龍にまで進化した誰かの物語だった。

 引き寄せられた複数の人生の一端の繋ぎ合わせであるそれは、時を超えて今一つのまとまりを成した。

 それは現在、百年の蠱毒の果てに闇へ身を委ねた事実であり、

 それは過去、化物になりながらも失われなかった善意であり、

 それは原初、死して止まらない進化を続ける強大な力だった。

 力を事実が解体し、事実を善意が御する。どの時代においても欠くことがなかったからこそ成立した、たった一つの結末…


 そこに、俺の姿はあったらしい。だが、俺の意味はなかった。亡骸と言える龍の手のひらの上に俺を置いて、フルトーさんと少女は手を繋いで歩き出す。一歩、一歩、緩やかな舞いのように軽い足取りだが、世界はそれを祝福するように一歩踏み出す毎に鈴の音が鳴り、世界に歌い声が響く。


 俺にはもう全ては遙か遠い。現在も、過去も、原初も…あまりにも遠い物語の決着へ、俺はもはや進もうとすることすら叶わなかった。

 不死のように別々の、或いは似た動機で動けていた俺の体と精神はともに死んでいた。覆すものはない。死と絶望がじりじりと、ほんの僅かな後ろから迫っていた。逃げようもない、その淵になって本当の意味を知るのは、確かにある。けれどもそうなっては遅い―その感覚は、まさしく"死"に似ている。

 手向けか、慈悲か、これから来る確実な未来を先んじて味わったのだから、おそらく俺はここで死んでもなんら苦しむことはない。冷たく苦い、だが、だからこそ甘い余韻を何度か舌の上で転がして、出来る限りの結末を見届けた。




 二人は決して返らなかった。歩みも、思いも、返ってしまったら全てが無駄になると知って、二人は自らの意志で自らの意思を殺し、少しでも現状を変える為に。

 二人が頭の弾けた龍の、喉の辺りに差し掛かった頃のこと。今まで彼らを迎えるレッドカーペットのように赤い舌を歩いた二人を待っていたのは、蠢く紅いなにかの鼓動だった。舌の根の奥に待つ血の泉のようなそれにも、彼らはなんら崩れた様子はなかったが、その実は入り乱れる様々な感情を互いに相殺し合っているようなものだった。


『怖いです』

『あぁ、俺もだ』


物語の主人公として同格である彼らには口にするまでもない事実としても、現実に対する二人の理解や見解はほぼ完全な一致を見せていたと言っていい。二人の意志は今この場に於いては一人の意志にも同じで、だからこそ彼らの行動は何ら迷いのないものだった。

 二人は口を揃え、囁くように、叫ぶように、言うなれば歌うように呪文を唱え始めた。詠唱する彼らは奇跡と魔法の力に包まれ、青い文字と白い帯の回転に守られていた。次第に文字と帯の回転は揃い始めたが、その光景は呪文というよりは帯上に文字が造った慰霊碑を読み上げるようで、唱えられるのも短い単語とそれにまつわる幾つかの言葉の修飾に似た内容だった。それでも彼らの詠唱は合唱でもしているかのように多少の違いを持たせ、きちんとその役割(パート)を果たしていた。

 悲劇を、或いは惨劇を、または勲を彼らが歌うと同時に龍が纏っていた暗黒はその色味を失い、不透明な生溶肉(スライム)に還る。そしてその生溶肉(スライム)は歪んだ姿を戻し、人魂として二人の周りを飛び回る。

 白い靄のような人魂たちは細い腕を伸ばし、彼らと手を繋ぐ。彼らは魂たちの手を握ると、彼女たちを命綱のようにして龍の喉に沸き立つ血の泉に手を突っ込んだ。

 彼らが手を入れた瞬間、泉は形を棘のように変え、免疫反応のように入れられた手を刺し貫く。それに加え、泉は棘を動かして腕を自らの中で喰らおうと引きずり込むが、彼らは人魂たちに支えられ、現世に留まった。

 止まらない主人公たちに、泉は更に試練を課す。

 腕が奥へ奥へと深く挿し込まれるにつれ、泉は明確な怒りを露わにする。進化の波を始めた時のように沸騰し、彼らの腕に赤黒い火傷のような痕を残す。すると痕は意志を持つように傷自体から炎を帯びた小さな腕が伸び、上へ上へと這い上がっていった。

 痕は毒であるかのように彼らの肉を少しずつ溶かし、泉の中へ帰っては侵入者の血肉を糧へと変えていた。それだけではない。痕は彼が鎧として、彼女が衣として纏う純白の力すら侵食し、そのうちにある獣や化物としての本性を一枚一枚剥がし、暴いていった。

 痕にその侵食―泉の決死の抵抗に彼らの額に汗が流れ、眉間にしわができて苦悶の表情が浮かび上がる。苦しみが出て、人間性が溢れそうになると体のうちに本性すら出てしまいそうになる。だが彼らは身を寄せ合って、苦しみを分け合って苦しみを乗り越える。

 

 そうして時は来る。

 

 彼らはいっそと、苦しみに対する激しい感情を露わにすると、泉の抵抗を全て振り切って、近付く自分たちの頬がひりひりと焼けつくほど深く腕を挿し込んだ。すると突然、腕ががっとなにかに掴まれたように更に深く落ちる。

 とうとう吞み込まれたか―と、いうわけではなかった。彼らは鍵穴を探し当てたのだ。彼が右を、彼女が左を持ち、泉の奥にあるなにかを掴んのだった。

 顔になんらかの感動が浮き上がる間も待たずに、彼らは力の限りを尽くしてそれを泉から引っ張り出した。


 そうして現実に現れたのは見覚えのある石棺だった。それは紛れもなくかつて虚無で俺と少女が見た石棺で、明らかに龍の核だった。

 だが、その姿は虚無で見たものとは違い、漆黒の黒曜石で覆われたような禍々しいものだった。


 異変、異動、異様、その果てを確信していたものほど唖然とする現実に人は取り残されていた。だが、やはり世界は世界だ。人を取り残したまま時間と共に変化を続ける。

 突如としてサイレンのようなけたたましい音が聞こえたと思ったら、それは頭の割れた龍の叫びだった。核を取り出された龍の最後の断末魔のようなものかと思われたが、それは最後なんてものではなかった。

 それは始まりだった。

 龍の叫びがこだまする余韻だけになった頃、世界には硝子の鈴の音が鳴り、銀の鐘が響く。人と反対に、世界は異変を受け入れていた。寧ろ最初からその変化が既知だったかのようだった。

 最初から段取られていた手順をなぞるように、世界は祝福する音で満ち始める。奇跡が起きる。

 言葉を言葉と認識できない、掠れた囁きの連続。だがそれが祝福する賛歌だとわかる。言葉は判らないのに、意味だけは解る。

 知らない世界の理が、知っていた世界を侵していく。既知を未知で上書きし、僅かな予感すら排除する。つまりは、脳内が暗黒に包まれた。同じような感覚は何度もあったが、今回ばかりは致命的な侵略行為だった。

 異様の儀式は止められない。音をトリガーに予め設定されていた奇跡が起き、ありえない変化を引き起こす。


 全ては罠だったのか、

そう疑っても仕方がないほど、あまりに円滑に出来事は進む。円環、文字、境界の崩壊と融和。偶然の産物が必然の物事になり、その実感もできぬまま事象は展開され続ける。

 肉の目も心の目も、完全に歪み切った視界しか映さない。全てが変化の渦中にある。それだけが理解できる混沌の最中に、二人は揺らがず、一点だけを見ていた。

 空気は振動し、それを認識する心までも原因不明の波紋に乱されている。にもかかわらず、唯一点が不変だった。言うまでもなく、石棺だった。

 異界との最後の境界線にして、異界そのもの。

 起点であるが故に境が曖昧になった現実と異界にまたがって存在する、どちらにもあってどちらにも存在しきらない。言い換えれば石棺そのものは侵略することも、されることもない。嵐の目こそが今この場に於いては確実な安全圏だった。


 変わり続けるものの中で、変わらないものというのは安心感を与える。たとえば生活の習慣(ルーティン)、社会における自宅、最大に言えば海の星。

 しかし、その安心は鈍化する。同じような生活を、同じ場所で続ける。それはつまり完全な変化の遮断だ。

 変わらないものの中にいると、変化の波を超えることができる。同時に波に押してもらうことはできない。不変の安心というのは、不変ではない。不変は俺たちを置き去りにしないが、進ませることもない。そのような停滞が嫌ならば変化し続けるしかない。

不変の安心は一時限りのもので、永遠ではない。

 しかし、石棺はその真逆。"停滞の中で永遠に変化し続けている"。石棺に外見的な変化は見られない。けれども一方で、まぎれもなく力の塊である石棺は引き起こしている侵略の源だ。魂たちがざわめき、危険を伝える。嵐はここにはないが、間違いなく石棺の安全圏は嵐の前の静けさでしかなかった。


 奇跡が収束を始める。


展開されていた奇跡は役割を終え、祝福のコーラスに入り、それがなんであったかということもない、壮大な儀式の単なる一幕へと名前を失う。奇跡は定着し、変化は絶対のものとなった。

 《白無垢の聖女(ゲーダァド・セーメル)》が異界から現実に出現した瞬間、俺は突然に世界のフィルターが切り替わったのだと思った。唐突だったし、あまりに軽い越境行為だった。だが今度のは、突然フィルターが切り替わる、なんてものでは例えられない。たとえようもなく自然過ぎる。既知を上書きする異界の同化という結果の恐ろしさを除けば、素晴らしい段取りと言わざるを得ない。変化の自覚があるからこそ、その手際に惚れ惚れする。

 祝福する音は消えつつあり、耳鳴りのような残響が唐突な奇跡を物語っている。

 そして、その残響も消え去った。



 無音。



 奇跡と音が響いた世界は、途端に静かに、淋しくなった。

 曖昧なのに鋭い危機感と意味を失った視覚だけしか情報がなく、終わったという実感だけが事実を教えていた。変わってしまった、上書きされてしまった世界の中で、もはや石棺しか不変はない。


 静寂で却って耳鳴りでうるさい聴覚を、どこからか流れる音色が優しく包み込んだ。その音色を流していたのは勿論石棺。だが、それだけでは終わらないようだった。


 棺は歯車の掠れ合う雑音を徐々に修正しながら、オルゴールのような美しい音色を流していた。だが次第に音色は早まり、遅まり、重なり、手探りに美醜を往復していた。

 だが一時、音色はやや美しい醜さに収まる。

 原型を失い、不協和音のような不気味な旋律を奏しながら棺は開いていく。黒く重そうだった扉は軋む音なく開き、中から真鍮色の機械式の細腕が何本も伸びていく。オルゴールのような音色は旋律という新しい形を得た後、不出来な合成音声のような唸り声へと変わる。

呪文の詠唱のような素早い小さな声に耳を澄ました瞬間。


「やつっっっっッッッたああああああああ!」


思い詰めていた俺たちを嘲笑うように、単純な解放の歓喜だけが変わり切った世界に響いていった。

なにか声が漏れると思っていた。けれどなにも言葉はなく、驚きもしなかった。

【あとがき】

 笑えるよね、ここまで書いてようやく想定してた筋にたどり着いたんだよ…


至らぬ点ありましたら、どうぞご意見お願いします。


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