第十四話 射線
翌週の日曜、工房からバスで十五分の横浜迷宮へ向かった。
停留所で降りると、すぐ目の前にガラス張りの管理棟が見える。正面の自動ドアの向こうでは、換金所の電光掲示板の数字が日曜の午後も休まずに切り替わっていた。売店の前には串カツを待つ列ができていて、防具を着けたままの高校生や大きなリュックを背負った大学生くらいの人たちが行き交っている。普段ここへ来ることのない僕は、それだけで少し落ち着かなかった。
管理棟の裏手には、思っていたよりたくさんの人がいた。
ガラス張りの管理棟の脇を抜けて裏の駐輪場をさらに回り込むと、緑色のフェンスに囲まれた土の広場がある。冒険者向けの地上練習場だ。地面は踏み固められて白っぽく乾いていて、ところどころに古い的が立ち、太い丸太に古タイヤを巻き付けた打ち込み用の柱が何本も並んでいた。あちこちで別のパーティーが、盾を構えたり木剣を打ち合わせたりしている。
十月も半ばを過ぎて、日差しはもうやわらかい。フェンスの外の植え込みでは、銀杏の葉が端のほうから黄色くなり始めていた。
ダンジョンの中では、地上より体がずっと速く、ずっと強く動く。だからここで動きを合わせても、それがそのまま中での動きになるわけじゃない。それでもアイカたちは、来週の四層の練習の前にここで立ち位置と合図を確かめておくのだと言っていた。
僕が見たかったのも、たぶんそこだった。工房で見たのはアイカ一人が再現してくれた受け流しの形だけだ。四人がそろったとき、アイカがいつ、どんな理由でその動きを選ぶのか。それは工房では見られない。
「あっ、三灯原くん! こっちこっち!」
フェンスの入口のそばで、ユズが大きく手を振っている。背中の大盾には例の猫のステッカーが貼ってある。真っ白な猫が片目をつぶって舌を出していた。
「それ、本当に貼ったんだ」
「かわいいでしょ。ナツメには『魔物に舐められる』って言われた」
「事実でしょ」
ナツメが短杖を腰に差しながら、表情を変えずに言う。その後ろでマオが弓の弦を張り替えている。アイカは少し離れた打ち込み柱のそばで、新しい前腕の防具の締め具を締め直している。
僕に気づくと、アイカは小さくうなずいて、すぐに防具へ目を戻した。
「今日は、巨腕猿のときの立ち位置を合わせる。地上だから、短杖の氷は出ないし、私は声で合図するだけ。速さも、中の半分以下だと思って」
ナツメは僕が何を見に来たのかを分かっているみたいに、最初にそう説明してくれた。
「三灯原くんは、あそこね。邪魔にならないとこ」
ナツメが指さすのは、練習場の端に置かれた古いベンチだった。そこからなら、四人の動きが全部見渡せる。
「じゃあ、始めよう。巨腕猿の想定で、最初から」
ナツメの声で四人の顔つきが変わる。
ユズが盾を構えて、打ち込み柱の正面に立つ。柱を巨腕猿に見立てているらしい。柱のすぐ脇には的が一つ立ててあって、そこが巨腕猿の胴のつもりだ。ナツメは少し下がった位置から全体を見渡し、マオはユズの右後方、少し離れたところへ回って、柱の脇の的に向かって弓を構える。アイカはユズの左後ろで剣を抜いた。
いつも工房の丸椅子に座って、お菓子を半分に割っているアイカとは違う人がいた。
剣の柄を握る右手に、余計な力が入っていない。肩が下がって、膝が柔らかい。視線は柱から離れず、それでいてユズの盾の向きを目の端でちゃんと追っている。
「右、来る!」
ナツメの声が飛ぶ。ユズが盾を左へ傾けて、右から来る想定の腕を受け流す姿勢を取った。その瞬間、アイカがユズの右側へ大きく踏み出す。盾の陰から飛び出して、柱の右脇へ回り込み、剣を斜めに振り抜いた。
木剣じゃなく、本物の剣だ。刃は柱の手前でぴたりと止まって、空気だけを切った。
「戻って!」
アイカは振り抜いた勢いのまま半回転して、ユズの後ろへ戻る。そのあいだにマオが的へ一本、矢を射た。乾いた音がして、矢が的の中心近くに刺さる。
一連の動きが終わるまで、五秒もかかっていない。
ユズの盾さばきは教室でしゃべり続けているユズからは想像できないくらい静かだった。盾を傾ける角度を足の位置ごと少しずつ変えている。ナツメは柱を見ているようで、実際には三人の背中を順番に見ていて、声を出すのはいつも誰かが動き出す半拍前だ。マオは射るたびに立つ位置を半歩ずつ変えていて、そのたびに的とアイカの間の隙間を測るみたいに目を細めていた。
ナツメが「もう一回」と言い、四人は同じ動きをくり返した。二回目、三回目。少しずつ速くなって、動きが噛み合っていく。
僕はベンチから身を乗り出して、アイカの左手首を見ようとした。
でもこの距離からだと、留め金どころか編み帯の位置さえよく分からない。アイカが動くたびに、手首は剣の陰になったり、ユズの盾の向こうに隠れたりする。全体の流れはよく見えるのに、肝心の手首だけが見えない。
四回目が終わったところで、僕は立ち上がる。
「ごめん。今の、右に回り込むところだけ、ゆっくりやってもらえる?」
アイカが振り返る。仲間に向けていた顔から、ほんの一瞬、どう返せばいいのか迷うような間があって、それから黙ってうなずいた。
「ユズ、さっきの盾、もう一回」
アイカがそう言うと、ユズが「はいよー」と盾を構え直す。
僕はベンチを離れて、アイカの右斜め前の、剣の届かないところまで近づいた。ナツメが目で、そこなら大丈夫、と教えてくれる。
ユズが盾を左へ傾ける。アイカがさっきよりずっとゆっくり、右へ踏み出す。
届かないと分かっていても、振り抜かれる切っ先が空気を横切ると、僕は思わず半歩下がっていた。本物の刃が動くのを、こんなに近くで見るのは初めてだった。ナツメが、口の端だけで少し笑ったのが見えた。
一歩目が、思っていたよりずっと大きかった。
右足を大きく前へ出して、体を沈めながら盾の陰から抜ける。そのとき剣を持った右手が前へ伸びて、バランスを取るように左腕が後ろへ引かれた。肘から先が体の後ろへ大きく振られる。
その瞬間、編み帯のブレスレットが、手首から肘のほうへ、するりと滑り上がった。
工房で見た、外側へ回るずれじゃない。腕に沿って、防具の縁のほうへ上がっていく。石のドームが防具の縁の真下にもぐり込むみたいに近づいていた。
「止めて」
アイカがその姿勢のまま止まる。
左腕を後ろへ引いたままのアイカの手首を、僕はのぞき込んだ。留め金は手首の外側でも内側でもなく、防具の縁から指一本も離れていないところで、石と一緒に押し上げられている。ここから剣を振り抜いて腕を戻せば、縁にこすれながら手首へ戻ってくるはずだ。
「…これ、工房のと違う」
思わず声に出ていた。
「違う?」
アイカが引いた腕を見下ろす。
「工房のときは、ブレスレットが外側に回ってた。今のは、上に滑ってる。腕を後ろに振るから」
「アイカ、右から回るとき、いつも一歩目大きいもんね」
盾の陰から、ユズが顔を出した。
「左から回るときより、ぜんぜん大きい。あれ、なんで?」
「…なんでだろう」
アイカ自身が首をかしげた。考えたこともなかった、という顔だった。
「射線」
弓を下ろしたマオが、ぽつりと言った。
マオがこんなに早く口を開くのは珍しい。みんなが振り向くと、マオは自分の立っている位置と的とアイカのいた場所を、指で順番になぞってみせた。
「私、ユズの右の後ろ。アイカが盾のすぐ横から出ると、的が隠れる。大きく出てくれると、私から的が見える」
ナツメが、ああ、と小さく声を上げる。
「最初のころ、アイカが前に出すぎて、マオが射てなかったことあったよね。あれから、アイカ、右のときだけ大きく回るようになった」
「…覚えてない」
アイカは本当に覚えていないらしかった。でもマオはこくりとうなずいた。
「アイカは、言わなくても直してくれた」
僕はアイカの手首とマオの的を交互に見た。
アイカの一歩目が大きいのは、ただの癖じゃなかった。マオが射てるように、四人の中で少しずつそうなっていった動きだ。だったら、その動きをやめてくれとは言えない。変えるなら、ブレスレットのほうだ。
それに工房で考えていた直し方の一つが、ここで消えた。留め金の位置を外側からずらせば、外へ回るずれには効くかもしれない。でも今みたいに腕に沿って上へ滑るずれには、留め金をどこへ回しても石ごと縁へ近づいてしまう。
ずれる方向が一つじゃない。
「左から回るときも、見せてもらっていい?」
アイカは黙ってユズの左側へ移った。ナツメの「左!」で、ユズが盾を右へ傾け、アイカが今度は盾の左脇へ回り込む。
一歩目は、さっきよりずっと小さかった。体を沈めすぎず、盾にほとんど肩を寄せるようにして抜けていく。左腕は後ろへ振られずに、胸の前で剣の柄に添えられたままだ。
編み帯は、手首の上でほとんど動かなかった。
「左は、大丈夫なんだ」
「左は、マオの射線と関係ないから」
ナツメが代わりに答えた。
「もう一回だけ、普通の速さで、右から回ってもらっていい?」
アイカは、今度は迷わずにうなずく。
ナツメの「右!」でユズが盾を傾け、アイカが大きく踏み出す。僕はさっきの場所から、手首だけを見ていた。左腕が後ろへ振られて、編み帯が滑り上がり、剣が振り抜かれて、腕が戻る。ブレスレットは縁をかすめるようにして、手首の元の位置へずり落ちてきた。
かすかに革と革のこすれる音がした。
地上の、普通の人の速さでこれだ。ダンジョンの中で倍の速さで、本当に拳を受けながら同じことをしたらどうなるのかは、ここでは分からない。それは来週の四層の練習で、アイカたちに確かめてもらうしかない。
でも少なくとも、ずれる方向が二つあることは分かった。外へ回るずれと、上へ滑るずれ。
途中で一度、休憩が入った。
ユズがベンチの僕の隣にどさりと座って、リュックからみかんを二つ出した。一つを僕の手に押しつけて、自分の分をむき始める。
「三灯原くん、退屈じゃない? 同じことばっかりで」
「全然。同じに見えて、毎回ちょっとずつ違うから」
「えー、どこが」
「ユズの足の位置とか。盾を傾けるとき、毎回半歩ずつ変えてるよね」
ユズはみかんの房を口に入れたまま、目を丸くした。
「…それ、ナツメにしか言われたことない」
反対側に、いつの間にかマオが座っていた。何も言わずに、ユズの手からみかんを一房取って食べる。ユズは「あっ」と言ったけれど、取り返そうとはしなかった。
練習が終わったのは、日が傾きかけたころだった。
ユズは盾を地面に置いてベンチに倒れ込み、マオは黙々と的から矢を回収している。ナツメは練習の記録をスマホに打ち込んでいて、指の動きがやたら速い。
アイカは少し離れたところで防具の締め具を外していた。
「おつかれ」
声をかけると、アイカは顔を上げて、それからまた手元に目を落とす。
「…うん」
「右から回るの、すごかった。マオのためだったんだね」
「…知らなかった」
「さっき、止めてもらったとき、嫌じゃなかった?」
「別に」
いつもより、さらに返事が短い。目も、ほとんどこっちを見ない。何度も同じ動きをくり返して、最後には近くでじっと手首を見られていたんだから、疲れて当然だ。
ベンチのほうから、ユズの声がした。
「三灯原くんさー、アイカの手首ばっか見てたよね」
「ブレスレットを見てたんだよ」
「知ってるけどー」
ナツメが無言でユズの盾を足で小突いて、ユズは「いたっ」と大げさに声を上げた。アイカは何も言わずに、締め具の金具を一つずつ外していた。
「疲れたでしょ。今日は、早く休んだら」
アイカは手を止めて、少しのあいだ黙っていた。それから小さくうなずいた。
「…うん」
それ以上は何も言わなかった。防具を袋にしまう指が、一度だけ止まって、また動き出した。
フェンスの出口で、アイカが一度だけ振り返った。
「来週、四層で、見てくる」
何を、とは言わなかった。でも、ブレスレットのことだと分かった。
帰り際、ナツメが僕の横に並んだ。
「来週の四層、何か見てほしいところある?」
「え」
「アイカのブレスレット。中で、どのくらいずれるか。私たちが見ておけることなら、見とく」
ナツメはあくまで事務的な口調だった。でも、それが本気の申し出だということは分かった。
「…右から回るとき、左手首。ブレスレットが、どこまで上がるか」
「了解。マオにも言っとく。あの子が一番よく見てるから」
ナツメはそれだけ言って、ユズを起こしにベンチへ戻っていった。
帰りのバスは、夕方の光でいっぱいだった。
窓際の席に座ると、ガラス越しに傾いた日差しが膝の上まで差し込んでくる。窓の外を、商店街の看板や、色づき始めた街路樹が流れていった。
目をつぶると、今日のアイカの背中が浮かんだ。ユズの盾の横から大きく踏み出して、柱の脇を抜けて、振り抜いた剣がぴたりと止まる。工房の丸椅子で、栗まんじゅうを半分に割っていたのと同じ手だとは、なかなか思えなかった。
あの手首に、僕の作ったブレスレットが巻かれている。
バスが揺れて、目を開けた。窓ガラスに、自分の顔がうっすら映っていた。
工房に戻ると、作業場にはもう作業灯が点いていた。
じいちゃんは脛当ての革を、型紙どおりに切り終えたところだった。僕が勝手口から入ると、顔だけ上げて「おかえり」と言った。
自分の作業台に座って、方眼紙を広げる。
今日見た右へ回り込むときのアイカの腕を、思い出しながら描いていく。前へ伸びる右腕、後ろへ振られる左腕、防具の縁、その少し先の手首。外へ回るずれを示す矢印を一本、上へ滑るずれを示す矢印をもう一本。
留め金を動かす案には、鉛筆で斜線を引く。位置を寄せるだけでは、今日見た上へのずれには効かない。
残る案は編み帯そのものを詰めて、ずれる幅を小さくすることだった。
でも、それにも心配がある。詰めすぎれば、長い探索のあいだに手首の骨を締めつけるかもしれない。第一、アイカは前に、詰めなくていいと言った。あの編み帯はアイカが毎日着けて、表だけ少しつやの出てきた編み帯だ。
だったら、いきなり本物を直すんじゃなくて、まず仮の帯で試せばいい。
引き出しの奥から、同じ平たい革紐の残りを出してみた。少し古くて、色も本物より浅い。
「それなら、表の棚に同じ革の新しいのがあるよ」
手元をのぞいたじいちゃんが言った。
「仮でも、本物と同じ革で編んでおかないと、着けたときの具合が変わってしまうからね。古い革は、伸び方が違う」
表の店の棚から、新しいレザーレースの束を一つ持ってくる。本物と同じ色で指で曲げると、まだ少し硬い。
本物より一目ぶん短く。もう一本、二目ぶん短く。二本編んでどちらがずれにくくて、どちらが苦しくないか、アイカに着けて比べてもらう。
折り返した革紐を指に掛けて、最初の一目を編む。外側の一本を隣を越えて内側へ。表のなめらかな面が上に来るように、指先でひねりを直す。
奥でじいちゃんが鋏を置く音がした。
「二本、比べてみるんだね」
「うん。本物は、まだ触らない」
じいちゃんはそれ以上は何も聞かなかった。
麦の穂みたいな編み目が、作業灯の下で、一つずつ伸びていく。




