第八話 怪我、という字
日曜日の工房は表の店を閉めている。
それでも、じいちゃんは朝の八時には作業場にいる。
僕が二階から下りていくと、作業台の上にはもうあの常連さんの籠手が広げてあった。縁の金具は外されていて、その下の溝が押しつぶされたまま白っぽく見えている。
「おはよう。朝ごはんは食べたかい」
「食べた。手伝う?」
「うん、ちょうどよかった。そこの万力を、もう半回転だけ締めてくれるかい。ゆっくりね」
籠手の甲を挟んだ万力のハンドルを、言われたとおりに少しだけ回す。革が軋んで甲殻の板がぴたりと止まる。
窓の外はよく晴れている。
九月の終わりから十月に変わったばかりで、朝の空気はもう半袖だと少し寒い。開けた窓から、路地のどこかの金木犀の匂いが作業場の油の匂いの間に細く入り込んでくる。
ラジオは今日も小さな音でついていて、天気予報が今週はずっと晴れると言っていた。
じいちゃんはいちばん細い球のビットを付けたルーターで、押しつぶされた溝を彫り直している。
回転の音は僕のときよりずっと低い。回転を落として、刃先を溝の底に置くだけみたいに見えるのに、白っぽかった溝が少しずつ元の深さを取り戻していく。
「シンジ、筆」
「はい」
彫った粉を筆で払う。じいちゃんがルーペをのぞいて、また彫る。また払う。
そのくり返しを、たぶん一時間くらいやった。
じいちゃんは少し彫り進めるたびに、甲に手のひらを当てて魔力を流す。目を細めて、何かを聞いているみたいな顔になる。それからまた彫る。
押しつぶされていたのは、手首の縁の下を通る三本の溝のうち、真ん中の一本だった。両側の二本には刃を一度も当てていない。直すのは傷んだところだけで、生きているところには触らない。じいちゃんの仕事はいつもそうだ。
十時を過ぎたところで、じいちゃんがルーターのスイッチを切った。
「少し休もうか。お茶を淹れてくるよ」
じいちゃんが台所へ上がっていく。
僕は作業台の端に置いていたスマホを手に取る。
通知が一件、来ていた。
取引メッセージ。
差出人は、あの木の葉のイヤリングの落札者だった。
到着の連絡なら、もう何日か前にもらっている。何か不具合でもあったんだろうか。金具がゆるんだとか、ニスが剥げたとか。
画面を開くと、いつもより長い文章が並んでいた。
『先日、木の葉のイヤリングを購入した者です。突然の長いメッセージで失礼します。』
『今日、ダンジョンでこのイヤリングを着けて探索していたところ、魔物に襲われて危ない場面がありました。そのとき、イヤリングから神様が出てきて、私と仲間を助けてくれました。神様が宿っていたのだと思います。』
『信じていただけないかもしれませんが、本当のことです。おかげで誰も大きな怪我をせずに帰ってこられました。』
『素敵な品を作ってくださって、本当にありがとうございました。これからも大切に使わせていただきます。』
最初に目が探したのは、怪我、という字だった。
誰も大きな怪我をせずに。
そこまで読んで、やっと息を吐いた。
大きな、と書いてあるのが少し引っかかる。小さな怪我なら、誰かがしたのかもしれない。それでも、全員が自分の足で帰ってこられたなら。
それからもう一度頭から読み直す。
魔物に襲われて危ない場面。
イヤリングから神様が出てきて。
あの木の葉にも、いたのか。
作業台の上にスマホを置く。
置いてから、また手に取る。三回目を読む。文面は変わらない。
アイカのブレスレットのときは、目の前で石の壁を見た。だから、信じるも何もなかった。
今度は文字だけだ。会ったこともない人の、名前も分からない人の、丁寧な文字だけ。それなのに疑う気持ちがまったく起きない。
読み返すほど、文面がそのまま本当のことに見えてくる。
立ち上がって、窓のそばまで行く。
路地の向こうの家の屋根に、鳩が二羽並んでいた。どこかで布団を叩く音がする。日曜日の朝の、いつもの音だ。
この同じ朝にどこかの部屋で、あのイヤリングの持ち主も目を覚ましているんだろうか。
魔物に襲われて危ない場面。
文字にすると、たった一行だ。
中学の授業で一度だけ、横浜迷宮の一層に入ったことがある。引率の先生の後ろを、クラス全員でぞろぞろ歩いただけだった。それでも曲がり角の先で角ウサギが一匹こっちを向いたとき、足がすくんで動けなくなった。先生が棒で軽く追い払うまで、息をするのも忘れていた。
あれよりずっと大きいものに、襲われたんだろうか。
窓枠をつかむ指に、いつの間にか力が入っていた。指先が白くなっている。
「お茶が入ったよ。シンジ?」
湯のみを二つ載せたお盆を持って、じいちゃんが戻ってくる。
僕の顔を見て、少しだけ首をかしげる。
「どうしたんだい」
「これ」
スマホを差し出す。
じいちゃんはお盆を作業台に置いて、老眼鏡をかける。
「字が小さいねえ」
「大きくするよ」
指で文字を広げて渡すと、じいちゃんは画面を顔から少し離して、ゆっくり読む。
読み終えても、しばらく画面から目を上げなかった。
ラジオから、どこかの球場の歓声が小さく流れてくる。
「……そうかい」
じいちゃんは老眼鏡を外して、目頭を指で押さえる。
作業台の端に置いた彫刻刀に、じいちゃんの手が伸びる。柄をつかんで刃の向きを確かめて、また置く。もう一度つかんで、今度は何もせずに置いた。
じいちゃんが仕事の道具を意味もなく触るのを初めて見た気がする。
「そのときが来たね」
前に、イヤリングにも神様がいると思うか聞いたとき、じいちゃんは「そのときは、そのときに考えよう」と言った。
「大きな怪我がなかったのは、本当によかった」
じいちゃんはまずそう言った。
それから湯のみを一つ僕のほうへ押しやる。
「お茶が冷めるよ。飲みながら、考えようか」
二人で並んで作業台にもたれてお茶を飲む。
「この人のこと、何か分かるかい」
「全然。分かるのは、落札したときのIDだけ。名前も住所も見えない」
「向こうも、シンジのことは分からないね」
「うん。SHINってIDだけ」
「それでいい」
じいちゃんは湯のみを両手で包む。
「この人、誰かに話すかな」
僕が聞くと、じいちゃんは少し考えた。
「話すかもしれないね。仲間の人たちは、もう知っているんだろうし」
「どんな神様だったんだろう」
「さあ。どんな神様だろうねえ」
じいちゃんは、湯のみの中のお茶を見ている。
「どこのダンジョンだったのか。どのくらい深いところだったのか。……分からないことのほうが、ずっと多いよ」
そう言って、お茶を一口飲んだ。
「返事は、どうしたらいいと思う」
聞いてから、自分で答えを持っていないことに気づいた。
ありがとうございます、と言うのも変だ。助けたのは神様で、僕じゃない。かといって、すごいですね、と言うのも違う。
「シンジは、どう思ったんだい。最初に読んだとき」
じいちゃんはいつもの聞き方をした。
「……大きな怪我がなくて、よかったって」
「うん」
「それから、大事に使ってもらえて嬉しいって」
「なら、それを書けばいいよ」
じいちゃんは少し笑った。
「知らないことを、知っているふりして書かないことだね。神様の力のことは、シンジにも見えていないだろう。見えていないことを請け合うと、この人がそれを頼りにしすぎるかもしれない」
僕は湯のみを置いて、スマホを手に取る。
一度目は長くなりすぎた。
木の葉の形にした理由とか、ニスを何回塗ったかとか、気づいたら書いていた。どんな神様でしたか、と続けかけて、指を止める。
まずは、無事に帰ってこられてよかったと伝えたい。
書きかけの文章を消して、最初から打ち直した。
二度目は短くした。
『ご連絡ありがとうございます。大きなお怪我がなかったと伺って、本当にほっとしました。皆さんご無事で何よりです。』
『正直に申し上げると、私にも神様のことはよく分かりません。ですので、どうかご無理はなさらないでください。』
『それでも、作った物を大切に使っていただけて、とても嬉しいです。ありがとうございます。SHIN』
じいちゃんに見せると、じいちゃんは画面を広げて、ゆっくり読んだ。
「『私にも』のところ、いいね」
それだけ言って、スマホを返してくれた。
送信ボタンを押す。
画面に送信済みの印がつく。
じいちゃんはお茶を飲み干すと、籠手の前に戻っていく。
ルーターのスイッチを入れる前に、一度だけ振り返る。
「シンジ。今日のことも、アイカちゃんたちと、じいちゃんの間だけにしておこうね」
「うん」
じいちゃんの手元で、また低い回転の音が鳴り始めた。
昼ごはんは、二階の居間で焼きそばだった。
じいちゃんの焼きそばは、いつもキャベツが多い。今日はいつも以上に多かった。考えごとをしながら切ったんだと思う。
ちゃぶ台の向こうで、じいちゃんは箸を止めて仏壇のほうを見ていた。作業着のまま笑っている、ばあちゃんの写真。
「ばあちゃんがいたら、何て言ったかねえ」
独り言みたいな声だった。
「……怒るかな」
「怒りはしないよ。シンジのことは、何でも褒める人だったから」
じいちゃんは少しだけ笑って、また箸を動かした。
「ただ、心配はしただろうね。じいちゃんより、ずっと」
僕は何も言えなくて、キャベツばかりの焼きそばを口に運んだ。ソースの味が、いつもより薄い気がした。
昼ごはんのあと、僕は自分の作業台に座る。
午後の日差しが、窓から作業台の端まで届いている。奥ではじいちゃんの彫刻刀が、革を削るしゃりしゃりという音を一定の間隔で立て続けていた。
作業台の下から、端材の缶を引き出す。
蓋を開けると、色も大きさもばらばらの魔石のかけらが底のほうでかちゃかちゃと鳴る。青、薄い緑、ほとんど透明なもの、黒っぽいもの。どれもじいちゃんの仕事で削り落とされた端の欠片だ。
あの木の葉のイヤリングにはめたのは、たしか、少し緑がかった青い粒だった。
作業台の端には、取り下げたペンダントトップと髪留めが、薄紙にくるまって置いたままになっている。あの二つにも、何かいるんだろうか。
薄紙を少しだけめくって、のぞいてみる。窓からの光を受けて、髪留めの真鍮の板が鈍く光った。それだけだった。いるのか、いないのか、僕には見えない。アイカのブレスレットのときと同じだ。
スマホで出品のときに撮った写真を開く。
斜め下からライトを当てた一枚。飴色の木の葉の、付け根に魔石。そこから伸びた葉脈。
指で広げると、右側の葉脈の一本の、溝が太くなりかけたところが写っていた。
彫刻刀の刃が木目に引っかかって、息を止めて彫り直した場所だ。
あそこも、ちゃんとくっついていったんだな。
知らない誰かの耳たぶにぶら下がって、ダンジョンの中まで。
あれを彫っていたとき頭の中にあったのは、次の葉脈をどこから枝分かれさせるか、だけだった。
誰かの命のことなんて、一度も浮かばなかった。
缶の中から、薄い緑の欠片を一つつまみ出す。
窓の光にかざすと、内側で光が細く折れて、作業台に小さな緑色の点が落ちる。
欠片を缶に戻して、蓋を閉める。
蓋の縁が少しゆがんでいて最後まで閉まらない。前からずっとそうだ。手のひらで上から押さえると、ぺこん、と間の抜けた音がしてやっと閉まった。
勝手口が二回鳴ったのは、三時を少し過ぎたころだった。
「こんにちは」
アイカは私服だった。
薄いグレーのパーカーに、ジーンズ。片手にコンビニの袋をぶら下げている。肩口のボブが外の風で少し乱れていた。
「みんなで、ナツメの家で勉強してた。帰り道」
「勉強してたの?」
「半分は」
半分はしゃべってたんだろう、と思ったけど言わなかった。
「ユズが、途中で寝た」
「やっぱり」
「ナツメが、ユズのおでこに付箋貼ってた。『起きたら化学』って」
その光景が目に浮かんで、思わず笑った。アイカも、口の端だけ少し上げた。
アイカはいつもの丸椅子に座ると、コンビニの袋から棒アイスを二本出して、一本を僕に差し出す。
「はい」
「え、いいの」
「二本で一個の値段だったから」
本当かどうかは怪しい。
受け取ると、袋の中で少し溶けかけていて、指が冷たい。
奥の作業台では、じいちゃんが籠手の革の当たりを削っている。アイカに軽く手を挙げて、また手元に戻った。
二人でアイスをかじる。
棒にソーダ味の青がしみ込んでいく。勝手口の隙間から入ってくる風は朝より少しあたたかい。路地を、自転車のベルが一度だけ鳴って通り過ぎた。
「あれ、前のお客さんの?」
アイカが、奥の作業台の籠手に目をやった。
「うん。手首のとこ、直してる」
「ふうん」
アイカは自分の左手首を、ちらっと見た。
「アイカ」
「なに」
「イヤリングの人から、連絡があった」
アイカのアイスをかじる口が止まる。
「あれにも、神様がいたって。ダンジョンで危なかったときに、助けてもらったって」
アイカはしばらく僕の顔を見ている。
それから視線を手元のアイスに落とす。
「……怪我は?」
「大きな怪我は、誰もしてないって」
「そう」
アイカは小さく息を吐く。
それから少しだけ間を置いて、言った。
「よかったね」
短い一言だった。
でも、アイカの声は、いつもより少しだけやわらかかった。
「うん」
僕がうなずくと、アイカは口を開きかけた。
何か、続けて言おうとしたらしい。
「私も」
そこで止まった。
アイカの右手が左の手首に触れている。袖口から、革の編み帯と、波模様の留め金がのぞいていた。
アイカはその上を指先でなぞって、それから急に留め金のほうをつまむ。
「……ここ。たまに、くるって回る」
「え、留め金?」
「石が、手首の外側にずれる。走ったあととか」
僕は作業台から身を乗り出して、アイカの手首をのぞき込む。
編み帯の目は渡したときのままきれいに揃っている。留め金の波模様も、傷一つない。毎日着けているのが分かるくらい、革の表だけがほんの少しつやを増していた。
「ちょっと、遊びがあるからかな。前に、詰めようかって言ったとこ」
「うん」
「詰める?」
アイカは少し考えてから首を振る。
「まだいい。困ってないから」
困ってないなら、なんで言ったんだろう。
聞こうとしたら、アイカはもうアイスの最後の一口をかじっていた。
「ごちそうさま、じゃなくて。ごちそうした」
「ありがとう」
「うん」
アイカは棒を袋に入れて、立ち上がる。
勝手口に手をかけたところで、一度だけ振り返る。
「イヤリングの人、よかったね」
さっきと同じことを、もう一回言った。
「うん。よかった」
勝手口が閉まる。
僕は溶けかけたアイスの最後のひとかけらを、慌てて口に入れる。冷たさが歯にしみる。
アイカはさっき何を言いかけたんだろう。
私も、のあと。
「シンジ、そっちが済んだら、籠手の革を押さえていておくれ」
奥から、じいちゃんの声がした。
「はーい」
アイスの棒をゴミ箱に放って、僕は作業台を立つ。
籠手の革を押さえながら、じいちゃんの彫刻刀の先を見る。革の縁を紙一枚ぶんずつ薄くしていく。手首を内へ返したとき、そこが当たらなくなるように。
窓から差し込む光が、さっきより斜めになっている。作業台の上の削りくずが、その光の中で細い影を長く伸ばしている。
「さっきの返事、もう向こうに届いたかねえ」
刃を動かしながら、じいちゃんがぽつりと言った。
「たぶん」
読んでどう思うだろう。
顔も知らない誰かが、どこかで、僕の書いた文字を読んでいる。
「シンジ、そこ、もう少し右」
言われて、押さえる指を少しずらした。




