第六話 頑固そうなおじいさん
宅配ボックスの扉を開けると、小さな封筒が一つだけ入っていた。
九瀬宮レイナはそれを両手で持って部屋まで戻った。
大学から歩いて十分の、オートロック付きのマンション。一人暮らしをすると言ったとき、父が「ここ以外は認めない」と決めてきた部屋だ。一人で住むには少し広すぎて、リビングの半分はまだ段ボールと観葉植物に占領されている。
ベランダの大きな窓から、曇り空の白い光が入っていた。ガラスの外側には、朝の雨の粒がまだいくつか残っている。
差出人の欄には何も書いていない。匿名配送のシールと、取引番号だけ。
十二階の窓からは、大学の時計塔と、その向こうの線路が見える。電車が通るたびに、窓ガラスがかすかに震えた。部屋の中は静かで、冷蔵庫のうなる音と、観葉植物の葉が空調の風で揺れる音しかしない。
ハサミで封を切る。
緩衝材の中から、小さな紙箱が出てくる。薄紙を一枚めくると、イヤリングが座っていた。
写真で見たより、少し小さい。親指の先より、ほんの一回り大きいくらいだ。
一枚の木の葉だった。
付け根が少し丸くて、先がすっと尖っている。深い飴色をした木を、そのまま葉の形に削り出してあった。
付け根に、青みがかった魔石の粒がはめてある。そこから葉先へ向かって太い葉脈が一本走り、その両側から細い葉脈がびっしりと枝分かれしていた。葉の縁にも細い溝がぐるりと一周している。葉脈と葉脈の間の、ほんのわずかな隙間に、木目が細くのぞいていた。
レイナは窓際まで持っていって、光にかざした。
「……うそ、こんなに細かいの」
溝の一本一本がちゃんと深さを揃えて彫られている。
写真では模様にしか見えなかったものが、手に取ると全部、誰かの手で一本ずつ彫った線だと分かる。
指先で葉の縁をなぞってみる。
どこにも引っかからない。表面には薄くニスが塗られていて、指の腹がすべるように流れていく。それなのに、膜の奥では彫り込まれた線が一本も埋もれずに、くっきりと見えていた。
光の角度を変えるたびに、飴色の中で木目が揺れて、溝の影が細かく動く。
箱の底にメモ用紙が一枚入っていた。
『ありがとうございました SHIN』
字が少し右に傾いている。
レイナはそれを見て、なんとなく笑ってしまった。
これを見つけたのは三日前の夜だった。
寝る前にベッドでオークションサイトを眺めるのが、ここ半年くらいの癖になっている。欲しいものがあるわけじゃない。ただ、誰かが作った小さなものを見て回るのが好きだった。
実家には、値段の分かるものがたくさんある。玄関の花瓶も、応接間の時計も、母が選んだ食器も。どれもきれいで高価だけれど、誰が作ったのか、レイナは知らない。
オークションの手作り品を見ていると、写真の向こうで誰かが手を動かしているのが見える気がした。
その夜、斜め下から光を当てた木の葉のイヤリングの写真が、目に留まった。
葉脈の影が、夕方の木漏れ日みたいに見えた。
説明文には材料と大きさしか書いていなかった。
魔石(端材)と木材の、木の葉形の片耳イヤリング。手彫りの葉脈模様入り。ニス仕上げ。
余計な言葉が一つもない。
それがかえって気に入って、その夜のうちに入札した。
翌日の昼、講義の合間にもう一度ページを開いた。誰かに競り負けるのは嫌だった。気づいたら、即決のボタンを押していた。
レイナはスマホを出して、取引画面を開く。
『本日無事に届きました! 写真よりずっと可愛くて、びっくりしました。木の手触りがとても好きです。大切に使わせていただきます』
送ってから、少し浮かれすぎたかなと思う。
まあいい。本当のことだ。
鏡の前で左の耳に着けてみる。
耳たぶを挟む金具が痛くない。何時間着けていても平気そうな、ちょうどいい強さだ。
肩の上で切り揃えた黒髪の間から、飴色の葉がのぞく。
悪くない。かなり、悪くない。
スマホで自撮りをして、リツに送ろうとして、指を止めた。
週末に直接見せたほうが、たぶん驚く顔が見られる。
夜、返信が届いた。
『お気に召していただけてよかったです。大切に使っていただけたら嬉しいです SHIN』
丁寧でちょっとだけ硬い。
どんな人なんだろう、とレイナは思う。
きっと、あまりしゃべらない人だ。
工房の隅で背中を丸めて一日中何かを彫っているような。指が太くて、爪の間に木くずが入っていて、若い人に「最近の子は」とか言いそうな。
勝手に想像して、また少し笑った。
出品者のページを開いてみる。
ほかにも何か出していないかと思ったけれど、出品中の欄は空っぽだった。
見つけた夜には、イヤリングの隣に、同じ細い線を彫ったペンダントトップと髪留めも並んでいたはずだ。もう売れてしまったんだろうか。
評価の欄には、前の取引相手のコメントが短く並んでいる。「丁寧な細工でした」「写真より綺麗」。終了した出品の一覧には、以前に売れたらしい小さなペンダントの写真も残っていた。同じ細い線が、びっしり彫ってある。
「次、いつ出すんだろう」
声に出してから、自分で少し驚いた。
レイナは出品者のIDの横にある、お気に入り登録のボタンを押した。
週末の朝、ダンジョン前の広場は、いつもより人が少なかった。
朝の空気は思ったより冷たくて、レイナは薄手のカーディガンを羽織ってきてよかったと思った。広場の植え込みの銀杏は、まだ青い。
広場の真ん中には、ダンジョンの入口の石の門が立っている。朝日を浴びた門の石は、まわりのガラス張りの管理棟よりずっと古く見えた。門の前では、係員がホースで石畳に水をまいていて、濡れた石の匂いが朝の空気に溶けている。
「おはよー。レイナ、耳」
先に着いていたリツが、自分の左耳を指でつつきながら言う。
「あ、気づいた?」
「気づくよ。何それ、かわいい。どこの?」
「オークション。個人の人が出してたの」
「レイナがオークション? 百貨店じゃなくて?」
「百貨店にはこういうの、売ってないもの」
リツは「はいはい、お嬢様はセンスが違いますね」と言いながら、レイナの耳元に顔を寄せた。
間近で見て、目を丸くする。
「え、これ手彫り? 細かっ」
「でしょ」
なぜか、自分が褒められたみたいに嬉しい。
「そういえばレイナ、統計の課題出した?」
「……明日出す」
「締め切り、今日いっぱいだよ」
「えっ」
リツがけらけら笑う。レイナはスマホのメモを開いて、今夜の予定の一番上に「統計」と打ち込んだ。
遅れてトオルとカナメが来て、四人がそろう。
「ごめん、トオルが駅で迷った」
「迷ってない。改札が増えてたんだって」
「毎週来てるのに?」
トオルは大きな体を縮めて、黙って盾を背負い直した。
同じ大学の、同じサークルの四人だ。
一年の春に「探索研究会」という名前だけ真面目なサークルに入って、そこで組んだ。それから一年半、週末ごとにこのダンジョンに潜っている。
トオルは大きな盾と片手剣。四人の中でいちばん体が大きくて、いちばん前に立つ。
カナメは魔道具の短杖で、炎の礫を撃つ。後ろから全体を見て、指示を出すのもカナメの役目だ。
リツは弓。目がよくて、魔物の気配にいちばん先に気づく。
レイナは細身の短槍を使う。
トオルの盾の横から突いて、すぐ下がる。深く踏み込まずに、相手の足を止めるのが仕事だ。
更衣所で防具を着ける。
胸当てと、籠手と、脛当て。どれも大手メーカーの量産品だ。
レイナの家なら、もっと高いものを買えないこともない。
でもみんなと同じ店の同じ棚で選んだ装備のほうが、なんとなく落ち着く。壊れたら同じものを買い直せるし、四人で修理の話もできる。
イヤリングは外さなかった。
戦闘の邪魔になるほど大きくないし、耳にぴったり収まっていて落ちる気もしない。何より、せっかく着けたのに外すのがもったいなかった。
「今日は七層まで。八層へ下りる階段のポータルから帰る」
カナメがスマホの地図を見せながら言う。
「異議なし」
「異議なーし」
「なし」
三人の声がばらばらに返ってきて、カナメは満足そうにうなずいた。
ゲートを抜けて石の門をくぐると、門の内側の床に、石の円がいくつも並んでいる。入口のポータルだ。
四人で同じ円の上に立ち、それぞれ自分のクリスタルを握る。五層の階層主を倒したときにもらったものだ。これがあれば、一層から歩かなくても、五層の階層主の先にある階段から探索を始められる。
足元の光が強くなって、視界が白くなる。
光が引くと、体がふっと軽くなった。ダンジョンの中に入ると、いつもこうなる。
一年半前は、一層から五層までを毎週のように歩いて往復していた。切り石を積んだ通路に、ライトが等間隔に並んだ道だ。分かれ道ごとの金属の札も、誰かが壁に描いたスプレーの矢印も、今でも目をつぶって思い出せる。そのころのレイナたちは、ゲートの前で今日もすれ違った制服姿の高校生たちと、たいして変わらなかった。
六層は、浅い層よりずっと人が少ない。
ライトの間隔が開いて、やがて矢印の看板だけが頼りになる。通路は広くなり、天井は見上げるほど高くなった。壁の切り石は一つ一つが人の背丈ほどもあって、その継ぎ目に沿って、光る苔が青白い筋を描いている。
浅い層より空気が乾いていて、古い本を開いたときのような匂いがした。足元には、昔の誰かが彫ったらしい細い溝が、まっすぐ奥へ続いている。
青白い光が、四人の影を床に薄く伸ばした。リツが歩く速さを少し落として、耳を澄ませる。
天井の近くには、誰が彫ったとも知れない大きな浮き彫りが残っている。鳥とも魚ともつかない生き物が、輪になって泳いでいる模様だ。光る苔の青白い明かりに下から照らされて、生き物たちの目の部分だけが、くぼんだ影になっていた。
「前方、三。群れ」
リツの声で四人の足が止まる。
通路の先に灰色狼が三匹。
こっちに気づいて、低く唸り始めている。
「トオル、前。レイナは右。リツ、真ん中から。私が左を止める」
カナメの指示が短く飛ぶ。
トオルが盾を構えて前に出る。
盾の縁の魔石に魔力が通って、表面がうっすら光った。一匹目の牙が盾にぶつかって、跳ね返される。
レイナは盾の右側から滑り出た。
短槍の柄の魔石に魔力を通すと、穂先がかすかに震え始める。二匹目の前足を狙って突く。浅く入って、すぐ引く。
二匹目がよろけたところに、リツの矢が首へ刺さった。
盾に弾かれた一匹目は、トオルが片手剣で仕留めた。
三匹目はカナメの短杖から飛んだ炎の礫に鼻先を焼かれて、後ずさる。
トオルが一歩踏み込んで、剣を振り下ろす。
終わるまで一分もかからなかった。
「はい、いい感じ」
カナメが短杖を下ろす。
リツが矢を回収して、トオルが盾の傷を指でなぞる。
レイナは短槍の穂先を布で拭いながら、呼吸を整えた。
地上なら、今の動きはできない。一年半、ここで積み重ねてきたぶんだけ、体が応えてくれる。
七層でもそれは変わらなかった。
ビッグバットの群れをリツとカナメが落とす。
倒れた石像の台座の陰から出てきたパラライズバイパーを、トオルが盾で押さえて、レイナが頭を突く。
牙にかすっただけで手足がしびれて、しばらく動けなくなる蛇だ。だから、口の前には絶対に立たない。
一度だけ、パラライズバイパーの尻尾がレイナの脛当てを叩いた。
量産品の脛当ては、へこみもしない。こういうとき、みんなと同じ店で買ってよかったと思う。どこが強くて、どこが弱いか、四人とも同じように分かっている。
誰も怪我をしない。
回収した魔石と素材で、リュックが少しずつ重くなる。
七層の休憩所は、もとは小さな部屋だったらしい。四角く切り取られた入口に、後から鉄の扉が取り付けてある。中は意外と明るくて、壁際の石の段がそのままベンチになっていた。誰かが置いていった折りたたみのテーブルが、隅で傾いている。
天井からは、誰かが持ち込んだ電池式のランタンが二つ吊るされていた。壁の石には、これまでの探索者たちの落書きが、油性ペンでびっしり書き込まれている。日付と名前と、ときどき「八層、蛇多め」みたいな注意書き。いちばん古い日付は、二十年以上前だった。
石のベンチに座ると、リツがまたレイナの耳をのぞき込んだ。
「で、その職人さん、どんな人なの?」
「分からない。IDしか出ないから」
「えー、気にならない?」
「なる。たぶん、無口なおじいさん」
「なんで分かるの」
「字がね、なんか頑固そうだった」
メモ用紙の、右に傾いた字を思い出す。
「逆に若い人かもよ。美大生とか」
「この細かさで? ないない。何十年もやってる人の手だよ、これ」
リツは「ふーん」と言いながら、スポーツドリンクの蓋を閉めた。
レイナはもう一度、耳の木の葉を指でなぞった。薄い艶の下に並ぶ葉脈を、もう見なくても思い浮かべられる。
「今日、けっこういいんじゃない?」
リツが言った。
「階段まで行ったら、そのままポータルで帰る。欲張らない」
「カナメは真面目だなあ」
「真面目だから生きてるの」
カナメがそう言うと、トオルが笑った。
レイナは左の耳に触れる。
イヤリングは朝着けたときと同じ場所にあった。戦っているあいだ、一度も気にならなかった。
休憩所を出て、四人は八層への階段を目指した。
階段の踊り場には、帰還用のポータルがある。床に埋め込まれた石の円が淡く光っていて、その上に立てば入口まで一瞬で戻れる。今日はそこで終わりだ。
休憩所から階段までは、来た道とは別の通路を行く。
リュックが重い。脚も、少しだけ重い。
それでも誰も口数が減らないのは、今日がうまくいった日で、あとはもうポータルまで歩くだけだからだ。トオルとリツが、帰りに寄るラーメン屋の話で揉めている。カナメは黙って、二人の後ろから地図を見ていた。
七層の奥、八層への階段へ続く手前に、天井の低い細い通路がある。両側の壁が迫っていて、二人並ぶのがやっとの幅だ。ここだけ切り石の大きさが不揃いで、ところどころ角が欠けて壁から突き出している。ライトは入口と出口に一つずつしかない。
ここを抜ければ、階段はすぐそこだ。
「待って」
リツが急に足を止める。
「何か、転がってくる音」
四人とも息を止めた。
通路の天井から、細かい砂がぱらぱらと落ちてくる。
レイナの頬にそれが一粒当たった。
ごろごろ、という低い音。
石臼を回すような、重たい音が、通路の奥から近づいてくる。
「岩甲虫だ」
カナメの声が少しだけ硬くなった。
背中に岩のような甲殻を背負った、大きな虫だ。
丸まって転がりながら突っ込んでくる。広い場所なら横へ避ければいい。でもこの幅では避ける場所がない。
「下がる場所、ある?」
トオルが振り返らずに聞く。
「ない。後ろもずっとこの幅。転がられたら追いつかれる」
カナメが即答した。
「トオル、盾で受けて! 止まったら、腹を狙う!」
「おう!」
トオルが盾を構えて、通路の真ん中に踏ん張る。
レイナはその右後ろ、リツは左後ろ。カナメが一番後ろで短杖を構える。
暗がりの奥から、灰色の塊が転がり出てくる。
思っていたより大きい。トオルの胸くらいまである。
ぶつかる。
盾の魔石が強く光って、トオルの体が大きく後ろへ押される。
それでも止めた。岩甲虫の回転が緩んで、丸まっていた体がほどけかける。
「今!」
レイナが短槍を突き出そうとした、そのとき。
岩甲虫がほどけかけた体をもう一度丸めた。
盾に当たったまま、ぐるりと向きを変える。狭い通路の壁に甲殻をこすりつけながら、盾の左側へ回り込んでいく。
そこにいたのはリツだった。
リツが弓を引いたまま、後ろへ下がろうとする。
かかとが壁の根元の石に引っかかった。
体が傾く。
「リツ!」
考えるより先に、レイナは動いていた。
トオルの後ろを抜けて、リツの腕をつかむ。
思い切り引っ張る。リツの体がレイナの後ろへ転がる。
入れ替わるように、レイナは盾の脇を抜けた岩甲虫と、リツの間に立っていた。
目の前に灰色の甲殻がある。
もう一度転がり始めている。
リツの無事を確かめる余裕もない。後ろで、弓が床に落ちる乾いた音がしただけだ。
短槍を構え直す時間はない。
胸当ての量産品の革と板で、あれを正面から受けたらどうなるか。考えるまでもなかった。
横へ逃げる幅がない。
後ろにはリツがいる。
甲殻の回転する音が耳いっぱいに広がる。
その音の隙間に別の音が混じった。
かさ、かさかさ。
乾いた葉が地面をこすって転がっていくような音。
左の耳の、すぐそばで鳴った。
レイナは視界の端に何かを見た。
左の肩のあたりに、手のひらほどの何かが浮かんでいる。
枯れ葉を何枚も重ねて、くるりと丸めたような形。その真ん中に小さな目みたいなものが二つ、こっちを見ていた。




