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【第三十六話】キミと見た空とビッグバン(3)

『龍王の異斧』

 幻想の暗黒から這い出た龍王の尾から現れた異質な大斧。

刃が混沌と渦巻いており 使い手の憎悪など強い想いに惹かれて触れたものを荒々しい食い破る。

龍の尾からは武器が現れるという伝説があるが 骸の寄せ集めたる暗黒の龍王とて例外ではない。

所詮は模倣に過ぎずとも 畏怖すべき強大な力である。


 俺の隣に、人がいる。

 死して骸骨となった呪枝騎士、プラガハ・ペルデロット

 案山子兜の達磨体系の両盾戦士、レクレス・マエオミロイ。

 四本の偽腕の弓手、ルカウェイ・ミハルヴェキ。

 そして、フルトー・アダリオン。

俺とは比べ物にならないほどの強者が四人―プラガハは所詮骸骨なので三人が戦っている。それでも、この戦いの終わりは見えない。いや、実際には第一形態のようなものはもう終わっているし、第二形態も四本中一本の腕と両足を切断できている。傍から見れば、充分追い詰めている、と見えるだろう。しかし、それでも俺はこの戦いの終わりを、想像することも出来ないのだ。

 手応えがない。ここまでされているというのに、眼前の化け物―《白無垢の聖女》は斃される気配がない。死ぬ気配がないのだ。四肢を失っても尚、猛撃は止まらない気がする。腹を切り裂いても頭を斬り落としても、そこに死の実感は訪れない。生きているという状態すら曖昧なのに、どうやったら殺せるのかを考えている今の俺が滑稽に思えるくらい―俺が思考するには的外れなことしかできない存在だ。

 格上だとか、そういう認識は出来ない。どこまでも、異質。俺にとって、ここが異世界で、俺とは違う常識で動いてる構造システムのせいでの違和感ではない。生き物として―全生命にとって持つ一本の線が、アイツは根本的に違うのだろう。

 ここにあるのは世界の違いではない。格の違いでもない。次元の違い。俺のいる現実と、《白無垢の聖女》のいる暗黒の二つの次元による違い。


つまりは今は、俺達と彼女の個人的な差異者の戦でしかない。


世界の命運を分かつ大戦などではない、俺達四人と彼女の間で行われる―負けたところでなにも終わらない不毛な戦い。


終わった過去の遺物と、未来なき逸者はぐれものが、ただぶつかっているだけ。


どうしたってどん詰まりに行きつく、逸れた筋での消耗戦。


 だが、それが全てだとしても―俺達がどうしたって主流には関わらない小さな戦いで終わるとしても、無意味だとは思わない。きっと勝利の先に、この戦いの終わりにはなにかに決着がつく。その決着が俺達に何の利益をもたらさずとも、俺達の戦う先になにもないなんてことはありえない。

 だから、戦いを続けるんだ。いかに自分の関われないとしても、俺はこの手になにかを握り続ける。槍を握る。託された魔導書を握る。そして、戦う仲間の手を握る。離してしまわないように、これで終わりとしてしまわないように、俺は手を伸ばし、なにかを繋ぎ止める。


 【 】


 フルトーさんだけの独壇場、一方的な攻撃が一区切りついて、整える為に彼が俺達の構える後方に戻ってきた。渦巻く魂の一部が外れ、えらく軽量になった異形の大斧を携えながら。

「…久々。勘だけで動くと駄目だな」

彼は一度武器を下ろし、手を何度か握り直す。

「失敗ですか?」

「いや、苦しんで警戒するだろうから、危険はしないよりはマシな行動だった筈だ。…だが如何せん埒が明かない。思い切ったことしなきゃな」

「これ以上思い切るなんて…死にますよ? 無茶な動き方したのは自分でも分かってるでしょ?」

「無茶な動きをしたのは理解してる。だから、今度はあまり動かない」

どういうことだろう、一瞬怪訝な視線を向ける。しかし、それを取ってもフルトーさんは何も含んだ発言などしていないと言わんばかりに明朗に目配せをする。

 その先は空を泳ぐ粘液を纏う白い化け物、《白無垢の聖女》。今まさに猛攻をしかけ、武器を握る手ががたがたになってしまっているというのに、この人は懲りないのかと思ったその時、彼は「口に飛び込む」と答えた。

とうとう狂気に呑まれたか、先ほど俺が正気を失いかけた時にしてくれたように、俺は彼の頬めがけてビンタして目を覚ませようとした。だが当然馬鹿な心配するなと言わんばかりに却って俺の頬を叩いた。やはり暴力はいけない。

「何の考えもなしに喰われいこうってんじゃない。ある程度完成した考察と納得はしている。勝算を見出したからやんだよ。無駄な捨て身じゃねぇ」

ヤケになったわけではないようだが、それでも聞いただけではヤケとそう大差ない。

「耳鳴りしてるって言ってたよな、俺もお前も。あれは本当だ、本当の声だ。なら、当然声の主がいる。俺達はその主に会いに行く」

「それで…口の中に?」

「あぁ。俺が思うに、あの化け物は単なる器に過ぎない。竜のような怪物の中からあのぬめった化け物が出て来たし、多分もっと中はある。その"中"に行く。生物で言えば口は捕食に繋がるが、ああいう化け物―剰え生溶肉スライムを纏っていたような呪術的な存在にとって言えば、口は穴に過ぎない。そして穴は入口と出口を兼ねる。奇妙に聞こえるかもしれないが、言ってしまえば《白無垢の聖女》(アイツ)はだ」

そう言うと、彼は再び《白無垢の聖女》の方を向く。その時には彼女の顔から苦悶の表情は消え、怒りに歪ませていた。彼女は自身の口に両腕を突っ込むと、白く細い柱のようなものを掴んでいた。柱はどんどん伸び、遂に彼女の巨体以上に長くなっていた。

最後に見えた姿は、大鎌。骨が縒り集まった長細い柄と、白く透き通った湾曲した刃。おそらくはフルトーさんが怪物の亡骸から引っ張り出した異形の大斧と同質であろうそれは、大斧と違い彼女の手に触れて溶かされたのか、禍々しさとは裏腹に独特の滑らかさを持ち、大理石か石英のようにも見えた。

 白い透明な刃は霜つく冷気を霧のように放ち、誰を狙おうかと鈍い光を輝かせていた。

そんな物騒なものを見せられて驚嘆、警戒しない者などいるわけもなく、俺への納得もそこらに、フルトーさんは下ろした武器を再び両手に持った。小さく囁き、両手の儀剣と異斧をぶつけるようにして魔法鍍金エンチャントを両方に施した。

「隙作るぞ、作れたら飛び込む。お前ら三人は外で見張っててくれ。中には俺とこいつで行く」

「うむ」

「承知した」

「…」

四人のおっさん達は的確に己のすべきことを理解し、即座に陣形を組んだ。最弱を守り、最強をぶつけるハンデ持ちの典型的な組み分け方。攻撃力に優れるフルトーさんが最前線で注目を取り、彼が誘導しきれなかった攻撃を両盾のレクレスと大剣の青服の戦士で対処し―俺を守る。形においても事実においても、どうあがいても俺はお荷物。いなかったらどれだけ楽になるか…確実に結果の出る思考ではあるものの、今したってしょうがない。俺が仮定するべきは、いなかったらどうなるかではなく、いる今に何をするかだ。息を整え、注意深く敵を捉えた。

 最初の一撃というのは大切だ。ことこの場に於いて最も大きな意味を持つのはこの先どうなろうと確実に、この後するフルトーさんの一撃だろう。魔法鍍金エンチャントの性質は知らないけれど、新しくかけ直した最初の一撃だから施された魔法の完成度は一番高い状態だろうし、それは彼の身体にも言えること。続くにつれて消耗が重なり、次第に余裕が減って出来ないことが増える。カードが配られ、最も手札が多いうちが最も取れる手が多い。当然だ。

 だからこそ、どんな方法をしても彼の一撃を決めなければならない―それを最も理解し、俯瞰で状況を理解している男は自ら戦場の律動の最初の一音を放った。

「『いざ龍殺(りゅうごろ)し』」

弓の弦が軋み音を立てる。鋭い矢尻を構える指は揺らがない。精密機械のような最高精度最大威力を叩き込む準備は、一瞬で既に終わらせていた。

銀閃鈍槌(ギードーツ)》』―」

狙撃手に求められるのは、武器を使う射撃力ではなく忍耐力だとされている。最高の一瞬を待ち、最大威力で的確に攻撃する。狙撃銃はおろか銃があるかもわからない―剣、斧、槍、この世界で一般的な武器には不可能な最も集中した攻撃だ。

 一瞬、視線を上げてしまいそうになる。暗く閉鎖的なこの空間を、一筋の流星が切り裂いたのだ。それが矢だと解っている―それ以外にありえないからゆっくりに思えるだけで、その流星が見せる艶やかな銀色の光は美しさを勿体ぶるように素早く放たれた。

しかしそれは、見た者を死に至らしめる凶星でもあったのかもしれない。

 瞬間、化け物の注意から外れたフルトーさんは浅い暗黒への深淵を蹴り飛ばし、がぐんと床を抉りながら飛び上がった。その後の姿は見えなかった。彼がどうしたか、は剃刀の嵐に遭ったのようにそこら中を切り裂かれた化け物の身体をみれば一目で判ることだった。

不意打ち、それでも上等だった。

 注目が再びフルトーさんに戻る。当然だ、自分の体を切り裂いた奴を見て、次の一撃を警戒しない奴なんていない。けれど、今は当然のことをするべきではないかもしれない。攻撃が当たった順番はフルトーさんが最初だったが、攻撃"した"順番はより速い奴がいた。ルカウェイ―銀星を穿った弓手の一撃が目を逸らした《白無垢の聖女》の頭に鈍く突き刺さった。

 銀星が化け物の頭を貫いた時、化け物は空に上がった。切り刻まれた傷から朱い鮮血をまき散らしながら、何度も何度も天井に巨体をぶつけた。ぐうん、ぐうん、と鯨の唸り声のような音を立てながら、朱い雨を降り散らしていると、急に明るくなった。

 この異常遺跡は奇妙で、灯りのない筈なのに、ずっと明るいところがあった。まるで透明な炎があるかのような橙色の静かで透き通った明かりがそこらにあった。今思えば、それは最初から"そう設定されていた"のだろう。特別な原因のある事象などではなく、明るい場所だと設定されているから明るいだけの、問答無用の光。影と同じくらい自然に存在する光。いつかの夕陽を切り取ったようなその明るさは、きっとこの異常遺跡そのものが持つ光なのだろう。だとしたら、今俺達に差した光は、外部の―別世界からの光なのだろうと俺は理解した。

 俺は目を疑った。驚きもした、けれども信じられないという風にはならなかった。浅瀬から六本腕の巨大な怪物で這い出てきて、更にその怪物の中から白い幽霊のような女が出てきたのだ。もう信じる信じないの次元ではない。嘘のように思える光景が攻撃してくる以上、もうそれは虚実関係なく脅威でしかない。それでも、ここではなんてことのない出来事だと分かっていても、俺は目を奪われた。

 月光、星影。青白い大きな光と、その周りに静かに回る金色に燦爛と輝く小さな光を見て、そう思わないのは無理だった。たとえそれが別のものであっても、その姿は俺のよく知る―知りすぎるくらいに変わりのない光景、星座だった。十四、十五、見上げて数えるその大きな光は知る数とは異なるものの、確かによく知る星辰―黄道十二星座の形に似ていた。アストロラーベ、と言ったか、子供の頃に何故かうちにあった天文学の道具で知った形とそっくりだった。懐かしくて、それをこんな場所で見られる現実が怖くて、俺の目は潤んでいた。

「宇宙だ」

割れた天蓋の向こうには、宇宙があったのだ。


 【 】


 引きずり下ろす。何故か見える星の瞬きにうっとりとしていた俺の耳にそんな言葉が入って、それを認識した次の瞬間には誰かが俺の手に触れているようだった。

「下ろすって…この槍で?」

無論、フルトーさんだった。動きの素早い人で、俺が上を向いていた数秒の間に、化け物から後方にいる俺まで走ってきたのだろう。ほぼ反対側なんですけど、と最も身近な超常現象である彼にすら訊けそうになかった。

「早くしないと"昇られる"。理屈は説明しないが、あれは本当の空だ。ちゃんと上に行ける、そういうもんだ」

俺のことなんてどこ吹く風で、彼は状況を教えながらも淡々と俺の持っていた槍に細工を施し、柄の尾に銀色の糸を巻き付けていた。その糸がどこから伸びているかというと、以前雷炎瓶を取り出した腰に付けた小物入れだったので、彼の用意周到っぷりがうかがえる。何種類持ってんだよ、この人。

「プラガハ、樹出せるか。引っ掛ける場所があったら嬉しい」

「魔力があれば可能だ」

「ならロゥ、魔力貸してやれ。前も出来たんだし、行けるだろ」

「…わかりました」

戦闘中で余裕がないとはいえ、この人自分で段取り全て決めるんだもんな。この調子で『一度内臓なくなるけど』とか危険な前置きされて変なことをやらされかねない。たとえそうだとしても、怖いけれど無駄なことをさせられるわけではないのだろうという信頼感もある。従わせておいて、絶対に損させる人とは思えない。

 俺は以前やったようにプラガハを掴むと、そこに力を込めるイメージをした。心臓の鼓動を血液に載せて、それを更に血液から肉に移し、指先から彼に伝える。自分が生きていると、言葉を媒介にせずに教える感覚だ。俺の"生"がプラガハに伝わり、彼伝いにその"生"に形を与えていく。彼の場合、それは太い石のような樹だった。

「抜ける前にだな…」

しかしフルトーさんの思っていた大きさには足りていなかったのか、少し不満げな様子を見せたが、切り替えて彼は槍を投擲する準備をしていた。

 彼は樹に糸を巻き付ける時、決して小物袋から出さなかった。きっと『思っている長さまで伸びる』ような魔法でも施されているのだろう。それから彼は槍に仕掛けられたからくりを使い、刃を飛び出させて銛のように先端が食い込み、抜けずらい形状に変形させ…これで終わりだった。二つ準備しただけなのに彼は寧ろ余裕の感じる雰囲気であり、それは必要最低限まで削ぎ落としたようにも、これだけで充分と自信を示すようでもあった。

 その他―彼は助走や肉体の調子を整えることをせず、偶然立ったなんてことのない位置で構え始めていた。その代わりか、彼の姿はぶれず、揺るぎのない鋭い視線で相手を捉える。しばらくすると腕を引き、徐々に軌道計算でもしているかのように角度を細かく変え、そして止まった。

 他人事のようになってしまうので謝るけれど、彼は投擲したらしかった。らしかった、と言わざるを得ない原因として、俺は銛が飛んで行く瞬間が判らなかった。彼が投げた時には力を入れる声も、相手である化け物の隙らしい隙もなく、俺に分かる予兆は何一つとしてなかった。レクレスと青い戦士の二人のおっさんが、化け物―《白無垢の聖女》と戦っているなんら変わりない世界の一瞬を、彼は突いた。なんでもない瞬間、なんでもない状況。有利とは言い難く、化け物が宙を激しく動いている分不利なまである。そこからなにかを見出せという方が無理のない平坦な戦況の中、フルトーさんは予備動作などなく、瞬間的な体の動作だけで固定弩砲バリスタのような一撃を繰り出したのだ。一瞬、瞬きほどの時間もない認識の隙間で捉えた銛の姿は、その圧倒的な速度と比較していえば針のように細く、小さいように見えてしまった。

 物質とは思えない一筋の光のような一撃の後、化け物の腹に刺さった異物と、その異物が空けた傷とそこから流れる朱い鮮血を確認した。

 え、やったの。率直な感想でいえば、そんな間の抜けた言葉が起こった出来事に対する全てだった。

 戦場は戦場、俺は俺。その次元の隔絶を感じる一端として、今の状況をあげられるだろう。一瞬にも満たない短時間で鋭く突き刺さった高速の一撃に戸惑ったり驚く者は俺一人で、レクレス、ルカウェイ、青い戦士、敵さえもなんら惑うことはなく、彼らは好機とばかりに攻めの勢いを強め、彼女も胸の眼球に力を溜めて光線を放とうとしていた。

 俺の視界の刹那、天から差す青白い光に照らされてか、《白無垢の聖女》が放つ光の蒼とだらだらと止まらない血の紅が独特の空気を漂わせていた。

 光線が発射されてしまうという瞬間、フルトーさんはこう言った。

「地に伏せよ(ラナ・ゼミュ)」

なんと言ったのかは判らない。きっと癖で出た母語なのだろう。ただ、そう言った後の結果から逆算すると、多分『床を舐めろ』とかの挑発的な言葉ではないかと思う。

 彼は光線が発射される寸前、最も力の溜まっていた―妨害されれば魔力が暴走するであろうタイミングを見計らって、今度は投げた時とは正反対に分かりやすく力を込め、糸を引っ張った。手甲がギリギリと音を立て、指先が硬く握り込まれていた。手だけでは足りないのか縛るかのように腕まで糸を巻き付けると、下半身に捻り、背負い投げでもするかのような姿勢を取った。巨体なので重量もあるが、それ以外にも抵抗力がある筈だ。なんの抵抗もなしに引っ張られるなんてことはない。それは今の刹那的な力の均衡でも変わらない。

 だが、発射されてからは違った。光が迸る瞬間、化け物の体は自然に引っ張りに抗う力よりも光線発射の姿勢制御に力を使ってしまったのだ。力の均衡に緩みが生まれた。

「ヌンらァッ!」その緩みを見逃すフルトーさんではなかった。捻りを加えて引っ張り、それに負けた化け物の巨体は弧を描きながら吹っ飛び、俺達の背中側の壁に叩きつけられ、相手にとっても相当な衝撃だったのか地面に倒れた。

 いざ思惑通りに引きずり下ろせたら、それはそれで思うものがある。やってのけたフルトーさんの馬鹿力とか、戦いにおける一瞬の変化の恐ろしさとか、そういうものではない。その点で言えば、お互いは最善を尽くした見事なやりとりだったと思う。何様だよという感じだが、本当に素晴らしかった。そうではなく、俺が思ったのは《白無垢の聖女》の体の違和感だった。

 白く柔らかそうな彼女の体は、その質感からは想像もできないほど強く壁と激突した。銛の刺さり具合からしてかなり脂肪の類がありそうで、それが緩衝してくれそうなものだ。なのに、彼女はまるで何のクッションもなかったかのように衝撃が和らげられることなく、そのままぶつかった。なんら抵抗なく、あっけなく叩きつけられてしまったのは流石になにかがおかしい。俺達が彼女を見誤っていたのか、彼女が俺達を見誤っていたのか。なんにしても想像していた結果とは若干違った。俺はもっと抵抗があって、たとえば枯れ木の森の怪物がそうしたように、生溶肉スライムで体を覆うなどということをしてくると思っていた。

生溶肉スライムすらもお役御免か…」

想像で生溶肉スライムの存在を考えていたのは、我ながら少し驚いた。あまり強いという印象はないが、この遺跡に入る前からいた、そこらへんにいる馴染みのある存在だからこそ、こんな時にも出てきたりするのかなと思っていたので、少し期待を裏切られた気分だ。

 天は宇宙、地もまた宇宙を見せ、空と水面は鏡面のように反射し合っている。鏡花水月。その言葉を思い浮かべるほどに水面は綺麗に、揺れることなく金色の星々と青白い月を映している。思い返せば、この水面に波が立つ時は俺達ではなく、怪物の方が動いた時だ。俺達ではこの浅い深海に波を起こすことすらできないんだ、そう思うと、自分のちっぽけさが嫌になりかける。宇宙や、海はこんなにも大きいのに俺はこんなにも小さい。

 そして今、その波の主はちっぽけな俺達に堕とされ、宇宙に横たわっている。あんなに自由に空を泳ぎ、二つの宇宙の狭間を我が物としていた巨大な少女は、今腹から血を流し、動かない。青白い月と星の光に照らされ、純白な彼女の体は黒を帯び、ただひとつの物体のように目の前にある。澄み渡る宇宙の蒼と混じらない濁り淀む血溜まりの紅が、恐ろしい不調和の色彩が奇妙な神秘性を齎している。

 フルトーさんは倒れた化け物の周囲に、彼女自身から漏れる血を使った血文字を書いた。曰く封印効果のあるまじないの一種らしい。簡単なものなので、精々五分程度動きを止めるくらいしかできないらしい。その五分が勝負というわけだ。となると早急に手を打つべきで、俺とフルトーさん、その他三人のおっさんと骸骨は倒れ伏した少女の周りに集まった。

「…」

フルトーさんはプラガハの仄かに淡い朱の眼光を灯りの代わりにして、少女の口の中を少し探った。しかし《白無垢の聖女》はいかんせん十メートル以上はある巨大な体躯で、小さな灯り程度ではその中身を全て照らすことはできなかった。

「誰か火とか光を出せるか。遠くまで行って、傷とかつけないやつ」

集まった三人のおっさんに向けて、彼は尋ねた。

「燃やすわけにはいかないのか、どちらにしても倒すだろうに」青い戦士は問い返した。

「それは駄目だろう。こやつは所詮肉の器。龍を倒してもこのような娘が飛び出した以上、眼前の肉を燃やしてもまた中から別の肉が飛び出るに違いない。故にこの口を開き、彼らが中に飛び込もうと言うのだかっらな」レクレスはそういうと俺の肩を叩いた。どうしても飛び込むのは俺なんでしょうか…

「飛ぶ火ならば、我が盟友ルカができるだろう。なぁ?」

そう彼が目配せしたルカウェイは腕を組んで立っていたが、彼は腕の上に腕の飾り―四本腕なのでただ腕組みするだけでも少し面白い光景だった。

「あぁ、火の矢の魔法は使えるからな。威力を削ってその分を時間に割り振れば、遅くこそなるが望んものができる筈だ」

ルカウェイはそういうと腕の一つから棒のようなものを取り出すと、それを組み立てて短弓にしてみせ、短い炎の矢を形作り、《白無垢の聖女》の顔に向けた。

「開いてくれ。所詮はさきがけだろう?」

「まぁな…なぁ二人、開けてくれないか。俺とロゥは中を確認したい」

レクレスと青い戦士は化け物の口を開かせると、ルカウェイは俺達に目配せし、フルトーさんの返答を確認すると彼は強い光を放つ炎を放った。

 遠くから見れば美しい少女の、艶やかな唇の門を通った朱色の炎は彼女の人間らしい内側を照らして燃え続ける。ぼんやり、ゆっくりと、彼女の喉をじっくりと露にし続ける。女の喉を見る趣味も欲求もないが、その炎が生み出す光景は異様に色気があるように思えた。

 だが、その炎は何故だかとある点でポツンと消えた。到底自然な様ではなく、二酸化炭素だのが充満していたとしてもここまで急というのはありえない。きっと"別世界"に行ったのだ。

「約二十歩。異界の境にしては近いか…まぁいい。行くぞ」

急に消えた炎を見ても臆さずに、計画を崩すこと様子なく、フルトーさんは緩んだ手甲を着け直し、次なる戦いへの備えを終えた。つまり、あとは俺の準備が終われば、彼女の口の中に―かつて浅瀬の深海に見た暗黒へと行くわけだ。

 流石に、現実味のない状況とはいえ、少し足止まる。プラガハ然り三人のおっさん然り、あの枯れ木森の怪物もそうだが、別世界から現実に来たという体験は何度かあった。だが、こちらから異界に行こうというのは初めてで、少し怯える。

 この異常遺跡に来た時―毒沼を渡り、異質なこの水路に来たということは、俺はその時一度境界を越えた。その遺跡の最深部、巨人の骸骨による開かれた門を通った瞬間、陽炎の境界線の先に行った。そして今―思い返せば決して初めてとはいえない。何度か別世界と形容せざるを得ない異質な光景の世界に体を進めた。だが、それには現実の感覚が伴っていた。あくまでも行き来可能な場所同士の移動であり、それが一本道の引き返せない道を進んでいるという感覚はなかった。戻れば、そこにはなにも異質なところのない世界が待っているという確信があった。しかし、今はそれが薄い。彼女の唇の門を通ってしまったら、あとは喰われて戻れないかもしれないという恐怖がある。一方通行の予感がした。

 震える一瞬止まる。怯えなくなったわけでも、不安や恐怖がなくなったわけでもない。俺はなにも変わらない。それでも震えが止まったのは、止めてくれる人がいたからだ。やはりもちろん、フルトーさんだった。彼は俺と肩を組み、少し脱力した。腕一つが肩にかかっているだけとはいえ、重い。この人頭一つ分身長高いし、その分体重あるんだろうから思っていた以上に重量を感じる。上に重しを載せられ、震えるほどの余裕がなくなったと言える。

 何をしているんだという困惑もあったが、別のことを最初に思った。彼がこんなにも近くにいるのは初めてだ。一瞬拳でぶん殴られるということはあったが、しばらく彼の体に触れているという体験は明確にない。彼と会って日数がないというのもあるし、そこまでの距離感でもなかったというのもある。なんにしても、彼は今までしなかったことを今になってやったのだ。

「ま、怖いよな」彼は秘密を言うように耳打ちする。

「喰われに行くにみたいで嫌だよな、俺も嫌だ。だがま、心配しすぎんな。喰われるにしてもこいつは空っぽ、器に過ぎないし、中でも喰われに行くわけじゃない」

彼は俺に儀剣を渡す。片手を空けたいし、手持ち無沙汰になるから渡されただけだ。そうでなければ、剣の使い方なんて知らない―斬れる棒くらいにしか思っていない俺に渡す意味がない。

「対策は…前教えたし、出来たよな。『名前を忘れるな』『考えを止めるな、思考停止した死人になるな』『馬鹿みたいな綺麗事でも生きたい理由を叫べ』『暗闇の冷たさは気持ちの悪いものだ、どこまでいっても、心地よいものではない』。ともかく呑み込まれるな。相手の雰囲気に呑み込まれて、阿諛追従するようになるな。どこまでも反逆心を持て」

彼は俺の持つ赤い本を指差す。これを離さないことが、この戦いで与えられた、『生きる』に次ぐ意味だ。

「俺の学んだ心理精神学によれば『自我は思考の形に過ぎないが、それ単体で唯一性を持つ稀有な形状』だそうだ。これから行くのは精神世界、その唯一性が存在のいかりとなる。たとえどこまでも同調されても、お前はお前であれ」

彼の口調は諭すようであり、失敗すれば呑み込まれ、存在が消える危機に対する今からではやや語気が足りなかった。無理なら無理と、少し諦めているようにも思えた。

「そしたら、助けに行ってやるさ」

せめてもの、捻りだすように言った言葉で、俺を安堵させようとでもしたのだろうか。彼は拙い言葉を添えると、二回俺の肩を叩き、彼女の口に入って行った。なんの意味があったのか。彼の行動の意味を裏付けて、どうにかして安心を見出そうとする卑怯な俺の心に、俺は付き合いきれなかった。

「待って! 置いてかないで!」

ここは、考えるまでもなく、彼についていくべきだ。

たとえこの先、自分を失ったとしても、なにも起きないよりはマシだ。なにも起きずに、なんの救いもなくこの胸糞悪い世界に生きていなければならないなんて、それに勝る苦行はない。残酷でも複雑でも、自分の生きている世界の話を、詳しく知りたいと思った。無知蒙昧なまま死ぬなんて、そんな未練を残すようなマネはしたくない。もう一度はごめんだ。

 彼女の唇をまたぎ、体の中に入ると生温かい風が前からそおっと、頬を優しく撫でるように吹く。なんだ、呼吸しているんだ。生物として当たり前のその気付きに、何故か一瞬、どこにもなかった安心を感じてしまった。大丈夫、腹の中に入るだけだ。食べられはしない。少なくとも、一つの不安がなくなった気がした。

【あとがき】

 船にあるいかりって碇が普通なのか、錨が普通なのか判断できませんでした。「碇」の方はもうエヴァしか想像できなくて、字面だけで紫色の巨人がちらつきました。


至らぬ点ありましたら、どうぞご意見お願いします。


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