第九話 右側の葉脈
統計の課題は、締め切りの二分前に出した。
送信完了の画面を見たとたん、レイナはそのままベッドに沈んで、気づいたら朝だった。時計は、もう十一時を過ぎている。
カーテンを閉め忘れた窓から、日曜日の光がまっすぐ顔に当たっている。十二階の高さだと、朝日はさえぎる物もなく部屋の奥まで入ってくる。床に置いたままのリュックの影が、フローリングに長く伸びている。
体を起こすと、脛の痣がずきりと鳴る。
昨日のことが夢じゃなかったと分かる。
枕元のスマホを手に取る。
通知の中にオークションサイトのものが一件混じっている。
取引メッセージ。SHIN。
レイナは、布団の上で正座していた。
なぜ正座したのかは、自分でも説明できない。画面を開く指が、ほんの少しだけ遅れる。
『ご連絡ありがとうございます。大きなお怪我がなかったと伺って、本当にほっとしました。皆さんご無事で何よりです。』
『正直に申し上げると、私にも神様のことはよく分かりません。ですので、どうかご無理はなさらないでください。』
『それでも、作った物を大切に使っていただけて、とても嬉しいです。ありがとうございます。SHIN』
一回目はすっと読んだ。
二回目は一行ずつ止まりながら読んだ。
最初に書いてあるのが、怪我のことだった。
神様がいたことに驚くでもなく、自分の作品が役に立ったと喜ぶでもなく、まず、こちらが無事だったかどうか。
レイナはそれがなんだかくすぐったかった。
私にも神様のことはよく分かりません。
普通なら、ここで少しくらい格好をつけそうなものだと思う。神様が宿るほどの品を作ったんだから、と。
この人は分からないことを分からないと書いている。そのうえで無理をするなと言っている。
やっぱり、無口で頑固なおじいさんだ。
腕はいいのに自分の腕を自慢しない種類の人。
レイナは左耳に手をやる。
木の葉のイヤリングは、昨日の夜からずっと着けたままだった。金具に挟まれていた耳たぶが、少しだけ赤くなっている。
「……おはようございます」
イヤリングに向かって、小さく言ってみる。
返事はない。
耳元で葉が鳴ることもない。
寝ているのか、それとも、もうどこかへ出かけているのか。昨日、八層に行きたがっていたことを思い出して、レイナは少し笑った。
カナメが言っていた反省会は、昼の一時からだった。
場所は大学の正門から坂を下りたところにある古い喫茶店だ。窓が大きくて、ガラスに金色の字で店の名前が書いてある。中に入ると、焦げたコーヒー豆の匂いと、ナポリタンのケチャップの匂いが同時にする。
日曜日の店内にはレポートを広げた学生と、新聞を読む年配の男の人が一人ずついるだけだった。天井のファンがゆっくり回っている。
いちばん奥の四人掛けに、もう三人がそろっていた。
「おはよー、レイナ。生きてる?」
リツが手を振る。
「生きてる。脛に痣できた」
「私、膝に二個」
リツはそう言って、ジーンズの上から膝をさする。笑っているけれど、目の下にうっすら影がある。
トオルの前にはナポリタンが山盛りになっていた。
その横の椅子に例のへこんだ盾が立てかけてある。
「なんで持ってきたの」
「修理に出す前に、みんなに見せとこうと思って」
「昨日、写真で見たよ」
「実物は違うんだって」
トオルは盾をくるりと回して、へこみをこちらに向ける。
真ん中がこぶし二つぶんくらい内側へ沈んでいる。縁の魔石は無事だった。
カナメはノートを開いていた。
大学ノートの見開きに、昨日の通路と大部屋の図が、定規で引いた線で描いてある。
「始めよう。まず、昨日の反省」
カナメは眼鏡を押し上げて、図の細い通路を指す。
「この通路は、帰り道として最短だった。だから選んだ。でも、狭すぎて逃げ場がない。今後、八層の階段へ行くときは、遠回りでも大部屋を経由する」
「異議なし」
「異議なーし」
「なし」
いつもの三つの返事がそろって、カナメはノートに赤ペンで丸をつけた。
「次。レイナ」
カナメがペンの先をこちらに向ける。
「神様のこと、分かってる範囲で全部教えて」
レイナは昨日のことを思い出しながら話した。
最初は耳元の音から。乾いた葉が地面を擦って転がるみたいな音がして、気づいたら左肩のあたりに、枯れ葉を丸めたような何かが浮かんでいた。
「枯れ葉?」
「うん。手のひらくらいの。目が二つあって」
リツが自分の手のひらを広げて、大きさを確かめるように見つめる。
話しているうちに、自分の声が少しだけ震えているのに気づいた。
レイナはコーヒーカップを両手で包んだ。もう冷めかけていて、指先にはほとんど温かさが伝わってこない。
「で、それがレイナにしか見えない、と」
「うん。声も、私にしか聞こえないみたい。声っていうか、葉っぱの音だけど」
「言葉は通じない?」
「通じない。手ぶりっていうか、葉ぶり? で何か伝えてくるけど、半分くらいしか分からない」
「半分も分かるならすごいよ」
リツが言った。
カナメはノートに、細かい字で書き込んでいく。
「風で体が軽くなる。突風で相手の向きを変える。風の刃で切る。今のところ、この三つ?」
「たぶん。昨日見たのは、それだけ」
「じゃあ、次の練習は、その三つを連携にどう入れるか」
カナメはペンを置く。
「来週の土曜、六層の大部屋で試そう。昨日みたいな通路じゃなくて、広くて、逃げ道が三つ以上ある部屋」
「六層なら、あそこかな。天井の浮き彫りのとこ」
トオルがナポリタンを巻きながら言う。
「あそこ、いいね。人も少ないし」
話がまとまりかけたところで、リツがストローから口を離した。
「ねえ、レイナ。その、SHINって人」
「うん」
「ほかに何か売ってないの? 私も欲しい」
リツの目が少しだけ真剣だった。
「神様が入ってるかどうかは関係なくてさ。昨日のこと、ちゃんとお礼したいっていうか。いや、買うのがお礼になるのか分かんないけど」
「売ってたら、私もとっくに買ってる」
レイナはスマホを出して、出品者のページを開く。三人がテーブルの上に身を乗り出してくる。
出品中の欄は今日も空っぽだった。
評価の欄には短いコメントが並んでいる。「丁寧な細工でした」「写真より綺麗」「梱包がとても丁寧でした」。その一番上にレイナが到着のときに書いた評価もあった。
終了した出品の一覧には、木の葉のイヤリングと、ずっと前に売れたらしい小さなペンダントの写真。
それだけだった。
「……あれ」
レイナは画面を指で下まで送る。
それからもう一度上まで戻す。
「どうしたの」
「たしか、ほかにもペンダントトップと髪留めがあったはずなの。イヤリングを見つけた夜に、隣に並んでた。同じ模様の」
「売れたんじゃない?」
「売れたら、ここに残るでしょ」
レイナは終了した出品の一覧を指さした。
木の葉のイヤリングも、昔のペンダントも、売れた物はちゃんとここにある。
あの二つだけがどこにもない。
「消したってこと?」
トオルが首をかしげる。
「たぶん。出品を取り下げたら、どこにも残らないから」
「なんで消したんだろ」
誰も答えなかった。
天井のファンがゆっくり回っている。
レイナは画面のイヤリングの写真を見ながら、今朝届いた返信の、怪我のことを最初に書いた文面を思い出していた。
「……人に、来てほしくないのかもね」
カナメがぽつりと言った。
「どういう意味?」
「分かんない。ただ、職人さんって、注文が殺到するのを嫌がる人もいるでしょ。自分のペースで作りたいとか」
「あー、頑固なおじいさんっぽい」
リツがうなずいた。
レイナも、それで少し納得した。
「じゃあ、次に何か出たら、全員に連絡ね」
リツがそう言って、自分のスマホでSHINのページをお気に入り登録していた。
翌週の土曜日、入口のポータルの石の円の前で、レイナは一度だけ足を止めた。
先週も、この円の上に立った。そのあとで、甲殻が顔の横を通った。焦げた石の匂いが、まだ鼻の奥に残っている気がする。
つま先が、円の縁の手前から動かない。
リツが、何も言わずにレイナの袖を引いた。
「行こ」
それだけだった。レイナはうなずいて、円の中に入る。四人で光に包まれて、五層の先の階段へ飛んだ。
六層へ下りる途中の曲がり角で、レイナは一度だけ短槍の柄を握り直した。角の向こうには、誰もいなかった。
六層の大部屋は前に通ったときと同じように静かだった。
見上げるほど高い天井の近くで、鳥とも魚ともつかない生き物の浮き彫りが、輪になって泳いでいる。壁の継ぎ目の苔が青白い筋を描いていた。床には昔の誰かが彫ったらしい細い溝が、部屋の端から端までまっすぐ走っている。
出入口は四つ。カナメが言っていたとおり、逃げ道には困らない。
荷物を壁際に下ろして、四人で円になる。
「まず、呼んでみて」
カナメに言われて、レイナは左耳のイヤリングに指先で触れる。
「神様。出てきて」
何も起きない。
もう一度呼ぶ。
耳元は静かなままだった。
「……いない、かも」
「いない?」
「たぶん、出かけてる」
三人がそろって微妙な顔をした。
レイナはイヤリングに触れたまま、少しだけ強く呼んでみる。
「神様。練習するから、戻ってきて」
しばらくして、部屋のどこか遠くから、かさかさと乾いた音が近づいてくる。
天井のほうから、枯れ葉の塊がふわふわと降りてくる。レイナの目の前で止まって、くるりと一回転する。どこへ行っていたのかは知らないけれど、ずいぶん機嫌がよさそうだ。
「来た」
レイナが言うと、三人がほっとしたように息を吐く。
最初は身軽になる練習だった。
レイナが「軽くして」と頼むと、枯れ葉の塊はほどけて、体の周りを一周する。体から重さが抜ける。床を軽く蹴るだけで、トオルの頭の高さまで跳べた。
「うわ、すご」
リツが声を上げる。
ただ、着地が難しかった。
軽いぶん、思ったところに足が下りない。三回目の着地で床の溝に爪先を取られて、レイナは盛大に尻もちをついた。
かさかさかさ、と耳元で葉が鳴る。
笑っているようにしか聞こえない。
「笑わないで」
小声で言うと、葉の音がぴたりと止まる。それからほんの少しだけ遅れて、かさ、と一回だけ鳴った。
次は突風だった。
トオルが盾を構えて、レイナの正面に立つ。
「どのくらい強いのか、俺が受けてみる」
「大丈夫?」
「盾、修理から戻ってきたばっかりだから。試したい」
レイナは枯れ葉の塊に向かって、トオルのほうを指さす。
枯れ葉の塊はレイナの指の先とトオルの顔を交互に見て、それから勢いよくトオルに向かって飛んでいく。
トオルの顔のすぐ前で止まる。
そして、ふう、と息を吹きかけるみたいに、小さな風を一つだけ起こした。
トオルの前髪がぱさりと逆立つ。
「……今、何か来た?」
トオルが不思議そうに額を押さえる。盾は一ミリも動いていない。
違う。そうじゃない。
レイナは慌てて首を振る。
「ごめん。たぶん、トオルの顔に、ちょっとだけ吹いた」
「顔に?」
「指さしたのが、顔だったのかも」
リツが吹き出す。カナメが額を押さえる。
トオルは逆立った前髪を手で直しながら、なぜか少し嬉しそうだった。
指さすだけでは、何をしてほしいのかまでは伝わらないらしい。
トオルの前髪が三回目に逆立ったとき、レイナは思わず「違うってば」と、手のひらを前に突き出していた。
その手の先から、風が出た。
トオルの盾がどん、と鳴って、大きな体が半歩後ろへ押し戻される。
「……今の!」
「来た来た! これこれ!」
トオルが盾の陰から顔を出して、なぜか一番喜んでいた。
風の刃のほうは、もっと手間取った。
突き出しても、指さしても出ない。リツの矢が一本、突風で天井まで吹き上げられて、浮き彫りの魚の口に刺さったまま落ちてこなくなった。
諦めかけたころ、額の汗を拭おうとして、レイナが指先で横に払った。その先の壁の苔に、すっと細い筋が一本入った。
四人とも、しばらくその筋を見ていた。
それでも、一つだけ、確実に通じる合図ができた。
枯れ葉の塊が体から一枚だけ葉をまっすぐ立てる。
それをすると、次の突風はいつでも出せる、という意味らしい。三回試して、三回とも、葉が立った直後に手を突き出すと風が出た。葉が立っていないときは、何回突き出しても出なかった。
「準備できたよ、ってことかな」
レイナが言うと、カナメがノートにまた書き込む。
「合図が来たら、レイナが『風』って声に出して。私たちには神様が見えないから、声で知らせて」
「了解」
最後に四人で連携を組んでみた。
トオルが盾で正面を受け持つ。リツが右から矢を射る。カナメが後ろから炎の礫で牽制する。
レイナは盾の横から短槍で突く。いつもの動きだ。その間に耳元で葉が一枚立ったら、「風」と声に出して、手のひらを突き出す。
部屋の端に転がっていた石の柱のかけらを、魔物に見立てて、何度も繰り返す。
「風!」
レイナの声に合わせて、トオルが盾を少し下げる。突風がかけらを押して、床の上を滑らせる。滑ったかけらの横から、リツの矢とカナメの炎が飛ぶ。
十回目くらいで四人の動きが噛み合ってきた。
「……いけそうだね」
カナメが珍しく口元をゆるめた。
そのとき、リツが弓を下ろしかけた手を止めた。
「……東の入口。三匹」
四人が一斉に振り向く。
四つある出入口のうち、苔の光がいちばん薄い東の口から、灰色の影が三つ、低い姿勢で入ってきた。先週もこの層で倒した灰色狼だ。
レイナの心臓が、一度だけ大きく跳ねた。
喉の奥が乾く。短槍を握る指が、いつもより冷たい。先週の通路の暗がりが、一瞬だけ目の前に重なった。
耳元で、かさ、と葉が鳴る。
左肩のあたりで、枯れ葉の塊が一枚だけ葉をまっすぐ立てていた。
大丈夫。ここは広い。逃げ道は三つある。
「トオル、正面!」
カナメの声と同時に、トオルが前に出る。一匹目の灰色狼が、低く跳んだ。
「風!」
叫んで、手のひらを突き出す。
突風が、跳んだ狼の横腹を打った。空中で向きを崩した狼が、トオルの盾の手前で床に転がる。
その首へ、リツの矢が刺さった。
二匹目はトオルの盾に噛みついたところを、カナメの炎の礫に鼻先を焼かれて下がる。下がった先に、レイナの短槍が待っていた。
三匹目は仲間が二匹とも倒れたのを見て、来た入口へ逃げていった。誰も追わなかった。
終わってみれば、練習の続きみたいに短い時間だった。
レイナは短槍の穂先を下ろして、自分の手を見た。
指先が、少しだけ震えている。先週ほどじゃない。
リツが黙って、握った拳を差し出してきた。レイナはそこに、自分の拳を軽くぶつけた。
帰りのポータルの前で、レイナはもう一度枯れ葉の塊に向かって言う。
「今日もありがとう」
枯れ葉の塊は一枚の葉をまっすぐ立てる。
それから階段の下を指した。
「八層は、まだ」
かさ、と不満そうな音が一回だけ鳴って、枯れ葉の塊はイヤリングの中へ消えていった。
翌日、日曜日の夜。レイナはクローゼットを開けて、明日着ていく服を選んでいた。
月曜日は一限から講義がある。ブラウスにするか、ニットにするか迷って、結局薄いベージュのニットを選んだ。
ハンガーに掛けて、鏡の前で体に当ててみる。左耳の木の葉が黒い髪の間からのぞいた。
飴色がベージュによく合う。
ダンジョンに行くときだけじゃなくて、普段の日にも着けていよう。
レイナはそう決めて、イヤリングを外さずにベッドに座った。
スマホでSHINとの取引メッセージを開く。
先週の返信がいちばん下に残っている。
レイナはイヤリングを外して手のひらに載せる。
部屋の明かりの下で、木の葉を傾ける。
付け根の魔石から、葉先へ太い葉脈が一本。その両側から、細い葉脈が何本も枝分かれしている。
最初に見たときから、気になっていたところがある。
右側の葉脈の一本だけ、ほかより少しだけ太い。
ほんの少しだ。光の角度を変えないと気づかないくらいの差。
でもレイナは、この一本がいちばん好きだった。
返信を打つ。
『お返事ありがとうございました。お気遣いいただいて嬉しかったです。無理はしないように、仲間と相談しながら探索しています。』
『このイヤリング、ダンジョン以外の日にも着けることにしました。飴色が、どんな服にも合うので。』
『それと、右側の葉脈が一本だけ少し太いところが、私はいちばん好きです。本物の葉っぱみたいで。これからも大切に使います。』
送る前にもう一度読み返した。
最後の一文を消そうかと少し迷って、そのまま送信ボタンを押した。
イヤリングを耳に戻す。
耳元で、かさ、と小さな音がした。
明日の講義の教科書を、まだリュックに入れていないことを思い出して、レイナは立ち上がった。
ブックマーク等お待ちしてます




