第十三話 目のない狐
平日の放課後は牙の表面を整えるだけで終わった。
汚れを落とした面を目の細かい砥石で均して、ひびの入っていたところを少しずつ削り、どこまでが使える地肌なのかを確かめていく。それが済むと方眼紙を広げて、鉛筆で形を描いてみた。丸まった猫、尾を巻いた鼬、首をすくめた鳥。描いては牙と見比べて、合わないと思ったら消しゴムで消す。水曜の夜には紙の端が消しゴムのかすで灰色になっていた。
土曜の朝は窓を開けると吐く息がうっすら白くなりかけるくらいに冷えていた。路地の向かいの家の柿が、この一週間でずいぶん色づいている。金木犀の匂いはもうほとんどしない。作業場の水道で砥石用の水を汲むと、指先がしびれるほど冷たかった。
その作業台の上で、牙を何となく横に倒してみた。
いつもは反った側を上にして眺めていたから、寝かせたのは初めてだった。すると根元の太いところが、ちょうど丸めた背中の高さに来る。そこから先は細くなりながら前へ回り込んでいて、その内側に、親指の先がすっぽり入るくらいの丸い余白ができていた。何かを前脚で抱え込んでいる形に、見えなくもない。
おまけに背中に浮かんだ細い弧の線が、寝かせると首の後ろから尾のほうへ流れていく。毛並みと同じ向きだった。
狐だ、と思った。
丸まった狐が前脚で小さな丸いものを抱えている。抱えさせるなら、鞠がいい。かがり糸で幾何学の模様を編んだ、昔ながらの手まりだ。前脚の内側の余白に、それがぴったり収まる。
新しい方眼紙をめくって、牙を見ながら描いていく。背中の線、三角の耳、とがった鼻先、前脚、それから鞠。何度か消して描き直して、ようやく牙の輪郭とずれない下絵が一枚できあがった。
「狐かい」
いつの間にかじいちゃんが後ろから下絵をのぞき込んでいた。
「うん。寝かせたら、そう見えた」
「いい形だね。鞠も、その牙から彫り出すのかい」
「うん、一続きで。別に作ってくっつけるより、そのほうが割れにくいと思うから」
じいちゃんは小さくうなずいて、自分の作業台へ戻っていく。今日は常連さんの脛当ての型紙を、革に写して切っている。
まずは狐の輪郭を出すところからだ。
いちばん大きな球のビットをルーターに付けて、回転を落とし、下絵で狐の外側になるところを少しずつ削り落としていく。刃先がすぐに熱を持つので、ときどき筆で水を一滴垂らすと、じゅ、と小さな音がして、焦げた骨のような匂いが立ちのぼった。削った粉が作業灯の光の中を白い霧みたいに漂って、マスクの内側が自分の息で湿ってくる。
一時間ほどで塊のあちこちに狐らしい起伏が出てきた。背中の丸み、首の付け根のくぼみ、前脚と鞠の境目。まだ目も耳もないのに、作業台に置くと、何かがうずくまっているように見えるから不思議だ。朝まではただの白い塊だったのに。
「あらまあ、シンジくん、真っ白」
お茶を持ってきたサキさんが、作業場の入口で足を止める。言われて腕を見ると、袖も手の甲も細かい粉で白くなっていて、作業台の上にも窓の桟にも、薄く雪が積もったみたいになっている。
「窓、開けときますね。親方も、粉は吸わないでくださいよ」
サキさんは窓を大きく開けて、湯のみを二つ、粉のかからない棚の上に置いていった。外の風が入ってきて、光の中の白い霧が、ゆっくりと窓の外へ流れ出ていく。
次は線をどう通すかだった。
この根付には魔力を流すと体のまわりに薄い膜が張る仕掛けを持たせるつもりでいる。緒締玉にするA級の魔石から魔力を入れて、狐の体を通し、鞠のところで膜を広げる。下絵の上に鉛筆でその道筋を描き込んでいく。背中から毛並みに沿って線を流して、肩のあたりで前脚へ下ろし、前脚から鞠へ渡して、かがり模様の中で何重にも巡らせる。
ところが肩のところで鉛筆が止まった。
毛並みの線は首の後ろから尾へ、つまり背中を後ろ向きに流れている。けれど魔力のほうは、前脚へ、前向きに送りたい。そうすると、肩のところで毛並みに逆らって線を折り返すことになる。彫ってみれば通るかもしれないけれど、そこだけ毛の流れが不自然になるし、無理に折った線はたいてい流れが詰まる。ブレスレットのときの、左の一本みたいに。
鉛筆の先で肩のあたりを何度もなぞった。
「線と毛が、喧嘩しているね」
型紙を切る手を止めて、じいちゃんが言う。
「うん。毛のほうを曲げるか、線のほうを曲げるか、決められない」
「狐の毛はね、肩のところで向きを変えるよ」
じいちゃんは鋏を置くと、自分の首の後ろから肩の先へ、手のひらをなでおろしてみせる。
「首からは後ろへ流れて、肩の先からは前脚へ下りていく。毛には、毛の通り道があるんだ。それに合わせてやれば、線を無理に折らなくて済むかもしれないね」
もう一度下絵を見る。肩の先で毛並みの向きを前脚へ下ろしてやれば、背中から来た線は、肩の上で毛と一緒に自然に向きを変えて、そのまま前脚へ流れていける。鉛筆で描き直すと、肩の線が、さっきよりずっと柔らかく曲がった。
「ありがとう」
「本物の狐を、よく見ておいで。図鑑でもいい」
じいちゃんはそれだけ言って、また鋏を持つ。
スマホで狐の写真を何枚も探して、肩の毛の向きを確かめる。本当に肩のところで向きが変わっていた。首の後ろのふわふわした毛が、肩の先へ行くにつれて短く細くなって、前脚の外側へ流れていく。見た写真の狐は、どれもそうなっていた。
写真を見ながら、背中のいちばん上に、細い彫刻刀で最初の一本を入れる。
石とも木とも違う手応えだった。刃は入るのに押した分だけ素直には進んでくれない。牙の中に重なった細い弧の層に、刃先が一枚ずつ引っかかるような感じがする。刃を寝かせて、層をなでるように進めると、細くて浅い溝が一本、背中にすっと引けた。
毛が一本、生えたように見えた。
二本目、三本目と、毛並みの向きに沿って少しずつ増やしていく。肩の手前まで来たところで、さっき描き直した曲がり角のことを思い出して、刃の角度をほんのわずかずつ変えながら、線を前脚のほうへ寝かせていった。
昼を過ぎたところで、彫刻刀を置いた。指先がこわばっていて、毛並みはまだ背中の半分くらいにしか入っていない。それでも、今日はここまでにしておきたかった。疲れた手で彫ると、刃が滑りやすくなる。
昼ごはんは居間でじいちゃんと素うどんをすすった。じいちゃんは何も聞かなかったけれど、食べ終わって湯のみを置くと、ぽつりと言った。
「狐の目はね、最後に入れるといいよ」
「最後?」
「目が入ると、そこから先は狐の顔色をうかがいながら彫ることになるからね。体ができあがるまでは、目のない狐のほうが、こちらの言うことを聞いてくれる」
冗談なのか本気なのか、じいちゃんはそれ以上説明しなかった。
作業場に戻って、今度は布の包みを開いた。
A級の魔石の、立方体。作業灯にかざすと、深い青の奥で光が何重にも折れて、作業台の上に細かい青い点がいくつも落ちる。端材なら、元は同じくらいの等級の石をいつも触っている。それなのに用途に合わせて切り出された形で手に取ると、手のひらに乗る重さまで違って感じられた。
これを球に削って紐を通し、根付の緒締玉にする。
万力の口に布を噛ませて、立方体をそっと挟む。締めすぎて欠けたら、取り返しがつかない。ハンドルを回す手が、自分でも分かるくらい慎重になっていた。目の細かいヤスリを選んで、角の一つに当てる。
最初の一往復でヤスリの目がつるりと滑る。
硬い。ヤスリを往復させても、削れた粉はほとんど出てこない。光る砂みたいな青い粉が、ヤスリの目の間に薄く溜まるだけだ。力を入れれば早く削れる気がして、そのたびに手を止める。力任せに当てて角が欠けたら、この石はもう元に戻らない。削った分だけ、確実に減っていく素材だ。
「その粉は、捨てずに取っておきなさい」
奥から、じいちゃんが言う。
「A級の削り粉は、樹脂に混ぜて使うこともある。少しでもね」
僕は慌てて作業台に紙を一枚敷いて、ヤスリの目から粉を落とした。紙の上で青い粉が細い筋になって光る。
ルーペで角をのぞくと、ヤスリが当たったところだけ、透明だった青がかすかに白く曇っている。その曇りをヤスリの目をさらに細かいものに替えて、少しずつ消していく。息を詰めていたことに気づいて、一度だけ大きく吐いた。
角を一つ落とすのに、十分以上かかった。それでも、落としたところだけ光の折れ方が変わって、立方体の中の青が、わずかに丸みを帯びて見える。残りの角は七つで、そのあとには辺を落とす作業も待っている。球になるまで何日かかるんだろう。
勝手口が二回鳴ったのは、三時を過ぎたころだった。
「こんにちは」
アイカはメーカーのロゴが入った紙袋を一つ提げていた。
「買ってきた」
「この前の?」
「うん。水曜に、四人で」
「ユズ、何か変なの買わなかった?」
「盾に貼るステッカー。猫の」
「…ナツメは?」
「止めなかった。もう諦めてる」
アイカは真顔でそう言った。マオは店の中で一言もしゃべらずに、弓の弦を三種類見比べて、結局いつもと同じものを買ったらしい。
アイカはいつもの丸椅子に座ると、作業台の上の紙に目を留めた。青い粉が細い筋になって光っている。
「それ、何?」
「A級の魔石の削り粉。じいちゃんが、捨てるなって」
「A級」
アイカは少しだけ身を引いて、紙から距離を取った。くしゃみでもしたら大変だと思ったらしい。その様子がおかしくて笑うと、アイカはむっとした顔で背筋を伸ばした。
それから袋から防具を出す。スマホの写真で見たとおり、硬い革の上に細い金属の板が縫い付けてあって、肘から手首の少し手前までを覆う形だ。手首の側に締め具が二つ並んでいて、新品の革の匂いがした。
アイカはそれを左腕に着けて、締め具を留める。手首のすぐ先に編み帯のブレスレットがある。防具の縁からはほんの少し離れていた。
「普通に動かしてみて」
アイカは腕を曲げたり伸ばしたり、手首を回したりしてみせる。何も当たらない。編み帯は手首に沿ったままで、留め金も石も、防具の縁からちゃんと離れている。
「当たらないね」
「うん。着けて歩いてても、気にならなかった」
じゃあ、大丈夫なのかな。そう思いかけて、この前アイカが見せてくれた動きを思い出した。
「受け流すときの動き、やってくれる? いつもの感じで」
アイカは丸椅子から立ち上がって、作業場の真ん中まで出た。右手を剣の柄の形にして、その下に左手を添える。
この前、写真を見ながら見せてくれたときより、ずっと速かった。左足が半歩前へ出て、肘が内側へ締まり、見えない剣が斜めに上がって、上から来る拳を外へ流す。最後に手首がくるりと内へ返る。
かちっ。
小さな音がした。アイカの動きが止まって、二人で同時に、アイカの左手首を見た。
「…今、鳴った?」
「鳴った。もう一回、いい?」
アイカは同じ動きをくり返したけれど、今度は鳴らなかった。三回目も鳴らない。四回目にまた、かちっと鳴った。
何が違うんだろう。同じ動きのはずなのに、鳴るときと鳴らないときがある。
「次、ゆっくりやって。手首を返す直前で、止めて」
アイカは言われたとおり、ゆっくり腕を上げて、手首を返す手前で止めた。僕は作業台から身を乗り出して、その手首をのぞき込む。
編み帯のブレスレットが、手首の外側へわずかにずれていた。石のドームが甲の側から外へ寄っていて、そのぶん留め金が防具の縁に近づいている。
一度ブレスレットを元の位置へ戻してもらって、見比べてみる。ずれる前は、防具の縁と留め金の間に指が一本と半分くらい入った。ずれたあとは、一本も入らない。そこから手首を返したときにブレスレットが回る分を足すと、ちょうど当たるか当たらないかの、ぎりぎりのところになる。
「鳴ったときは、手首を返す前に、ブレスレットがもうずれてるんだ。たぶん、踏み込んだときに」
「踏み込んだとき」
アイカは自分の手首を見下ろして、少し考えた。
「走ったあとも、ずれる。前に言った」
「うん、言ってた」
あのときアイカは困っていないから詰めなくていい、と言った。ブレスレットだけなら、本当に困らなかったんだと思う。少しずれても、その先には何もなかった。今はそこに防具の縁がある。
「傷、ついてない?」
アイカが留め金を指でなぞる。波模様の蹴彫りの上に、細い擦り跡が一本だけ増えている。爪の先で触れて、ようやく分かるくらいのものだった。
「…ごめん」
「なんでアイカが謝るの」
「せっかく、きれいなのに」
アイカは留め金から指を離さなかった。僕は何と返していいか迷って、作業台の端に目をやった。さっきまで彫っていた狐が、背中に何本かの毛を生やして、うずくまっている。
試しにブレスレットを手の甲のほうへ指一本ぶん寄せてから、もう一度やってもらった。一回目と二回目は鳴らない。三回目、アイカが深く踏み込んだところで、編み帯がするりと元の位置へ戻って、また、かちっと鳴った。
位置を直すだけでは、踏み込みの勢いでずれてしまうらしい。
「どこで当たるかは、分かった」
自分に言い聞かせるみたいに、僕は言った。
「でも、ここで分かるのは、ここでの動きだけだよね。ダンジョンの中だと、アイカ、もっと速いでしょ」
「速い。たぶん、倍くらい」
「踏み込みも、もっと深くなる?」
「なる。あと、本当に拳を受けたら、腕ごと押される」
それなら、中でどのくらいずれて、どのくらいの頻度で当たるのか、ここで何十回試しても本当のところは分からない。編み帯を詰めればいいのか、留め金の位置を変えればいいのか、それとも全然別のやり方があるのか。決めるにはまだ材料が足りなかった。
「アイカたちの練習、見せてもらえないかな」
アイカが目を丸くする。
「練習?」
「四人で合わせてるところ。どう動いてるのか、ちゃんと見たい。ブレスレットのとこだけじゃなくて、全部」
アイカはしばらく黙ったまま、左腕の防具を見下ろしていた。それからさっきよりずっとゆっくり、受け流しの形をもう一度なぞってみせる。自分の肘と手首を確かめるように見ながら。
「…左の肘、先に締めてる」
ぽつりと、そう言った。
「踏み込むとき。今まで、考えたことなかった」
アイカは同じ形をもう一回だけくり返した。肘が締まって、そのあとに手首が返る。それを自分の目で追っている顔は、まるで初めて見る誰かの腕を観察しているみたいだった。
「みんなに聞いてみる。来週、どこかで合わせる日があるはずだから」
「ありがとう」
「お礼言うの、シンジじゃないって。この前も言った」
アイカは防具の締め具を外して、紙袋にしまった。立ち上がりかけたところで、作業台の端の狐に目を留める。
「それ、狐?」
「うん。まだ途中」
「背中だけ、毛が生えてる」
アイカはそれだけ言って、口の端を少し上げた。勝手口が閉まると、作業場には新品の革の匂いが、かすかに残っていた。
作業台に戻って、狐を手に取る。
さっきの続きを彫ろうとして、彫刻刀を持った手が止まった。この根付はベルト通しに紐で留めて、本体はポケットに入れて持ち歩くつもりでいる。ポケットの中で狐はどの向きになるんだろう。取り出すとき、指はどこに触れるんだろう。そういうことを今まで一度も考えていなかった。
狐を手のひらに載せて、ポケットへしまうときみたいに、そっと握り込んでみる。親指がちょうど狐の背中の、さっき毛を彫ったばかりのところに当たった。毎日ここを握るなら、仕上げに掛ける保護の膜も、いちばん先にここから擦れていくはずだ。
僕は彫刻刀を置いて、方眼紙の下絵の背中に、鉛筆で小さな丸を一つ描き込んだ。




