第十一話 大丈夫にするために
日曜の朝、じいちゃんは作業台の前で湯のみを片手に、僕のスマホの画面をのぞき込んでいた。
窓の外は薄曇りで、路地の向こうの家の屋根が白っぽくぼやけて見える。十月に入ってから朝晩はめっきり冷えるようになって、作業場の床板は靴下ごしでもひんやりした。ゆうべ出しっぱなしにしていた牙の塊が、作業灯の消えた台の端で、灰色の光を鈍く吸っている。
「ほかの作品は、もう出品されないのでしょうか、か」
じいちゃんは画面を少し遠ざけて、ゆっくり読み上げる。老眼鏡は今朝は首から下げたままだ。
「丁寧な人だね。返事は、どうしようか」
「出さないって書けばいいのかな。でも、ずっと出さないわけじゃないし」
「うん。休んでいる、くらいがいいかもしれないね。注文も受けていないことは、はっきり書いておこう。そうしないと、頼めば作ってもらえると思う人もいるから」
じいちゃんと二人で、短い文面を何度か書き直した。理由を書こうとすると、どうしても神様のことに触れそうになるので、結局理由は一つも書かないことにした。
『お問い合わせありがとうございます。現在、新規出品はお休みしており、個別のご注文もお受けしておりません。』
それだけを打って、送信する。
画面に送信済みの印がつくのを見届けてから、じいちゃんは湯のみのお茶を飲み干す。
「同じことを聞かれたら、同じ返事をすればいいよ。相手によって変えると、かえって何かあると思われるからね」
その日の午後は牙の汚れを落とすことから始めた。
こびりついた茶色い汚れは、ブラシでこすったくらいでは落ちない。目の粗い砥石に水を含ませて、表面を薄く一枚ずつ削いでいく。削いだ下から乳白色の地肌が少しずつ現れて、指でなぞると、まだざらついていた。
それが日曜日のことで、月曜の夜には、問い合わせがもう三件届いていた。
一件目は色違いのイヤリングはありますか、という短いもの。二件目は来月の誕生日に友達へ贈りたいので一点作っていただけませんか、という丁寧なもの。三件目は写真の模様がとても好きです、また出品されたら必ず買います、と書いてあるだけで、質問ですらなかった。
最初の二件には、日曜と同じ文面を返した。
三件目には「ありがとうございます。そう言っていただけて嬉しいです」と書いた。出品を再開する約束は、しなかった。
出品者ページを開くと、お気に入り登録の数が二十六になっていた。
先月まではたしか三だった。そのうちの一人はたぶん前にペンダントを買ってくれた人で、あとの二人は誰だか知らない。それが、今は二十六。
誰が登録したのかは、画面には出ない。
あのイヤリングを買った人が、誰かに話したんだろうか。神様のことまで話したのか、ただ素敵な小物を見つけたと話しただけなのか。僕にはそれを確かめる方法がない。
二十六という数字を見ているうちに、なんだか背中が落ち着かなくなってきて、僕は画面を閉じる。
火曜日の朝、冬服の上着もようやく体になじんできた。
教室の窓際は、もう長袖でちょうどいい。廊下の窓から見える校庭の隅で、桜の葉が少しずつ赤くなりはじめていた。
一時間目と二時間目の間の休み時間にスマホを見ると、通知がまた一件来ていた。
件名の欄に作品のご相談、とだけある。
『突然のご連絡失礼いたします。SHIN様の作品に、神様が宿っていたというお話を伺いました。大変興味深く拝見しております。』
『つきましては、同じように神様が宿った作品を、まとめて五点ほどお譲りいただけないでしょうか。金額につきましては、SHIN様のご希望に沿わせていただきます。お忙しいところ恐縮ですが、ご検討いただけましたら幸いです。』
二回読んだ。
文面はどこまでも丁寧だった。乱暴な言葉も、急かす言葉も一つもない。だからこそ、読み終えたあとで、指先がじわりと冷たくなった。
神様が宿った作品を、五点。
僕は神様を作っているわけじゃない。作っているのはブレスレットやイヤリングや髪留めで、そこに何が入るのかは、僕にも分からない。
色違いが欲しいと言われるのも、模様が好きだと言われるのも、作った物を見て言ってくれている言葉だ。でもこの人が欲しいのは、作った物じゃなくて、その中に入っているかもしれないもののほうだった。
二時間目の数学は黒板の数字が一つも頭に入ってこなかった。
その日の放課後、作業場に帰るなり、スマホをじいちゃんに見せる。
じいちゃんはちょうど注文品の脛当ての金具を磨いているところだった。布を作業台に置いて、老眼鏡をかけ直し、画面を顔から少し離して読む。
窓から入る西日がじいちゃんの手元の金具に当たって、天井に小さな光の点を一つ揺らしていた。
読み終えても、じいちゃんはしばらく何も言わなかった。
「……丁寧な人だねえ」
日曜と同じことを少しだけ違う声で言った。
「悪い人、なのかな」
「さあ。悪い人かどうかは、この文だけでは分からないよ。本当に困っていて、どうしても神様の力が要る人なのかもしれないし、ただ珍しい物を集めたい人なのかもしれない」
じいちゃんは老眼鏡を外して、胸のポケットにしまう。
「でもね、どちらでも返事は同じでいいんだよ。日曜に決めた、あの文で」
「それだけで、いいの」
「それだけがいいんだよ。神様のことを否定すると、嘘を書くことになる。認めると、もっと人が来る。何も書かなければ、こちらからは何も渡さずに済む」
僕は日曜と同じ文面を打って送る。
送信済みの印がついても、胸の奥の冷たさは、しばらく消えなかった。
じいちゃんはまた金具を磨きはじめる。
布で一回なでるたびに、くすんでいた金属の表面が少しずつ明るくなっていく。
「シンジ。この先、こういうことはまた来るよ」
手を止めずに、じいちゃんは言う。
「そのたびに、一人で抱えなくていいからね」
「うん」
じいちゃんの布の音が、しばらく作業場に響いていた。
その夜、じいちゃんが二階へ上がったあとも、僕は作業場に残って牙を削っていた。
作業灯を一つだけ点けると、光の届かない作業場の奥は、梁も工具棚も黒い影に沈んでしまう。窓の外では虫の声がずいぶん細くなっていた。九月の終わりにはうるさいくらいだったのに、今は思い出したように、ときどき一匹だけが鳴く。
汚れを落としきった面を、目の細かい砥石に替えて、ゆっくりなでる。
なでるたびに地肌がなめらかになって、そのうち、表面にうっすらと線が浮かび上がってきた。何本もの細い線がゆるい弧を描いて重なっている。木の年輪に似ているけれど、もっと細くて、もっと密だ。
牙も、育っていくものなんだ。
八メートルの猪が生まれてから倒されるまでの間に、少しずつ太らせてきた線。それが今、僕の手のひらの上にある。
この線をどう生かそう。
砥石を持つ手を止めて、作業灯に牙をかざすと、細い線の重なりが、水面のさざ波みたいに光を揺らした。昼間届いたメッセージのことは、そのあいだだけ、頭から抜け落ちていた。
水曜日の夕方、店の表で、サキさんの声がわずかに高くなる。
「親方、いらっしゃいましたよ」
作業場の引き戸を開けて顔を出すと、応接のソファに、見覚えのある人が座っていた。
先月、籠手の修理を頼みに来た常連さんだ。三十代くらいで日焼けしていて、腕が太い。今日はジャケットの下に薄手のニットを着ていて、テレビの探索特集で見たときより、ずっと普通の人に見えた。
籠手は、もう引き渡してある。今日は使ってみた感想と、次の注文の相談だと、サキさんの帳面に書いてあった。
「シンジ、お茶を頼めるかい」
「はい」
台所へ回って急須にお湯を注いでいると、表から常連さんの声が聞こえてくる。
「いや、本当に違いますよ。先週末、慣らしに二十二層まで潜ってきたんですけどね。あのあたりなら、手元を気にしながらでも余裕があるんで。一回も引っかかりませんでした」
慣らしで、二十二層。
お盆にお茶を三つ載せながら、その言い方が頭に残った。アイカたちが普段、小遣い稼ぎに潜るのは三層か四層だ。
応接のテーブルにお茶を置くと、常連さんが僕の顔を見て、にっと笑う。
「お、シンジくん。この前は、溝の具合をいっしょに見てくれてたよね」
「あ、はい。見てただけですけど」
「見てただけでも、ちゃんと分かってる顔してたよ」
常連さんは籠手を着けているつもりで、左の手首をくるりと返してみせる。
「ここの金具が下の溝を押してたって、親方に言われてさ。帰ってから自分でも考えたんだけど、たしかに俺、盾で受けたあとに手首を少し内へ返す癖があるんだよね。言われるまで、まったく気づかなかった」
「癖は、悪いものじゃありませんよ」
じいちゃんが湯のみを手に取りながら穏やかに言う。
「長く戦ってきた人の体が、自分で覚えた動きです。直すべきは、その動きに合っていなかった道具のほうですから」
常連さんは照れくさそうに頭をかいて、それから身を乗り出す。
「で、次の相談なんですけど」
鞄から出てきたのは、使い込まれた脛当てだった。
表面の革は何度も油を引いた跡で黒光りしていて、縁の金具には細かい傷が無数についている。膝のすぐ下の、魔石がはまっている部分だけが、ほかよりわずかに色が新しかった。
「これ、メーカーのやつなんですよ。悪くはないんだけど、最近ちょっと物足りなくて。籠手と同じくらいの感じで、一から作ってもらえないかなと」
じいちゃんは脛当てを受け取って、膝の上に載せる。
革の表をなで裏返して内側の当たりを確かめ、金具の傷を一つずつ指の腹でたどっていく。それから魔石の部分に手のひらを当てる。
目を細めて、何かを聞いているみたいな顔になる。
「左の外側ばかり、傷が多いですね」
「え、そうですか」
「踏み込むとき、左足を少し外へ開いて着地されている。だから外側を、床や敵に擦っているんです。新しく作るなら、外側を厚くして、内側は軽くしましょう」
常連さんは自分の脛当てをのぞき込んで、それから笑い出す。
「親方、俺の足、見たことありましたっけ」
「足は見ていませんが、脛当ては見ていますからね」
僕はお盆を抱えたまま、じいちゃんの手元を見ていた。
傷の一つ一つから、使った人の動きを読む。
あの、五点欲しいと書いてきた人は、どんなふうに使うつもりなんだろう。画面を何度読み返しても、そこだけは分からなかった。
「納期は、そうですね」
じいちゃんがサキさんのほうを向くと、サキさんはもう帳面を開いて待っていた。
「年明けの、二月の頭でしたら」
「二月か。いいですよ。ちょうど、春から新しい層に挑む予定なんで」
常連さんはあっさりうなずいて、それからふと思い出したように、僕のほうを見た。
「そういえば、お孫さん、腕はどうなんです。親方の跡、継ぐんでしょ」
心臓が、一回だけ大きく跳ねた。
じいちゃんは湯のみをテーブルに置く。
「まだ見習いとして、覚えているところですよ」
いつもと同じ、穏やかな声だった。
「道具の用意と、片付けと。それから、私の仕事を横で見てもらっています。自分で注文を受けるのは、まだまだ先の話ですね」
「そうですか。楽しみにしてますよ。お孫さんが作った物、いつか使ってみたいな」
常連さんは悪気なく笑って、お茶を飲み干す。
僕はうまく笑い返せたかどうか分からなかった。
常連さんが帰ったあと、表の店はまた静かになった。
柱時計がこち、こち、と遅れぎみに鳴っている。サキさんが帳面に、脛当て、二月頭、と書き込んでいた。
作業場に戻ると、じいちゃんは常連さんの脛当ての寸法を、方眼紙に写し取っているところだった。
僕は自分の作業台に座って、牙の塊を手に取る。日曜から少しずつ表面を削っていて、汚れの下の乳白色の地肌が、手のひらの半分くらいまで顔を出している。
さっきの、じいちゃんの答え。
まだ見習いとして、覚えているところ。
嘘じゃない。本当にそうだ。
でも、それだけじゃないことを、じいちゃんも僕も知っている。
勝手口が二回鳴ったのは、外がもう薄暗くなりかけたころだった。
「こんばんは」
アイカは制服のまま、学校の鞄を肩に掛けていた。冬服の紺のブレザーの袖口から、編み帯のブレスレットがのぞいている。
いつもの丸椅子に座ると、作業台の上の牙を見て首をかしげる。
「それ、何?」
「暴走ボアの牙。じいちゃんにもらった」
「ふうん。白いね」
アイカはそれ以上は聞かずに、膝の上で鞄を抱え直す。
何か言いに来たんだろうな、と思う。アイカがこういうふうに鞄を抱え直すのは、たいていそういうときだ。
少しだけ、間があった。
「来月、十層に行く」
「十層」
「巨腕猿。四人で決めた」
アイカは鞄の持ち手を握ったまま、まっすぐ僕のほうを見ていた。いつもなら、こういうことを言うときは目をそらすのに、今日はそらさなかった。
「五層の主は前に倒したけど、十層は初めて。みんなで、ちゃんと準備してから行く」
巨腕猿のことは名前くらいしか知らない。腕の長い大きな猿で、十層の主だということ。それからアイカたちが今まで潜っていた層より、ずっと深いところにいるということ。
「…大丈夫なの」
口から出たのはそんな言葉だった。
「大丈夫にするために、準備する」
アイカはほんの少しだけ口の端を上げる。それから左の手首に右手を重ねる。
「神様もいるし」
ブレスレットの上で、アイカの指がそっと動く。
僕には何も見えないし、何も聞こえない。でもアイカはそこにいる誰かに話しかけるみたいに、編み帯の上を一回だけなぞった。
奥の作業台で、じいちゃんの鉛筆の音が止まっていた。




