第十二話 一緒に着けて、見せて
土曜の午後の作業場には、乾いた風の音がしていた。
朝から雲一つない晴れで、そのかわり風が強い。開けた窓の外では路地の向かいの家の柿の木が枝ごと揺れていて、ときどき色づきかけた葉が一枚、作業場の中まで舞い込んでくる。僕はそれを指でつまんで窓の外へ戻してから、また牙の塊に向き直る。
いちばん目の細かい砥石で、牙の表面をなでていく。この前見つけた細い線は、なでるたびにくっきりしてきた。
この線を潰さずに、何を彫れるだろう。それを考えながら手を動かしていると、時間がいつの間にか過ぎている。
反った根元を上にすると丸い背中に見えて、細くなっていく先は首を曲げているように見える。何かの動物が前脚で何かを抱えて丸まっている形だ。猫か、狐か、それとも別の何かか。鉛筆で紙に描いてみては消して、また牙を回して眺める。そのくり返しが今朝からもう三回目だった。
奥の作業台ではじいちゃんが方眼紙に脛当ての形を描いていた。この前の常連さんの注文だ。左の外側にだけ、細い鉛筆の線が何本も重ねてある。表の店からはサキさんが電話で予約の日取りを相談する声が、引き戸ごしに小さく聞こえていた。
勝手口が二回鳴ったのは、二時を少し過ぎたころだった。
「こんにちは」
アイカは厚手のパーカーの上から薄いウインドブレーカーを羽織っていて、肩口のボブが風でくしゃくしゃになっていた。手ぐしで髪を直しながら、いつもの丸椅子に座る。片手にはスマホを握っていた。
表の引き戸が開いて、サキさんがお盆を持って顔を出したのは、ちょうどそのときだった。
「アイカちゃん、いらっしゃい。風、すごかったでしょう」
「すごかったです。駅前の傘立てが倒れてました」
「あらまあ。はい、栗まんじゅう。商店街のお店のよ。親方の分もあるけど、親方は一個だけね」
奥の作業台で、じいちゃんが鉛筆を持ったまま小さく肩をすくめた。サキさんはお茶と栗まんじゅうを作業台の端に置くと、電話が鳴ったのを聞きつけて、また表へ戻っていった。
アイカは栗まんじゅうを一つ手に取って、半分に割った。中の栗が黄色く顔を出す。
「十層のこと、相談しに来た」
「僕に?」
「シンジと、じいちゃんと。それから」
アイカは左手首を軽く持ち上げた。
「神様にも、聞いてみようと思って」
アイカは右手の指先で、ブレスレットの石をとん、と一回叩く。それから石の上をじっと見下ろす。
僕には灰色に少し緑の、平たいドームの石しか見えない。てっぺんの青い魔石も、いつもと同じように静かだった。
アイカの眉がわずかに寄った。
「…いない」
「いない?」
「出てこない。寝てるときは、叩くと起きるのに」
アイカはもう一度石を叩いた。今度は二回。それでも何も起きないらしく、アイカは石に顔を近づけて、小さな声で呼ぶ。
「石神様」
作業場がしんとした。
風の音と、奥のじいちゃんの鉛筆の音だけが聞こえる。
「石神様。相談があるの」
アイカはそう言って、待つ。
僕は何をしていいのか分からなくて、砥石を持ったまま、アイカの手首とアイカの顔を交互に見ていた。
しばらくして、アイカの視線が、ふっと動く。
ブレスレットからではなく、開いた窓のほうへ。何かを目で追うみたいに、窓枠から作業場の中へ、それから自分の手首へと、ゆっくり視線が降りてくる。
「…帰ってきた」
アイカの肩から、力が抜けるのが分かる。
「どこ行ってたの」
アイカは手首に向かって聞く。それから何かを読み取ろうとするみたいに、じっと石の上を見つめる。
「外、指してる。…くるくる回ってる。…両手、広げてる」
アイカは途中で首をかしげて、最後には小さく息を吐く。
「分からない。どこか、楽しいところに行ってたみたい」
「神様も、出かけるんだ」
「よく出かける。昼休みにいなくなって、五時間目の途中で戻ってきたこともある」
たとえば、古典の授業中。先生が黒板に和歌を書いている最中に、アイカの手首へ、窓の外から小さな神様が帰ってくる。それを知っているのは教室じゅうでアイカだけで、隣の席の誰も気づかない。想像すると、なんだか可笑しかった。
「どこ行ってるか、分かったことある?」
「一回だけ。帰ってきたとき、体に砂がついてた。たぶん、校庭の砂場」
砂場で何をしていたんだろう。聞こうとして、やめた。アイカだって知るはずがない。
アイカはそう言いながら、指先で石の縁をなでた。叱るような手つきではなかった。
「石神様。来月、十層に行くの。巨腕猿っていう、大きい猿のいるところ」
アイカは石の上に向かってゆっくり話した。僕に話すときより、ずっと丁寧な話し方だった。
「腕が長くて、柱をつかんで動くんだって。ユズが盾で引きつけて、ナツメが氷で足を止めて、マオが射って、私が攻める。いつもと同じ。でも、たぶん今までで一番強い」
アイカの視線がまた石の上で動く。
「手、ぱたぱたしてる。…胸、叩いた。…今度は、私の手のほう指してる」
アイカはそこで黙る。
しばらく、石の上を見つめたまま動かない。
「…分からない」
やがてアイカは小さく首を振る。
「任せろって言ってるのかもしれないし、気をつけろって言ってるのかもしれない。どっちにも見える」
それからアイカの口の端が、ほんの少し下がる。
「…寝た」
「え」
「寝た。丸くなって、魔石の上で」
思わず吹き出しそうになって、僕は手の甲で口を押さえる。アイカは怒るでもなく、困ったように手首を見下ろしている。
「いつもこう。大事な話の途中で寝る」
そう言いながら、アイカはパーカーの袖口をそっと引き下ろして、ブレスレットの上にかぶせた。風が当たらないように、ということらしい。
「神様って、何考えてるんだろうね」
口に出してから、自分でも思っていた以上に本気の疑問だったことに気づいた。
「アイカのこと、ちゃんと守ってくれるのに、話は半分しか通じなくて、勝手に出かけて、気づいたら寝てて。…なんで、人に力を貸してくれるんだろう」
奥の作業台で、鉛筆の音が止まる。
「暇だから、という神様もいるそうだよ」
じいちゃんが方眼紙から顔を上げて、穏やかに言った。
「暇?」
「神様の世界は、長くて静かなんだろうね。こちらに出てきて、人と一緒にダンジョンを歩くのは、退屈しのぎにちょうどいいらしい。昔、お客さんの一人が、そう教えてくれたことがある」
じいちゃんは鉛筆を置いて、椅子ごとこちらへ向き直る。
「それと、人と一緒に長く潜っていると、神様の神格も上がっていくんだよ。人が魔物を倒して強くなるのとは、また別の成長でね」
「神様も、強くなるの?」
アイカが顔を上げる。
「神格が上がる、と言うね。どんなふうに変わるかは、神様それぞれだろうけれど」
アイカは自分の手首を見下ろした。眠っているらしい石神様に向かって、何か言いたそうな顔をしたけれど、結局何も言わなかった。
「じゃあ、どの神様も、喜んで人のところに来るの」
僕が聞くと、じいちゃんはゆっくり首を振る。
「そうでもない。人と関わろうとする神様と、そうしない神様は、だいたい半々だと言われているね。来たくても、合う依代が見つからない神様もいる。格が高いほど、宿れる器が少ないんだよ」
じいちゃんはそう言って、作業台の上の牙の塊に、ほんの一瞬だけ目をやった。
「じいちゃんは、そういう器を見たことある?」
「一度だけね。若いころ、あるお客さんが宝箱から出たという古い手鏡を見せてくれたことがある。鏡面が曇っていて、ぱっと見にはただの古道具だった」
じいちゃんは遠くを見るような目をした。
「縁はすり減っていたけれど、彫りの奥には細い線が残っていてね。どうやって刃を入れたのか、ずいぶん眺めたよ。それに、手に取らせてもらったとき、手のひらに妙な重さがあってね。魔力を流したわけでもないのに、こちらが見られているような気がした。あとで聞いたら、ずいぶん格の高い神様が宿っていたそうだよ」
それからまた方眼紙のほうへ向き直った。
自分に見合う器。
僕は手の中の牙を見下ろした。乳白色の地肌の上で、細い線がまだ光を揺らしている。
そういう器を作れる人は、ほとんどいない。前にじいちゃんがそう言っていた。じいちゃん自身も、まだまだだ、と。
「…じゃあ、石神様は、ここが合ってたんだ」
アイカがぽつりと言う。
「シンジのブレスレットが」
アイカは自分で言ってから、急に窓の外へ目をそらした。風に揺れる柿の木を、何かすごく珍しいものみたいに見つめている。
僕は何と返していいか分からなくて、牙の塊を作業台に置く。かつん、と思ったより大きな音がした。
「それで、十層はいつ?」
話を戻すと、アイカはほっとしたようにスマホの画面をつけた。
「来月の、半ばくらい。ナツメが予定を組んでる」
アイカはスマホの画面をこちらに向けた。ナツメが作ったらしい予定表で、細かい字がびっしり並んでいる。入口のポータルから五層の先の階段へ飛んで、六層から十層まで階段で下りる。途中の休憩所の場所と、引き返す条件まで、一つずつ書き込んであった。
「その前に、四層で何回か練習する。ユズが盾で引きつけて、私が横へ回り込む動き。巨腕猿は柱をつかんで向きを変えるから、柱の近くでは戦わないようにって」
「ナツメ、すごいね」
「すごい。ユズは、予定表の一番下に『おやつ』って書き足して、消された」
「神様が揃って留守にする日とは、重ならないかい」
じいちゃんが方眼紙から目を上げずに聞く。
「重ならない。ナツメが、そこは避けてるって」
「そうかい。その日は、冒険者も大抵休みにするからね。神様が留守では、力は借りられない」
旧暦の神無月には、日本じゅうの依代から神様がいなくなる日がある。といっても、ひと月ずっと留守にするわけじゃない。神様たちが揃って出かける日を外して、冒険者も練習や探索の予定を組む。その日はダンジョンの入口が静かになると、毎年ニュースで流れていた。
アイカの石神様も、その日はいなくなるんだろうか。今日みたいに、どこかへ出かけて。
「あと、これ」
アイカがスマホの画面をこちらに向ける。
映っていたのはメーカーの通販サイトの商品ページだった。前腕を覆う防具で、硬い革の上に、細い金属の板が何枚か縫い付けてある。肘から手首の少し手前まで覆う形で、手首の側には、締め具が二つ付いていた。
「十層、腕を狙われるって。巨腕猿の拳を、剣で受け流すこともあるから。来週、みんなで買いに行く」
アイカはスマホを作業台の端に置いてから、右手を剣の柄を握る形にして、その下に左手を添えた。両手で構えた見えない剣を斜めに上げて、上から振り下ろされる拳を外へ流す動きだ。左の手首が内側へくるりと返って、袖口から編み帯のブレスレットが少し滑り出た。石のドームが手首の外側へわずかに寄る。
量産品だ。値段も、高校生が小遣いを貯めれば手が届くくらいのものだった。写真を見る限り、作りはしっかりしている。
僕は画面を指で広げて、防具の手首側の写真を拡大する。
締め具の位置。革の縁の厚み。手首を覆う部分がどこで終わっているか。
そこから、アイカの左手首に目を移す。編み帯のブレスレットは、ちょうど手首の骨のすぐ上に巻かれている。石のドームが甲の側に来るように。
この防具を着けたら、ブレスレットは防具の縁のすぐ先になる。たぶん、指一本ぶんも離れない。
さっきアイカが見せてくれた受け流しの動きを、頭の中でもう一度くり返す。手首が内へ返ると、ブレスレットは外へ滑る。滑った先に、防具の硬い縁がある。そこで石がぶつかるのか、留め金が引っかかるのか、それとも何も起きないのか。写真の角度だけでは、どうにも決められなかった。
「…シンジ?」
アイカに呼ばれて、顔を上げた。
画面を拡大したまま、ずいぶん長いこと黙っていたらしい。
「これ、買ったらさ」
言いかけて、アイカの左手首を見る。
「ブレスレットと一緒に着けて、見せて」
アイカは目を丸くする。
「一緒に?」
「うん。動いたときに、どうなるか見たい」
アイカは自分の左手首と、スマホの画面を見比べた。それから小さくうなずいた。
「…うん。買ったら、持ってくる」
「ありがとう」
「なんで、シンジがお礼言うの」
アイカはそう言って、スマホをポケットにしまった。立ち上がりかけて、何か思い出したように、もう一度手首を見下ろす。
「まだ寝てる」
「起こさなくていいの」
「いい。帰り道で起きる」
アイカは勝手口を開ける。強い風が一度に吹き込んで、作業台の上の方眼紙が、じいちゃんの手の下でばたばたと鳴った。
「じゃあ」
勝手口が閉まると、作業場はまた風の音だけになった。
僕は作業台の上の牙を、もう一度手に取った。
砥石を当てる前に、さっきのスマホの写真を思い出す。防具の縁と、ブレスレットの間の、指一本ぶんもない隙間。
窓の外を見ると、路地の先を歩いていくアイカの背中が見えた。
風に押されて、ウインドブレーカーの裾がばたばたとはためいている。角を曲がる手前で、アイカは一度だけ立ち止まって、左の手首を顔の前まで持ち上げた。口元が動いている。
もう起きたのかな。
アイカは手首を下ろして、角の向こうへ消えていった。
奥で、じいちゃんがまた鉛筆を動かしはじめた。




