第十話 ずるいね、水
月曜の朝、目が覚めてスマホを見ると、ゆうべ届いた通知が一件残っていた。カーテンの隙間から入る光が天井に細い線を一本引いていて、窓の外では路地を通る自転車のブレーキが、きい、と短く鳴っている。
取引メッセージは、あのイヤリングの人からだった。布団にもぐったまま画面を開く。
『お返事ありがとうございました。お気遣いいただいて嬉しかったです。無理はしないように、仲間と相談しながら探索しています。』
仲間と相談しながら、という一行を読んだところで、肩から力が抜ける。
『このイヤリング、ダンジョン以外の日にも着けることにしました。飴色が、どんな服にも合うので。』
普段の日にも着けてくれるらしい。あの木の葉が、教室か電車の中か、どこか知らない街の中で、顔の分からない人の耳元に揺れているところを想像してみる。
最後の一文で、指が止まる。
『それと、右側の葉脈が一本だけ少し太いところが、私はいちばん好きです。本物の葉っぱみたいで。これからも大切に使います。』
布団の中で、変な声が出た。
右側の葉脈の一本は、彫刻刀の刃が木目に引っかかって溝が太くなりかけたところだ。あわてて刃を寝かせ、息を止めて、そこから先をなんとかごまかした。出品する前の晩には、そこだけ何度もルーペでのぞいて売り物にしていいのか迷ったくらいだ。
あれを、いちばん好きだと言われた…。
顔が熱くなって、恥ずかしいのか嬉しいのか自分でも決められないまま、たぶん両方なんだろうと思う。
本物の葉っぱみたい、という言葉をもう一回読んで、本物の葉っぱは確かに葉脈が全部同じ太さじゃないな、と今さら気づく。そんなこと、考えたこともなかった。
「シンジ、遅れるよ」
階段の下からじいちゃんの声がして、僕はスマホを枕の横に放って制服に袖を通した。シャツのボタンを一つ掛け違えていたのに気づいたのは、階段の途中だった。
昼休み、窓際の席でアイカたちが四人で弁当を広げている横を通りかかると、ユズが僕の顔を見上げる。
「三灯原くん、なんかいいことあった?」
「別に」
「顔がゆるんでる」
ナツメはちらっとこちらを見ただけで自分の弁当に目を戻し、マオは黙って卵焼きを食べている。アイカだけが何も言わずに僕の顔を見上げていて、僕は思わず頬を手のひらでこする。
放課後、昇降口で靴を履き替えていると、隣にアイカが来る。
「今日、寄っていい?」
「うん。そういえば、土曜は河原に行くかも。石、探しに」
靴紐を結びながら、そう答える。次に何を作るかはまだ決めていないけれど、とにかく手を動かしたかったし、いい材料が見つかれば何かが決まる気がしていた。
上履きを下駄箱に入れかけていたアイカの手が、そこで止まる。少しだけ間があってから、
「…私も、行っていい?」
と言われて、結んでいた靴紐が手の中でほどける。
「え…」
「石、見たい。土曜、探索ないから」
アイカは下駄箱のほうを見たまま言う。こっちを見ないのは、いつものことだ。
「いいけど、歩くし、虫いるし、たぶん地味だよ」
「知ってる。前にも行った」
それは小学生のころ、じいちゃんとばあちゃんとアイカと、四人で弁当を持って行ったときの話だ。
「じゃあ、土曜の朝。九時くらい」
「うん」
アイカはそれだけ言って先に昇降口を出ていき、僕はほどけた靴紐を結び直すのに、さらに二回失敗した。
土曜の朝、勝手口がノックされたのは九時の五分前だった。
アイカは薄手のカーキのパーカーにジーンズと、歩きやすそうなスニーカーで来ていた。肩口のボブを今日は耳の後ろで小さく留めていて、左手首にはいつもの編み帯のブレスレットが見える。片手には、小さな保冷バッグを提げていた。
「おはよう」
「おはよう。それ、何?」
アイカは保冷バッグを作業台の端に置いて、ファスナーを開ける。中に入っていたのは、ジャムの空き瓶が一つと、透明な小袋が一つだ。
小袋には、ビー玉くらいの大きさの粒が五つ入っている。どれもざくろの実みたいな深くて少し透けた紅色で、作業灯の下にかざすと、粒の奥で光がゆっくり揺れる。
瓶の中身はとろりとしたほとんど透明な液体で、瓶を傾けると少し遅れて重たそうに流れ、光の当たり方によってはほんのり桃色にも見える。
「スライムの核と、粘液」
アイカは瓶を指でつつく。
「昨日、四層で出た。赤いのが混じってるスライム、珍しいんだって。ナツメが言ってた」
「もらっていいの? 換金したら、けっこうするんじゃ」
「何かに使えるんじゃないかと思って」
アイカは小袋と瓶を作業台に出すと、それ以上の説明はせずに、空になった保冷バッグのファスナーをさっさと閉めてしまう。
小袋から紅色の粒を一つつまんでみると、思ったより軽くて、表面はつるりとして少し冷たかった。保冷バッグに入れて持ってきてくれたからだ。何に使えるのかはまだ見当もつかないけれど、すり潰したらどんな色になるんだろう、と考えずにはいられない。
「ありがとう」
「うん。行こ。電車、行っちゃう」
アイカはもう、勝手口のほうを向いていた。
今日行くのは、ブレスレットの石を拾った近所の河原とは別の場所だ。電車で二駅、駅から少し歩いて土手の上に出ると、急に視界が開ける。
川幅の広い流れが秋の日差しを受けてきらきらしていて、土手のすすきはこの前よりずっと穂を伸ばしていた。風が吹くたびに、銀色の波が川上から川下へ順番に倒れていく。空が高く、薄く引き伸ばしたような雲が浮かんでいた。
河原へ下りると、足の裏で石がごろごろ鳴る。夏の大雨のあとだから、石はどれも角が取れて白っぽく洗われていた。
「どういうの探すの」
アイカがしゃがみ込んで、足元の石を一つ拾う。
「色がきれいで、筋が入ってないやつ。筋があると、削ってるうちにそこから割れるから。ほら、この白い線とか」
灰色の地に白い細い線が斜めに一本走っているのを指さすと、アイカは「…きれいなのに」と少し不満そうに、その石を元の場所に戻す。
二人で、河原をゆっくり歩く。
僕はつい色より先に重さを確かめてしまって、大きさのわりに重い石を探す。重いほうが中が詰まっていて、削りやすいからだ。アイカのほうは色ばかり見ていて、光に透かしては裏返し、また透かしていた。
「これ」
アイカが差し出したのは、ほとんど鏡みたいにつるつるした真っ黒な石だった。
「黒、好きなの?」
「シンジは嫌い?」
「嫌いじゃないけど、黒は彫った線が影に埋もれて、模様が見えにくいんだよ」
「ふうん」
アイカはその黒い石を、左手首のブレスレットの隣に載せてみせる。
「並べると、どっちも地味」
「地味って言うなよ」
アイカの口の端が、少しだけ上がる。
水際で拾った石は、濡れていて深い青緑色をしていた。表面に細い白い粒が星みたいに散っていて、アイカが「これは?」と見せてくる。
「きれいだけど、乾くと色が変わるかも」
パーカーの袖で水気を拭って日向に置くと、アイカも隣にしゃがみ込んで、二人で石が乾くのを待つ。赤とんぼが一匹、石の上に止まりかけて、また飛んでいく。
濡れていたときの深い青緑は、乾くにつれて灰色がかった薄い緑に変わっていった。
「…さっきのほうが好きだった」
「濡れてると、どんな石でもきれいに見えるんだよ。だから、乾かしてから決める」
「ずるいね、水」
それでも乾いた薄い緑は悪くなかったし、白い粒は乾いた地の上でかえってはっきり見えた。僕はその石を、リュックの小袋にしまう。
昼は土手に座って、コンビニのおにぎりを食べた。
風が少し出てきて、耳の後ろで留めたアイカの髪が一房だけほどけて頬にかかる。アイカはそれを指で払って、また鮭のおにぎりをかじる。川の向こうでは電車が鉄橋を渡っていて、その音が水面に跳ね返って、少し遅れてこちらへ届く。
「ねえ。シンジって、どういう色が…」
おにぎりの包装をきれいに三つ折りにしながら言いかけたアイカは、そこで言葉を止める。ペットボトルのお茶を飲みかけたまま見ると、アイカは川のほうを向いている。
「…今度、何作るの」
結局出てきたのは、そういう質問だった。
「まだ決めてない。いい石があったら、それで決めようと思ってた」
「そう」
アイカは三つ折りにした包装を、さらに半分に折る。どういう色が、の続きを聞き返そうとして、僕はやめた。アイカの耳が少しだけ赤くて、それが日差しのせいなのかどうか、確かめる勇気がなかったからだ。
工房に戻ったのは、夕方の四時を過ぎたころだった。
アイカは勝手口のところで「じゃあ」とだけ言って帰っていき、僕は作業台に今日拾った石を並べた。全部で七つあって、そのうち三つはアイカが選んだもので、あの黒い石も入っている。
「いい石が拾えたかい」
自分の作業台から顔を上げたじいちゃんが、椅子ごとこちらへ寄ってくる。石を一つずつ手に取って、光に透かし、指の腹で表面をなでてから、爪の先で軽く弾く。かつ、かつ、と乾いた音がする。
「この青緑のは、いいね。中が詰まっている。割れ目がある石は、弾くと音が濁るんだよ。やってごらん」
言われて弾いてみると、青緑の石は澄んだ音を返し、アイカの選んだ黒い石も同じように澄んでいた。
「黒いのは、彫った線が見えにくいけれど」
じいちゃんは黒い石を作業灯の下で傾ける。
「溝にだけ色の違う樹脂を流してやると、模様が浮かぶよ。覚えておくといい」
そんなやり方があるのかと、黒い石をもう一度手に取る。さっきまで地味だと思っていた石が、急に違って見えた。
じいちゃんは石を作業台に戻すと、何か思い出したように立ち上がって、工具棚の下の引き出しから新聞紙にくるんだ塊を取り出す。
新聞紙の中から出てきたのは、手のひらに載るくらいの白っぽい塊だった。
形はいびつで、片側がゆるく反っている。表面には茶色い汚れがこびりついていて、ところどころに細かいひびが走っているけれど、断面のほうだけは切ったばかりのようになめらかで、象牙みたいな乳白色をしていた。
「暴走ボアの牙だよ。新宿の迷宮の、二十階層あたりに出る大猪だ。この前、お客さんの短剣の柄に使ったものの、根元の部分でね」
じいちゃんは反った側を指でなぞりながら、両手で三十センチくらいの幅をつくってみせる。元はそれくらいの長さがあったらしい。
「いちばん太い根元のところは、汚れも残っているし、形も揃わないから、注文には使えなくて切り落としたんだよ。でも、中はきれいなはずだ。表を削れば、ちゃんとした素材になる」
そっと持ち上げると、見た目よりずっと重くて、手のひらにずしりと沈む。断面を指でなぞってみると、石とも木とも違う、つるりとして少しだけ温かいような手触りがした。
「これ、僕が使っていいの」
「練習にね。これまで、木や河原の石や、浅い層の魔物の端材ばかりだったろう。たまには少し上の素材も触ってごらん」
それから、じいちゃんはエプロンのポケットから小さな布の包みを出す。
「せっかくだから、これを使ってみなさい」
布を開くと、中にあったのは小さな立方体だった。
一辺は僕の親指の爪の幅より少し大きいくらいで、透明に近い深い青をしている。作業灯の光が立方体の奥で何重にも折れ曲がっていて、角の一つ一つが定規で引いたみたいにまっすぐだった。いつも缶から出している削り落としのかけらと並べたら、同じ魔石とは思えない。最初から、何かに使うために切り出された形だ。
「じいちゃん、これ……」
「A級の魔石から切り出したものだよ。魔道具用にね」
息が止まった。原石なら大人の拳くらいになる等級の魔石で、端材ならいくらでも触ってきたけれど、切り出した素材そのものを渡されたことは一度もない。
「そんなの、練習に使っていいの」
「いいよ。いい材料を使ってみないと分からないこともあるからね。何を作るかは、シンジが決めればいい」
じいちゃんは穏やかに笑ったけれど、僕は左手に牙の塊を、右手に魔石の立方体を持ったまま、しばらく動けなかった。
今まで扱ったことのない硬くて重い素材だ。これを彫ったらどんなふうに刃が入って、魔力はどう通るんだろう。初めての素材だから、どんな出来になるのか自分でも見当がつかない。そんなものを誰かにあげて、もし変なふうに仕上がっていたら、その人はそれを着けたままダンジョンに入ることになる。
だったら、まず自分で確かめたほうがいい。
「…自分用に、何か作ってみる」
「うん。それがいいね」
じいちゃんはうなずいて、自分の作業台へ戻っていく。
牙の塊を、作業台の上でいろんな向きに回してみる。反った側を上にすると、根元の太いところが丸い背中に見えて、そこから細くなっていく先は、首を曲げて何かを抱え込んでいるような形になった。しっぽを体に巻きつけた動物が、前脚で何かを抱えて丸まっているみたいだ。それが何なのかはまだ分からないけれど、この反りは使えそうな気がする。
試しに、汚れた面の端を球形のビットで少しだけ削ってみた。
回転を落として刃先を当てると、木よりずっと硬いのに、石ほどは刃を弾かない。削った跡から白い粉が細かく舞い上がって、焦げた骨みたいな、少しだけ鼻を刺す匂いがした。刃先がすぐに熱を持つので、水を一滴垂らすと、じゅ、と小さな音がする。少しずつ、水を差しながら進めないといけない。
ルーターを止めると、削ったところだけ汚れの下から乳白色の地肌がのぞいていて、思ったよりずっと目が細かかった。
ポケットの中で、スマホが震える。
オークションサイトの通知だったけれど、取引メッセージではなく、出品者への質問と書いてある。知らないIDから、短い文章が一行だけ届いていた。
『こんにちは。以前の出品を拝見しました。ほかの作品は、もう出品されないのでしょうか?』
作業台の上の牙と魔石を見て、それから奥のじいちゃんの背中を見る。じいちゃんは杖の頭に彫刻刀を当てていて、しゃり、しゃり、という音が一定の間隔で続いていた。
…返事は、あとでじいちゃんに相談しよう。僕はスマホを伏せて牙の塊を持ち直し、さっき削った端の隣にもう一度刃先を当てた。




