【第三十一話】「すぐ帰る」が遺言
『赤い本』
手形のべったりとついた上品な赤色の本。暗号が記されており、解読すると魔法『人間性の霧』の魔法陣が浮かび上がる。
薄暗い地下水路に辿り着いた少女たちは、淡い希望を抱いていた。救済の願い。罰を以て赦す、罪人の牢獄の救済を求めて。
しかしあらゆるが流れ着く暗黒の流れの果てでさえ、自らを赦さない。
彼女は悟った、地獄はここにはないと。
いつの間にか…というのもおかしいくらいに彼が存在感を露にしたこの一瞬で、全てが幻だったかのようにきれいさっぱりなくなっていた。霧は晴れていたのだ。空間は記憶を示さず、倒れた肉塊の少女と灰色の細枝だけが流れた時に刻まれていた。変化といえば、そういうものしか残っていない。物質的な記憶がないのなら、精神的な記憶を語るしかなかった。
「とまぁ、こんな具合でフルトーさんが本を読み始めてから変な霧が…沈殿?…したので色々頑張って避けた感じですね」
俺はできるだけ状況を理解しやすく且つ臨場感あふれる語り口でやっていたが、長すぎると言われて要点をまとめた。その結果がこんな淡泊な言葉になってしまうのなら、やりたくなかったなと思うのが俺の正直なところだ。
「その過程でプラガハの術式を使ってこの枝を創ったと…頑張ったな。自分でも喜べよ、お前最初の魔法だぜ?」
「そうですか…」期待しすぎていたというのもあるが、思っていた魔法とは違ったのでちょっと意気消沈していて、訊き甲斐のある心境ではなかった。
「素質ある方だと思うぜ? …まぁ、リールスの前例があるから厳密には最初じゃないかもしれないけど…ある方ではあるさ、きっとな」
「そんなに自信ないなら言わなくっていいですって…」
こんな風には返したものの、少し嬉しかった。
その後にフルトーさんの方も何が起きたのかを語ってくれたが、流石は俺の妙に頑張った語りを長すぎると切り捨てただけあって、極めて分かりやすく、具体的な内容、経緯、終わり、それらに対する考察が程よくまとまっていた。よく内容を理解すれば謎だらけなのだが、話術が巧みなせいで何も謎なんてないかのように錯覚してしまった。俺が馬鹿なだけなんだろう。
「つまるところ、俺にはあの座って…」指を指そうとしたフルトーさんだったが、彼の見た方向には既に言及しようとしていたものは、俺が蹴飛ばした為になかった。なので彼は指すことなく「…いた女の声が聞こえた。それも本の言葉を読むと頭の中で囁くって方式だったからあんまり正確に聞き取れたとも思えない」
「なんて言ってたんです?」
「不確か、という前置きが必要だが…概ね『罰して』って感じだったな」
「罰して?」
こんな雰囲気では決して不思議というほどの言葉ではなかったが、それでも少し耳を疑った。
「あぁ、『罰して』―多分内容としては囁いてたのも同様のものだろうな」
「『後悔の歌』とか『何故終わらないのか』なんて言ってた筈ですよね、それのどこから『罰して』って感じになるんですか?」
「そういうのは宗教観だな。あと、俺がさっき聞き取れない部分があったって言ったろ、そこがなんとなく解ってな。お前にも言っておくべきだな、解るかはともかく」
最後は余計な一言…だけど事実だし否定したってしょうがない。
「多分『ザングデェ オラヒス ガメェラ(この罪人の煉獄を)』…繋いで読むとトヴル ラフェニ クエラァ(いつ終わるのでしょう)。 ウェランツェ ナアジ クエラァ(どうして終わらないのでしょう)。ザングデェ オラヒス ガメェラ(この罪人の煉獄を)って具合だろうな」
「…妙な名詞が加えられただけじゃないんですか?」
「あぁ、妙な名詞だが固有名詞だ。特定には充分な要素になる」彼は俺の手に握られたプラガハを持つと「なぁ?」と瞼のない彼に向けて目配せをした。
フルトーさんは本を俺に渡すと肉塊を抱えながら安楽椅子に深く腰を下ろすと、傲慢にも見えるほど堂々した風にしていた。その様は墓石に座る不良の如しだった、こんなにガラが悪い人だったのか。
「まず、ここは生溶肉の世界だ、というのに意義はないか」
「まぁ…そこら辺に張り付いてますし、鼠の中にもいましたしね」どうせなんて答えて結論に変わりはないだろうと思って、彼の言葉を肯定した。
「そう、ここじゃ生溶肉はそこらにいる壁、床、見えていないだけで苔みたいにびっしりとあるんだろう。だが、ここで問いだ。
《【Question】》.
《『生溶肉とはどういう存在か?』》
《【Question】》.
「どういうって…まぁ、魔物なんじゃないですか。自然発生するようなものとも思えないし、『そういう怪物』というのが妥当な答えじゃないですか?」
「半分正解。まぁ、知識を抜きにすれば及第点と言っていいだろ。よく考えたな」
言葉だけだと称賛されてるんだけど、褒められた気がしない。見事彼にはめられた気分だった。
「正しい答えとしては
《【Answer】》.
《『死体が歪んで生まれる魂の魔物』》
《【Answer】》.
って感じだな」
「…俺が答えに辿り着くの無理じゃないですか?」
「そう、これは知識だからな。俺の意地が悪かった」
自覚していても、問題がないなら直さないのがフルトーという人物像なんだろう、と俺は思った。今彼のした無表情に近い彼の顔が何よりの証拠だ。
魂と聞いて、もう既に混濁しだした記憶を逆回しにして出来事を思い浮かべるうちに、かつて聞いた長ったらしい説明を思い出した。『人間性の闇』―欲望の暴走。人間の内側が暴れ出す、どうしようもない厄災の事象の、そういうお話。
もし、彼の話したそれが、今に繋がるのだとしたら―俺はしたくもないおぞましい発想に吐き気がした。
もし、生溶肉が魂の魔物だとしたら、人間性を狂わせた末路にある存在だとしたら―
「彼らは―いや、"あれ"が、人間なんですかッ!!!」
分かってはいた。深層に近付くにつれて次第に形を崩していく人体を知る度に、もしかしたら、と思ってしまう。異形の司祭がそうだったように、人間だった―もう人間ではなくなってしまった化け物を相手してするのは、初めてではないと思ってしまった。だがそれも、きっと質の悪い悪夢だと、エログロに走るのは三流のすることだと現実をどこか関係ないものと見做し、遠ざけようとしていた。
今、視界の端が暗くなった。
暗闇は一瞬で俺の眼底に向かってその魔の手を伸ばし、真っ暗にさせた。その暗黒の中で、昔から恐ろしかったものがどんどんと浮かんでくる。
デフォルメされて人間とは思えない容姿に見えるヘビメタのドラマー。電信柱を見上げて視えた電線の上に止まった五匹のカラス。インディーズのホラーゲームに出てたインパクト重視の、それ故に純粋に恐怖心を煽られる人面獣―客観的に見ればくだらない。記憶が曖昧で、その姿も完全ではない。目の前のそれらの悪夢自体は、きっともう乗り越えられる筈だ。しかし、問題はそれではない。悪夢の裏にびっしりと這う、記憶に付随する恐怖の感情が存在している―俺はそれが怖かった。そして今、その這う恐怖がムカデのように着実に俺の方に向かってくる。
信じたくない、けれども今知りえる全てがその不信の志を撤回させていた。信じなければならない―あのどろどろに溶けた、毒々しい不快な臭いを漂わせる泥のような"あれ"が、形の歪んだ人間だと、信じなければならない。体を胃がかき混ぜられるような不快感を感じたくらいだが、嘔吐して自分の情けない姿を見て今に連なる記憶の全てを忘れたいと思ったほどに、俺の中では拒絶感と嫌悪感で溢れそうになっていた。寧ろその感覚を吐き出して楽になりたいくらいだった。
「…吐き出す真似くらいはしてみるか?」
「…結構です」
拒みたい意思ごと捨てたくて、額からだらりと垂れるナメクジのような汗を拭い、再び彼に目を合わせようとした。
「認識を変える必要があるのは俺もお前も同じだな。『ここは相当危ない場所』だし『殺すのは雑多な命ではなく人間』だ」
「…厳しいですね」
「なにかと向き合うのはいつだって厳しい。すぐに変えろとは言わないが、過ちを認めて一歩分ちゃんと進んでいけ」
「…いつまでですか?」
期限がないと、定められないとずっとこの拒絶反応を抱えて苦しんでいかなければならない予感がした。だから絶対に必要なものではないと判っているのに訊いてしまった
「…その姿勢は評価してやるが、あまり早急に考えるな。今日中に必要なのは…せいぜい一回分の勇気くらいだ」
「まぁ、あんま考えすぎんな。緊張はしてもいいが、それが祟って動けなくなるなんてことはやめろよ、いいな?」
「はい…」
じゃあ、あなたは考えすぎてもいいんですか?
―とは言えなかった。切り上げどころを見つけて、次に進む準備を始める彼を俺は警告や忠告―かける心配の言葉もなく、そのまま自分のことを割り切ったように己を気遣わないを見るだけでなにもできない自分を考えると、この異常遺跡の攻略が目的だと分かっているのに彼はどこに行くのか分からず、それでも無条件でついていこうとする自分が不思議になった。置いて行かれる、予感がした。追いつけているとも思っていないのに、その予感への考えを巡らせると、たまらなく寂しい気分になった。
「それ―その本、持っていいですか?」
その本の価値を、重みも知らないのに、俺はただ不安と浮いて飛び去ってしまうような心細さだけを理由に、俺は彼に向って言った。人を動かす子供らしい熱意も、納得させる大人っぽい理論もなく、ただ人間的な恐怖にしたがって巨大な存在に縋るように未熟な泣き声で、自分の意思を一方的に訴えたのだ。
「…いざとなれば俺に渡せ。不用意に開くな、力込めんなよ。あと絶対に落とすなよ…」
有無を言わさず、他の何も負わせずに俺に役割だけを与えてくれて、嬉しかった。期待も何もされずに、冷たい命令のような責任がどこまでも暖かく感じた。渡された後、幼い頃に与えられた大切なものを抱きしめるように両の腕でぎしりと抱えた。信頼も求めない、我儘を言えたことに限りない安堵が本を通して身に染みた。
行くぞ、と彼はそれだけを口にして、その行き先を言うことはなかった。ただ下るだけなんだろうけど、本当にそれだけなのかの確証がない。生溶肉、毒沼、腐敗亡者、人食い鼠、引き伸ばす境界から零れ落ちてしまった異形の死霊術師、囁く肉塊。そして、その果てに待つ枯れ木の森…
今は、今が恐ろしい。今まではそうならなかっただけで、まだそうなっていないというだけで、いつ人でなくなってしまうのか、俺が殺した奴らと同じ存在になってしまう恐怖は、いつまで続くのか判らない。なにかが起きる可能性を知ってしまって、なにも起きていない今が怖くて仕方がない。
それとも…
「…もしこの調子で―呪術的な色が深くなってくるのなら、お前の存在そのものが不安定になるかもしれない。人が人の姿を失い、それでも尚人として存在を保ったままになる可能性がある。呪術的な考え方でいえば、人間の次に進みたくてああなってる連中だ。"自分達の側"に誘ってくると思うが、絶対に拒めよ」
そう言う彼の口調はいつも通りの冷静で、到底感情が込められる余地などないほどに完結された一方通行なものだった。だがそれでも、いつも通りに振り切れていない不器用な心配と憂いの混ざっていた。いつになく、真剣に伝えていた。
「名前を忘れるな。考えを止めるな、思考停止した死人になるな。馬鹿みたいな綺麗事でも生きたい理由を叫べ。暗闇の冷たさは気持ちの悪いものだ、どこまでいっても、心地よいものではない。吞み込まれるなよ」と、まるで自分が体験したことを後悔して、本気で悔悟するかのうように奥底に鬼気迫る感じがあった。
俺は地獄に行くんだろう。
だが、地獄に落ちるのではない。あくまで行くだけ。地獄に縛られる理由はない。許されようもない罪を赦されに行くのではない。旅行気分でいい、帰り道が見当たらなくても帰らなければならない。行ったままではなく、帰るまでが遠足だ。
気楽に、地獄に。
さぁ、愉快な遠足の始まりだ。
【あとがき】
別のところに書き溜めておいて、長さが充分かなとなったらこのサイトに移しています。ですが最近溜めておいた分とサイトとの話数がズレてたらしくて、見直してたんですが、もう三十話以上なんですね。このエピソード、あんまり本筋と関係ないし、時系列では三日目なのに…
至らぬ点ありましたら、どうぞご意見お願いします。
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