第十五話 最初から、気に入ってた
十月も終わりに近い日曜の朝は、勝手口の外の路地で吐く息がうっすら白く見えるくらい冷えていた。向かいの家の柿はもうすっかり熟れて、枝の先で鳥につつかれている。
アイカがその勝手口を叩いたのは、九時を少し過ぎたころだ。
昨日は四人で四層へ潜ってきたはずだ。目の下にうっすら影があって、肩口のボブの毛先が寝癖のまま一房だけ外へはねている。いつもの丸椅子に座ると、アイカは前置きもなくスマホの画面をこちらへ向ける。
ナツメからのメッセージで、昨日の練習の記録が、いつもの細かい字でびっしり並んでいた。
「右から回るたびに、上へ滑ってた。ほとんど毎回」
アイカが画面の一か所を指でなぞる。
「マオが、後ろからずっと見てた。肘のほうへ、指二本くらい上がるって。外に回るほうは、あんまり目立たなかったって」
指二本。地上の練習場で見たときは防具の縁をかすめる程度だった。中では体の速さも踏み込みの深さも違うから、ずれが大きくなるのは分かっていたつもりだったのに、マオが見ていたずれの大きさを聞くと、腕の中で何かがひやりとした。
「当たった?」
「当たった。何回か、かちって」
アイカはそこで少し黙って、それから付け足す。
「痛くはない。でも一回、気になって、剣が遅れた。ナツメに言われた」
剣が遅れた、という言葉は、ブレスレットが当たったことよりずっと重く聞こえた。四層ならまだいい。でも十層で巨腕猿の拳の前で一拍遅れたらどうなるのか。
「ありがとう。教えてくれて」
「お礼は、ナツメとマオに言って」
アイカはスマホをしまうと、左の手首に右手を添える。
「それで。仮の帯、できてる?」
作業台の端から、二本の編み帯を取ってくる。先週の夜から少しずつ編んで昨日のうちに仕上げておいた。どちらも本物と同じ新しい革で、一本は本物より一目短く、もう一本は二目短い。並べてみるとその差は指先ほどしかないのに、手に取ると別のものに見えた。
「石と留め金を、こっちに付け替えて試したい。だから、ちょっとだけ、預かってもいいかな」
アイカの手が手首の上で止まる。
このブレスレットがアイカの手首を離れるのは、たぶん渡したあの日から初めてだ。アイカは編み帯の上を指でなぞって留め金に指をかけ、そこでまた止まった。
「…石神様も」
「え」
「石神様も、預けることになる」
そうか、と思った。僕にとっては石と留め金でも、アイカにとってはその中に誰かがいる。
アイカは手首を顔の前まで持ち上げて小さな声で何か話しかけ、少し待ってからうなずいた。返事があったのかどうか、僕には分からない。
アイカは留め金を外して、ブレスレットを両手で僕の手のひらに載せる。石はまだアイカの体温でぬるかった。
「三時に、また来る。ナツメの家で、昨日の反省会」
「うん。それまでに付け替えとく」
勝手口が閉まると、手のひらの上のブレスレットが急に重く感じられた。
作業台に布を敷いて、その上にそっと置く。まずは編み帯を石から外さなければならない。楕円の両端に横から開けた穴に、帯の折り返しの輪が一つずつ通してある。細い目打ちで輪を少しずつ緩めて、穴の縁を擦らないように輪をくぐらせて抜いていく。
片側が外れると石が布の上でころんと転がって、慌てて指で押さえた。中に石神様がいるなら、今のは目が回ったかもしれない。
留め金は帯の端に小さな金具の輪で留めてある。先の細いやっとこで輪の切れ目を少しだけ開いて、留め金を外す。蹴彫りの波模様にやっとこの先が触れないよう、布を一枚かませた。
表の店が開くのは十時ちょうどだ。
サキさんが予約の帳面をめくる音がして、しばらくすると引き戸の向こうから聞き慣れない声がする。低くて少しかすれた、女の人の声だ。
「親方、ご無沙汰しています」
「おや、お久しぶりです。三年ぶりになりますかね」
じいちゃんの声がいつもより明るい。
お茶を運んでいくと、応接のソファには白髪を短く刈り込んだ女の人が座っていた。六十は過ぎているだろうか。日に焼けた顔に深いしわが刻まれていて、背筋がまっすぐに伸びている。テーブルの上に布にくるんだ籠手が一組置かれている。
布がほどかれると、僕は思わず息を止める。
黒い革はもう黒というより焦げ茶色に近かった。何十年分もの油と汗を吸って、表面がしっとりとした艶を帯びている。手の甲を覆う金属の板には細かい傷が地図みたいに走っていて、そのうちの一枚には斜めにひびが入っていた。縁に埋め込まれた魔石は、ずいぶん小さくすり減っている。
「二十年近く前に、親方に作っていただいたものです」
このお客さんは昔、東京のほうの深い迷宮に夫婦で潜っていたらしい。旦那さんが引退してからは若い人たちのパーティーに頼まれて、ときどき一緒に潜っているのだと、サキさんがあとで教えてくれた。
お客さんは籠手の甲を指先でなでる。
「さすがに、もう替えどきだって、息子にも言われましてね。メーカーの新しいのも試してみたんですよ。軽いし、硬いし、文句のつけようがない。でも」
お客さんは自分の右手を握ったり開いたりしてみせる。
「剣を握ると、指の内側が落ち着かないんです。新しいのは、どこにも当たらない代わりに、どこにも手が当たらない。こっちは、手のほうが中の形を覚えてるんですよ。だから、これを直していただけないかと思って」
じいちゃんは籠手を両手で受け取って、ひびの入った板を光にかざした。それから籠手を裏返して内側の革に指を入れ、指の腹でゆっくりと内側を探っていく。親指の付け根のあたりで、指が止まった。
「ここが、ずいぶん薄くなっていますね」
「ああ、そこは」
「剣を握るときに、親指の付け根で柄を押し込む癖がおありだ。二十年前にお作りしたときより、少し深く押し込んでいらっしゃる」
お客さんは目を丸くして、それから声を出して笑った。
「歳を取ると、握力が落ちますから。それを、押し込んで補ってるんでしょうね。自分じゃ気づかなかった」
じいちゃんは籠手の内側に手のひらを当てて、目を細める。魔力を流しているのだろう、ずいぶん長い時間だった。
「ひびの入った板は、替えましょう。縁の魔石も、もう限界です。新しいものに入れ替えます。ただ」
じいちゃんは内側の革をもう一度なでる。
「この内張りは、残します。継ぎを当てるのは、親指の付け根の薄くなったところだけにしましょう。ここまでお客さんの手の形になっている革を、新しくしてしまうのはもったいない」
「そうしていただけると」
お客さんはそれ以上は言わなかった。でも、膝の上で組んだ両手の指が、ほっとしたみたいに少しほどけた。
修理には一日では足りないらしい。それでもじいちゃんは、お客さんが帰ったあと、すぐに作業台へ籠手を広げた。
ひびの入った板を外して、その下の革に彫られた回路をルーペで一本ずつ確かめていく。二十年分の汗で溝の何本かは浅くなっていた。じいちゃんはいちばん細い彫刻刀を取って、浅くなったところだけを元の深さまでそっとなぞり直していく。新しい溝を彫るんじゃない。もとからある溝の、すり減った分だけを戻しているのだ。
僕は横で外した板を受け取ったり、筆で粉を払ったりしていた。
途中でじいちゃんに言われて籠手の内張りを裏返しに押さえたとき、指先にその革の形が伝わってきた。内側には五本の指の腹の場所が、うっすらとくぼみになって残っている。試しに自分の指を重ねてみると、どの指もくぼみから少しずつずれた。僕の手の形じゃない。二十年分あのお客さんの手だけが押してきた形だ。
「シンジ、検査機を」
弁当箱くらいの検査機の端子を、なぞり直した溝の両端に当てると、小さなランプが点いた。
じいちゃんはランプを確かめてから、それでも端子を外して自分の手のひらを溝の上に置く。目を細めて、しばらく動かない。
「うん」
それだけ言って、次の溝へ移る。
ランプが点いたあとで、じいちゃんは必ず自分の手でも確かめる。昔から、ずっとそうだ。
昼を過ぎると、じいちゃんは新しい板を切り出す作業に移る。僕は自分の作業台に戻って、乳鉢を出した。
アイカがくれたスライムの核を、小袋から二つ出して乳鉢に入れる。乳棒を当てて体重をかけると、粒は思ったより簡単にぱりんと割れた。中は外側よりも色が濃くて、深い赤がのぞいている。
割れたかけらを少しずつすり潰していくと、ごりごりという音が、じいちゃんの金属を切る音に混じる。
十分ほどで核は細かい粉になった。乳鉢の底で紅色の粉がかすかに光っている。指先でつまむとさらさらしていて、作業灯の下で小さな星みたいにきらきら瞬いた。
次は粘液だ。ジャムの空き瓶の蓋を開けると、ほとんど匂いのないとろりとした液体が瓶の中で揺れた。小さな器に少しだけ取り分けて、そこへ紅色の粉を耳かき一杯ぶん落とす。
竹べらでゆっくり混ぜると、粉は粘液の中でいったん沈んでからゆっくり散っていき、透明だった粘液がほんのり桜色に染まった。
これをいきなり狐に塗るわけにはいかない。狐はまだ毛並みも半分で目も入っていないし、緒締玉も球になりきっていない。
かわりに牙の削り落とした端材を一つ取った。親指の先くらいのかけらで、表面には練習で彫った線が何本か走っている。そこへ、筆の先で桜色の粘液を薄く塗った。
塗った直後はただ濡れて見えるだけだった。二十分ほど待つと、表面が乾いて薄い膜になる。作業灯の下でかけらを少し傾けてみた。
膜の奥で紅色の粒がちらりと光った。
傾けるたびに光る場所が少しずつ移っていく。ラメを薄く溶かしたみたいな、かすかな煌めきだった。膜は思ったより透明で、下に彫った線が一本も埋もれずに見えている。
もう一度傾けると、乳白色の地肌の上を、紅い光の粒が細い波のように渡っていった。
狐の毛並みに塗ったら、どう見えるんだろう。
「きれいだね」
いつの間にか、じいちゃんが板を切る手を止めて、こちらを見ている。
「スライムの膜は、樹脂より柔らかい。そのぶん、厚く塗ると、細い線の角が丸くなってしまうよ。薄く、何度かに分けてごらん」
「うん」
言われてもう一度かけらを見ると、塗りが厚かったところだけ、線の縁がぼんやりしていた。
別の端材に、今度は筆の先をほとんど湿らせる程度にして薄く一回だけ塗る。乾くのを待って、もう一回。二回重ねたほうは線の角がちゃんと立ったまま、膜の奥の紅い粒だけがさっきより細かく散って見えた。こっちのほうがいい。
かけらを作業台の端に置いて、僕はブレスレットのほうへ戻った。三時までに石と留め金を付け替えなければならない。
付け替えの合間に、作業台の端の狐を手に取ってみた。背中の親指が当たる場所には、先週描いた小さな丸がある。ここには膜をいちばん薄く、でも何回も重ねたほうがいいのかもしれない。
勝手口が鳴ったのは、三時を十分過ぎたころだった。
アイカは丸椅子に座るより先に、作業台の上の二本の帯に目をやった。一目短いほうには灰色に少し緑の石と波模様の留め金を付けてある。二目短いほうはまだ帯だけだ。石は一つしかないから、一本ずつ付け替えて試すしかない。
「二目のほうから、着けてみて」
石と留め金を二目短いほうへ付け替えて、アイカの左手首に巻く。留め金を留めるのに、少し力が要った。
「…きつい」
アイカが手首を回すと、眉がわずかに寄る。
「骨のとこ、当たる」
手首の外側の骨が出っ張ったあたりに、石のドームの縁がぴったり押しつけられている。ずれはしないかもしれないけれど、これを一日じゅう着けて潜ったら骨が痛くなる。
二目短いほうはすぐに外した。
もう一度石を付け替えて、一目短いほうを巻く。留め金は指先で軽く押すだけで留まった。
「どう?」
アイカは手首を回して、曲げて、反らせて、それから少し考えた。
「当たらない。でも、前より、ぴったりしてる」
「苦しくない?」
「苦しくない」
アイカは丸椅子から立ち上がって、作業場の真ん中に出た。防具は持ってきていないけれど、ずれの大きさなら防具がなくても見られる。
右手を剣の柄の形にして左手を下に添え、右へ大きく一歩踏み出す。左腕が後ろへ振られて、編み帯が手首の上でわずかに浮き、また戻った。
「…上がってない」
アイカが自分の手首を見下ろす。
「上がってはいる。でも、さっきまでの半分くらい」
完全には止まらない。それでも、これなら昨日みたいに指二本ぶんも滑ることはないかもしれない。
もう一度、今度は普通の速さで試してもらう。
左腕が後ろへ振られて編み帯がわずかに上へ滑り、腕が戻ると一緒に元の位置へ戻ってきた。地上の練習場で見たときより、ずっと小さな動きだった。
「ちょっと、留め金の向き、見せて」
アイカに手首を差し出してもらって留め金の位置を確かめる。一目短くした分、石と留め金の間隔も縮んでいた。留め金を指でつまんで、甲の側からわずかに回してみる。
「この石さ」
手を動かしながら、何の気なしに口が動いた。
「河原で拾ったとき、アイカに似合う色だなって思って、拾ったんだ」
言ってから、手が止まった。今、何を言った。
アイカは何も言わずに、自分の手首を見下ろしている。灰色に少し緑の石を見つめる目が、ゆっくり何度か瞬きをした。
作業場が静かになって、奥でじいちゃんが金属の板にヤスリを当てる音だけが続いている。
「…最初から」
アイカが小さく言った。
「最初から、気に入ってた」
石の上に右手の指先を置く。
「毎日、着けてた。外したの、今日が初めて」
それだけ言って、アイカは手首を胸のほうへ引き寄せた。僕の指から、留め金がするりと離れた。
何か返さなきゃいけない気がするのに、言葉が一つも出てこない。僕は自分の手を作業台の上に置いた。
「…知ってた。毎日、着けてるの」
やっと出てきたのは、そんな言葉だった。
アイカは手首を胸に引き寄せたまま、ちらっとこっちを見て、すぐに窓の外へ目をそらした。耳がほんのり赤かった。
「一目のほうで、いく」
僕は二目短い帯を作業台の端へ寄せる。
「でも、まだ完全には止まってない。もうちょっと詰めたいとこがある。あと一週間だけ、こっちで着けてみてくれないかな。普段の日も、練習の日も。それで、どうだったか教えて」
「本物は?」
アイカが作業台の上の、石の外れた本物の編み帯を見た。表だけ少しつやの出た、アイカが毎日着けていた編み帯だ。
「僕が預かってていい? まだ、切ったりしない。どう直すか決まるまで、そのまま取っとく」
アイカは少し考えて、うなずく。
「…石神様は、こっちにいる」
アイカは一目短い帯の上の石を指でとんとんと二回叩く。
「さっき、帰ってきた。寝てる」
それから、立ち上がる。
「来週、また来る」
勝手口が閉まる。
僕は作業台の上の本物の編み帯を手に取った。石も留め金も外れて、ただの革の帯になっている。麦の穂みたいな編み目は渡したときのままきれいに揃っていて、表の側だけがアイカの手首の形に、ほんのわずかに丸く癖がついていた。
お客さんの籠手の、内張りの革を思い出した。
本物の編み帯を狐の隣にそっと置く。それから、乾いた端材のかけらをもう一度手に取って、作業灯の下で傾けた。紅い光の粒がまた細く渡っていった。




