第七話 力を貸して
枯れ葉の塊が、ふわりとほどけた。
何枚もの葉がレイナの左肩から背中、腰、脚へと、くるくる回りながら滑っていく。乾いた葉が擦れる音が、耳のすぐそばで鳴り続けている。
体から、重さが抜けた。
胸当ても、籠手も、脛当ても、ちゃんと身についている。それなのに、まるで全部が薄い布に変わったみたいだった。踏みしめていたはずの石の床が、足の裏から少し遠い。
目の前で、灰色の甲殻が回っている。
次の瞬間、レイナの背中のほうから風が吹いた。
耳の奥で、ごう、と低い音が鳴った。地下の通路で聞くはずのない音だった。山の尾根に立ったときに、谷底から吹き上げてくる風の音に似ている。
肩の上で切り揃えた髪が、一斉に前へなびいた。壁の継ぎ目に溜まっていた砂が巻き上げられて、ライトの光の中で白く渦を巻く。
狭い通路の空気が一度にまとめて押し出されたような風だった。枯れ葉が何枚もレイナの横をすり抜けて前へ飛んでいく。
風は岩甲虫の甲殻の側面にぶつかる。
転がる巨体が、わずかに傾く。
傾いたまま右の壁へ乗り上げ、欠けた切り石の角に甲殻を擦りつけて、火花と石の粉をまき散らす。
壁を半分這い上がった甲殻の縁が、レイナの顔のすぐ横を通る。
考えるより先に、体が左へ逃げていた。
普段なら絶対に間に合わない距離だった。つま先で床を軽く蹴っただけで、体が風に押されるみたいに横へ流れる。壁から突き出した切り石と、甲殻の縁の間の、ほんのわずかな隙間に、すっぽり収まる。
髪の先が、甲殻に擦れて一本切れた。
頬のすぐ横を、熱が通り過ぎる。石と石を擦り合わせたときの、焦げたような匂いが鼻を刺した。足の裏から、巨体が床を叩く振動が骨まで響いてくる。
岩甲虫は壁を這い上がった勢いのまま、ぐるりと半回転する。
天井をかすめ、床に落ち、来た方向へ転がり戻っていく。重たい音が、階段の部屋のほうへ遠ざかる。
「……え?」
後ろでリツのかすれた声がした。
振り返ると、リツが尻もちをついたまま、口を開けてこちらを見上げている。弓は床に落ちたままだ。
通路の先へ目を戻すと、トオルが盾を構えたまま固まっていた。
「レイナ、今の、何」
「分かんない」
本当に分からなかった。
左肩を見る。
さっきの枯れ葉の塊が、またそこに浮かんでいた。体の葉っぱを全部戻して、くるりと丸まって、二つの小さな目でこちらを見ている。
かさ、と一度だけ鳴った。
「みんな、通路を抜けて! 階段の部屋へ出る!」
カナメの声で全員が我に返った。
「あいつ、部屋のほうへ転がってった。狭いところで二回目をやられたら、今度こそ避けられない。広い場所で迎える!」
「了解!」
トオルが先頭に立って走り出す。リツが弓を拾い、レイナの横を駆け抜ける。カナメが最後尾から、短杖の先に炎をともした。
レイナも走る。
体はまだ軽い。一歩ごとに床を蹴った足がふわりと遅れて着地する。気をつけないと前のリツを追い越してしまいそうだった。
通路の出口の向こうは、八層への階段がある大部屋だった。
天井が急に遠くなる。
四方の壁に沿って太い石の柱が並び、その上で、半円のアーチがいくつも重なり合っている。床の中央にはすり減った巨大な円形の模様が彫り込まれていた。何を描いた模様なのかは、誰にも分からない。
部屋の奥の壁際に下りの階段が黒い口を開けている。その手前の踊り場で、帰還用のポータルの石の円が、淡い青白い光を放っていた。
ライトは部屋の四隅に一つずつしかない。光の届かない真ん中のあたりは、苔の光でぼんやりと浮かんでいるだけだ。
その薄明かりの中に、岩甲虫がいた。
丸まっていた体をほどいて、六本の脚で床に踏ん張っている。甲殻の側面にさっき壁に擦った白い傷が走っていた。頭を低くして、また丸まる準備をしている。
帰還の光は、その巨体の向こうだ。四人で走り抜けるには、岩甲虫のすぐ脇を通らなければならない。
「トオル、正面! リツは右の柱の陰から! レイナ、私と左!」
カナメの指示が飛ぶ。
トオルが盾を構えて、岩甲虫の正面に立つ。今度は部屋が広い。転がってきても横へ逃げる余裕がある。
盾の縁の魔石にトオルが魔力を通す。表面が淡く光る。
岩甲虫が丸まって、転がり出す。
トオルは真正面からは受けなかった。盾を斜めに構えて、ぶつかる直前に半歩だけ横へずれる。甲殻が盾の表面を滑って、トオルの体の横を通り過ぎていく。
勢いの余った甲殻が柱にぶつかって、鈍い音が部屋じゅうに響く。柱の表面から、古い石の粉がぱらぱらと降った。
「今!」
リツの矢が飛ぶ。
甲殻に弾かれる。乾いた音がして、矢が床に転がる。
カナメの炎の礫も、甲殻の表面を焦がしただけで消える。
レイナは左から回り込んで、短槍を突き出した。
柄の魔石に魔力を通す。かすかに震える穂先が、甲殻の継ぎ目を狙う。
入らない。
継ぎ目が狭すぎる。穂先の先端が少し食い込んだところで、硬い縁に挟まれて止まった。
岩甲虫が体を揺すって、短槍ごとレイナを振り払おうとする。レイナはとっさに柄から手を離さず、後ろへ跳んだ。軽い体が思った以上に遠くまで流れる。穂先が継ぎ目から抜ける。
岩甲虫は柱から体を離すと、また丸まって転がり出した。
二度目。トオルが盾で流す。三度目も流す。
四度目で、トオルの足がわずかに滑った。盾の縁が甲殻に引っかかって、腕ごと持っていかれそうになる。トオルは歯を食いしばって踏みとどまったが、盾を構え直す腕が小刻みに震えていた。
「トオル、腕!」
「まだいける!」
声だけは元気だった。
リツが矢筒に手を伸ばして、一瞬だけ動きを止める。残りの本数を数えたらしい。カナメの短杖の先の炎も、さっきより小さくなっていた。魔力を使いすぎると、帰りの体力まで削れる。カナメはいつも、そこを一番気にしている。
このまま流し続けても、先に削れるのはこっちだ。
左肩のあたりで、かさかさと葉が鳴る。
見ると、枯れ葉の塊がレイナの肩から少し離れて浮かんでいる。
丸まった体の縁から、一枚だけ葉を伸ばす。それをすっと横へ払う。
もう一度、払う。
それから岩甲虫のほうを向いて、体ごとぐるりと一回転する。
何かを切れと言っている気がした。
でも、何で。この短槍では甲殻の継ぎ目に入らない。
枯れ葉の塊がもどかしそうに葉を何枚もばたばたさせる。
それからレイナの右手の短槍を指すように一枚の葉を伸ばし、次に自分を指すように丸まって、最後にまた横へ払う。
短槍。自分。払う。
……力を貸すってこと?
「……お願い」
小さく、声に出していた。
「力を、貸して」
枯れ葉の塊が、一度だけ大きくかさりと鳴った。
短槍を握る右手の周りに、風が巻きつく。
穂先の周りで空気が細く速く回り始める。目には見えない。それでも渦の中に巻き込まれた砂粒が、穂先を囲んできらきらと光っていた。
岩甲虫がまた丸まりかけている。
レイナは短槍を岩甲虫に向けて振り抜いた。
穂先は届いていない。距離はまだ三歩以上ある。
それなのに、振り抜いた軌跡のまま、何かが飛んだ。
細い、空気の刃だった。
刃は甲殻の継ぎ目に吸い込まれるように入って、そのまま奥まで裂く。
岩甲虫の体がびくりと跳ねる。丸まりかけていた体が、途中で止まった。継ぎ目がぱっくりと開いている。
「開いた!」
リツが叫んで矢を放つ。
今度は弾かれない。開いた継ぎ目の奥へ、矢が深く刺さる。
カナメの炎の礫が同じ場所へ飛び込む。中で何かが焦げる匂いがした。
岩甲虫が悲鳴のような軋みを上げてのたうつ。
その頭の上へ、トオルの剣が振り下ろされた。
部屋が、静かになった。
岩甲虫は六本の脚を縮めたまま、動かない。
甲殻の継ぎ目からはまだ細い煙が上がっていた。
レイナは短槍を下ろす。
穂先の周りの風がいつの間にかほどけて消えている。体の重さも少しずつ戻ってきた。床が足の裏に近くなる。
膝から力が抜けて、その場にしゃがみ込む。
短槍を握っている右手が、勝手に震えていた。止めようとして左手で押さえると、左手も震えていた。
さっき、顔の横を甲殻が通った。あと指一本ぶんずれていたら、と考えかけて、レイナは目をつぶった。考えるのは、あとにしよう。
「レイナ!」
リツが駆け寄ってくる。
「大丈夫? 怪我は?」
リツはしゃがみ込んだレイナの肩を両手でつかんで、顔をのぞき込んだ。その目が、少し赤い。
「ごめん。私が転んだから」
「転んでないよ。ちょっとつまずいただけ」
「同じだって」
リツはそう言って、レイナの首に腕を回した。弓を背負ったままなので、弦が頬に当たって痛い。それでもレイナは、何も言わずにしばらくそのままでいた。
「ない。……たぶん、どこも」
自分で言って、自分で驚いた。
あの甲殻が顔の横を通ったのに、かすり傷ひとつない。髪の先が一本、切れただけだ。
トオルとカナメも集まってくる。四人で部屋の真ん中の円形の模様の上に座り込んだ。誰もしばらく何も言わなかった。
「ねえ」
最初に口を開いたのは、リツだった。
「さっきの風、レイナがやったの?」
「私じゃない」
「じゃあ誰」
レイナは左肩を見た。
枯れ葉の塊はそこにいた。部屋の高い天井を小さな目できょろきょろと見回している。
「……神様、だと思う」
三人が顔を見合わせた。
「神様って、依代の?」
カナメが慎重な声で聞き返す。
「たぶん。ここに、いるの」
レイナは自分の左肩を指さした。
三人の視線がその指の先に集まる。リツが目を細めて、トオルが首をかしげて、カナメは眼鏡を押し上げた。
「何も見えない」
「うん。私にしか、見えないみたい」
枯れ葉の塊は自分のことを話されているのが分かったのか、くるりと一回転した。
レイナはそれが出てきた場所を思い出す。
音がしたのは左の耳のそばだった。左の耳にはあのイヤリングがある。
指先で耳たぶに触れる。
飴色の木の葉はちゃんとそこにあった。戦いの間じゅう、落ちもせずに。
「……このイヤリングに、入ってたの?」
枯れ葉の塊に向かって、小さく聞く。
かさ、と鳴った。
それからふわりと浮き上がって、レイナの耳元まで降りてきた。木の葉のイヤリングの周りを、ぐるりと一周する。
それがはいの意味なのか、ただ飛び回っているだけなのかは分からない。
でもイヤリングの周りを回るときだけ、動きがやけにゆっくりだった。気に入った物を眺めているみたいに。
「ありがとう」
レイナは枯れ葉の塊に向かって言う。
「助けてくれて。リツも、私も」
枯れ葉の塊はレイナの顔の前で止まった。
そして、一枚の葉を伸ばして、部屋の奥を指した。
下りの階段のほうだ。
「……帰りたいの? ポータルはあっちだけど」
違ったらしい。枯れ葉の塊は体を左右に大きく揺すった。
もう一度階段を指す。それから階段の黒い口へ向かって、すいっと飛んでいく真似をして、また戻ってくる。
階段の下。八層。
「……行きたいの? 八層に?」
かさかさかさ、と、さっきまでで一番賑やかな音がした。
体じゅうの葉がぱたぱたと揺れている。
「だめ」
レイナは、思わず笑ってしまった。
「今日は帰るの。カナメが欲張らないって決めたから」
枯れ葉の塊はしばらくレイナの顔の前で浮かんでいた。
それから不満そうに一度だけ小さく鳴って、ふいっと耳元のイヤリングへ消えていった。
「……レイナ、今、神様と何話してたの」
リツが恐る恐る聞く。
「八層に行きたいって。たぶん」
「神様って、そういう感じなの?」
「分かんない。でも、この子はそういう感じみたい」
トオルが、ふっと吹き出した。カナメが眉間を指で押さえる。
そのとき、レイナは部屋の向こう側に、小さな明かりが揺れているのに気づいた。
大部屋の反対側の壁にも、別の通路の入口がある。その暗がりの中で頭につけたライトの光が三つ、こちらを向いていた。
別のパーティーだ。いつからそこにいたのだろう。
光の一つが軽く上下に揺れた。会釈したらしい。
レイナが手を挙げ返すと、三つの光はゆっくりと向きを変えて、通路の奥へ消えていった。
「見られてたね」
カナメがつぶやいた。
「別にいいでしょ。こっちで片付けたんだから」
トオルが立ち上がって、岩甲虫のほうへ歩いていく。
「それより、これの素材、剥いで帰ろう。甲殻、けっこう高く売れるはず」
四人で岩甲虫の甲殻を外し、魔石を取り出す。
リュックはいっぱいで、入りきらない分は、トオルが盾の裏に括りつけた。
最後に四人で踊り場のポータルの石の円に立つ。
足元の光が少しずつ強くなっていく。
視界が白く塗りつぶされる直前、レイナはもう一度左の耳に触れた。
木の葉は、ほんのりと温かかった。
その夜、シャワーを浴びると、右の脛に知らない痣ができていた。湯が当たるたびに、肘の擦り傷が細くしみる。
髪を拭きながら部屋に戻ると、ローテーブルの上でスマホが震え続けていた。
四人のグループトークが、帰りの電車からずっと賑やかなままだ。トオルが、真ん中がへこんだ盾の写真を送っている。「名誉の負傷」というひと言付きで。その下でリツが泣き顔のスタンプを三つ続けて押していて、さらにその下に、カナメから一行だけ。
『明日、反省会。あの通路はしばらく使わない』
レイナは少し笑って、ベッドに倒れ込んだ。
十二階の窓の外では大学の時計塔に明かりが灯っている。線路の上を最終に近い電車が光の帯になって流れていった。
体のあちこちが今ごろになって痛い。それでも、大きな怪我はどこにもない。
寝転がったまま、左耳のイヤリングを外そうとして、指が止まった。
金具を外して、机の上の小さなトレイに置く。いつもなら、そうする。
少し迷ってから、レイナは手を下ろした。今夜くらいは、着けたままでいい。
統計の課題はまだ出していない。
締め切りの零時まで、あと二時間。
レイナはスマホを手に取って、課題のファイルではなく、オークションサイトを開いた。
出品者のページ。
SHIN。
出品中の欄は相変わらず空っぽだった。終了した出品の一覧には、自分が買った木の葉のイヤリングと、ずっと前に売れたらしい小さなペンダントの写真が並んでいる。イヤリングの説明文を、もう一度開いてみた。
魔石(端材)と木材の、木の葉形の片耳イヤリング。手彫りの葉脈模様入り。ニス仕上げ。
それだけだ。
神様が入っているとも、強い魔道具だとも、どこにも書いていない。
この人は、知っているんだろうか。
自分の作った物に神様が住み着いていることを。
知っていて、こんなに素っ気ない説明文を書くだろうか。
それとも本当にただ綺麗な小物として作っただけなんだろうか。
あの、無口で頑固そうなおじいさん。
レイナの頭の中のSHINは、作業台の前で背中を丸めたまま、こちらを振り返りもしない。
取引のメッセージ画面を開く。
前回の、到着の連絡と、丁寧で少しだけ硬い返信が並んでいる。
その下に、文字を打ち始める。
『先日、木の葉のイヤリングを購入した者です。突然の長いメッセージで失礼します。』
一行打って、手が止まる。
信じてもらえるだろうか。
変な人だと思われないだろうか。
でも、言わないままでいるのは嫌だった。
あのイヤリングがなければ、今ごろリツか自分のどちらかが、大きな怪我をしていた。
レイナは続きを打つ。
『今日、ダンジョンでこのイヤリングを着けて探索していたところ、魔物に襲われて危ない場面がありました。そのとき、イヤリングから神様が出てきて、私と仲間を助けてくれました。神様が宿っていたのだと思います。』
『信じていただけないかもしれませんが、本当のことです。おかげで誰も大きな怪我をせずに帰ってこられました。』
『素敵な品を作ってくださって、本当にありがとうございました。これからも大切に使わせていただきます。』
読み返して、二か所だけ言葉を直す。
送信ボタンの上で少しだけ指を止めて、押した。
画面に送信済みの印がつく。
レイナはスマホを胸の上に置いて、天井を見上げた。
左耳のイヤリングは、着けたままだ。
耳元で、かさ、と小さな音がした。
時計を見る。課題の締め切りまで、一時間五十分。
レイナは跳ね起きて、パソコンを開いた。




