第十六話 狐が、こっちを見た
十一月に入って最初の日曜は、朝から空が高く晴れていた。
路地の向かいの柿はほとんど鳥に食べ尽くされて、枝の先に二つ三つ残っているだけになった。作業場の窓を開けると、冷えた空気と一緒にどこかで焚いている落ち葉の匂いがかすかに入ってくる。砥石を濡らす水はもう指先が痛くなるくらいに冷たかった。
アイカが勝手口を叩いたのは、十時を少し過ぎたころだった。
厚手のパーカーの袖口から、一目短い仮の帯がのぞいている。灰色に少し緑の石と波模様の留め金は、一週間前にここで付け替えたままだ。アイカは丸椅子に座ると、左手首をそっと作業台の上に置く。
「一週間、着けてた。普段は苦しくない。寝るときも外さなかった」
アイカはそこで少し考えるようにしてから、続けた。
「昨日、四層で練習した。上に滑るのは、ほとんどなくなった。当たったのは二回だけ。前は、右から回るたびだったのに」
二回。帯を詰めたのは、無駄じゃなかった。ほっとしかけたところで、アイカが手首を軽くひねってみせた。石のドームが甲の側からわずかに外へ回る。
「こっちは、まだ回る。当たったのは二回とも、これだったってマオが言ってた」
上へ滑るずれは帯を詰めたことで抑えられた。外へ回るずれは帯の長さとは別のところから来ているらしい。
僕は作業台の引き出しから、本物の編み帯を取り出す。石も留め金も外れたまま、一週間ここで待っていた帯だ。表の側にはアイカの手首の形に丸い癖がついていて、毎日着けていた革の表だけがつやを増している。
これを新しく編み直すつもりは、最初からなかった。
留め金の輪が付いていた側の端を、指でそっと持つ。最後の三目くらいなら、ほどいても手首に馴染んだところには触らずに済むはずだ。目打ちの先でいちばん端の編み目を起こすと、四本の革紐が一本ずつ互いの下から抜けていった。
新しい革紐は使わない。ほどいた四本の端をそのまま使って、一目ぶん短くなるように編み直していく。一週間ほどけていた革はまだ編み目の癖を覚えていて、指で折り返すと、もとの形へ戻ろうとするみたいに素直に曲がる。外側の一本を隣の上から内側へ渡し、表のなめらかな面が上に来るように指先でひねりを直していく。
最後の一目を締めて、余った端を裏へ折り込む。編み直した三目ともとからある編み目の境目で、革のつやがかすかに違って見える。指でなぞっても、境目はどこにも引っかからない。
「端だけ、直すの?」
いつの間にか、アイカが作業台の上をのぞき込んでいた。
「うん。真ん中は、アイカの手首の形になってるから。そこは、そのまま」
アイカは何も言わずに境目を見つめてから、帯の真ん中のあたりを指の先でそっと押した。毎日、自分の手首に当たっていた場所だ。
「…ここ、私の形になってる」
「だから、残した」
アイカは指を離して、膝の上で手を組む。
次は石だった。楕円の両端の穴に、帯の折り返しの輪を一つずつ通していく。前はこの輪に遊びを持たせて、石が手首の上で少し動けるようにしていた。それが外へ回るずれの元になっている。
輪を通したあと、その根元を細い革紐で一巻きだけ締め直す。遊びを全部なくすのではなく、指で押せば石がほんの少し傾くくらいは残しておく。手首を曲げたときに石まで突っ張ってしまったら、今度はそこが痛くなる。
両側の輪を締め終えると、留め金を帯の端の金具に戻して、やっとこの先に布をかませて輪の切れ目を閉じる。
「じいちゃん、見てもらえる?」
奥で先週のお客さんの籠手の新しい板を磨いていたじいちゃんが、手を止めてこちらへ来た。ブレスレットを手に取ると、帯の端の編み直したところを指でなぞり、それから石の両側の輪の根元を爪の先で軽く押す。
「うん」
それだけ言って、ブレスレットを僕の手のひらに戻す。
アイカの左手首に本物の帯を巻くと、留め金は指先で軽く押すだけで留まった。アイカは手首を曲げて反らせて、回してみる。
「…前と同じ。でも、前よりぴったりしてる」
アイカは紙袋から前腕の防具を出して左腕に着け、作業場の真ん中に出た。右手を剣の柄の形にして左手を下に添え、右へ大きく一歩踏み出す。左腕が後ろへ振られても、編み帯は手首の上でほとんど動かない。
もう一度、今度は普通の速さで。踏み込んで受け流して、手首がくるりと内へ返る。
鳴らなかった。
三回、四回、五回とくり返しても、かちっという音は一度もしない。止まってもらって手首をのぞき込むと、石のドームは甲の側に座ったままで、留め金も防具の縁から指が一本と半分入るくらい離れていた。
「…ここでは、もう鳴らないね」
「ここでは」
アイカがくり返す。
「中で何時間も潜ったら、また違うかもしれないから。そのときは、また教えて」
「うん。ナツメとマオにも、見ててもらう」
アイカは防具の縁から手首を少し離すと、左腕を胸の前に上げて、一度だけ目をつぶった。
音もなく、アイカの腕の前に石の板が立つ。あの日この作業場で初めて見たのと同じ、灰色のざらついた板で、表面にはブレスレットの石と同じ細い線がうっすら走っている。
あのときは目の前のものが信じられなくて、ただ見ていることしかできなかった。今は板の線の向きが石の波紋の向きと揃っているのが分かる。分かったところで、どうしてこんなものが出るのかはやっぱり見当もつかないけれど。
アイカが腕を下ろすと、板は砂になって崩れ、床に落ちる前に消える。
「今の、見えた?」
「見えた。壁だけ」
「…石神様、いる」
アイカは手首を見下ろして小さく息を吐くと、石の上を指先で二回だけ叩いた。
「付け替えのあいだに、どこか行っちゃってたらどうしようって、ちょっと思ってた。今、ころころ言ってる」
何を言っているのかは、アイカにも分からないらしい。それでも、アイカの口の端はほんのり上がっていた。
アイカが帰ったあと、ポケットのスマホが震えた。オークションサイトの取引メッセージで、あの木の葉のイヤリングの人からだった。
『ご無沙汰しております。近況だけ、少しお伝えしたくて。木枯らしの神様と、仲間と一緒に、相変わらず探索を続けています。イヤリングは、普段の日にも毎日着けています。これからも大切に使います。』
短い文章なのに、毎日という一言が画面の上で大きく見えた。あの飴色の木の葉は、知らない誰かの耳元で知らない街の朝を毎日迎えているらしい。右側の葉脈の、太くなりかけた一本も一緒に。
『お知らせいただきありがとうございます。毎日着けていただけていると伺って、とても嬉しいです。どうかお気をつけて。SHIN』
送信してスマホを伏せると、作業台の上で、狐がまだ背中の半分だけに毛を生やしてうずくまっていた。
その週の放課後はほとんど全部を狐に使った。
月曜の昼休み、ユズに「三灯原くん、目の下にクマできてる」と言われた。ナツメが横から「寝不足の顔」と付け足し、マオは黙って自分の弁当の唐揚げを一つ、僕の弁当箱の蓋に載せていった。アイカは教室では何も言わなかったけれど、放課後の昇降口で「無理しないで」とだけ言って先に帰っていった。
月曜と火曜で背中の残り半分と尾の毛並みを彫り終える。肩の先で向きを変えた毛が、前脚の外側へ流れていく。前脚の内側には鞠を抱える指の形を彫り、爪の一本一本まで刃先で小さく刻んだ。
火曜の夜、右の前脚の爪を彫っているときに刃先が層に引っかかって、爪の脇に細い傷が一本走った。息が止まる。ルーペでのぞくと傷は浅くて、回路の溝とはつながっていなかった。爪の形をほんの少し細く彫り直して、傷を爪の輪郭の中へ取り込む。直したあとの爪は最初に彫ろうとしていた形より、かえって狐らしく見えた。
水曜は鞠だった。かがり糸が鞠の表面で菱形を描きながら何重にも交差していて、その糸の一本一本が前脚から渡ってきた回路の続きになる。いちばん細い彫刻刀で、糸の重なりを一段ずつ彫り分けていく。
通りがかったじいちゃんが一度だけ鞠をのぞいて、「糸の重なりが、ちゃんと上と下になっているね」と言った。糸が交差するところでは線がわずかに詰まって、魔力を流すと流れがもたついた。刃を寝かせて交差の手前の溝をほんの少し広げると、今度はすっと抜けていった。
木曜には緒締玉を仕上げる。立方体の角を落とし辺を落として少しずつ球に近づけていく作業は、この二週間毎晩続けてきたものだ。最後は目のいちばん細かいヤスリで表面を均して、布で磨く。深い青の球の中で、作業灯の光が何重にも折れて丸く揺れた。
表面には狐の毛並みと同じ向きの細い線をぐるりと彫り込む。真ん中には紐を通す穴を開ける。いちばん細いビットに水を差しながらほんの少し進めては止め、ルーペで穴の縁にひびが入っていないか確かめる。反対側まで抜ける直前は、息を止めていた。抜けたとき、青い球の中を細い光の筋が一本まっすぐ通っているように見えた。削った青い粉は全部紙の上に集めておいた。
残った問題は紐だった。緒締玉と狐は別の部品で、緒締玉に流した魔力を狐の体まで渡さなければならない。ただの紐では、魔力はうまく渡ってくれない。
「魔物の腱を撚った紐なら、通るかもしれないね」
じいちゃんがそう言って、工具棚の下の引き出しから乾いた腱の束を出してくれる。弓の弦を作るときに使う、細く裂いた腱だという。飴色に乾いていて、光にかざすと少し透ける。どの魔物のものかは、じいちゃんも覚えていないらしかった。
まずは一本のまま緒締玉の穴に通して、反対の端を狐の紐穴に通してみる。緒締玉に指を当てて魔力を流すと、通ることは通るけれど、細い。狐の背中まで届く前に、途中で薄くなってしまう。
二本を撚り合わせると、いくらかよくなる。三本を撚ると、緒締玉から狐の紐穴まで流れが途切れずに渡っていった。
調子に乗って三本をきつく撚り直してみたら、今度は流れが妙に硬くなった。通るには通るのに、紐の途中で一度詰まって、それから押し出されるようにして狐へ渡っていく。撚りを少しゆるめてもう一度流すと、紐の中を流れが柔らかく通っていった。
金曜の夜、最後に残っていたのは狐の目だった。
作業灯を近づけて、いちばん細い彫刻刀を取る。目が入ると、そこから先は狐の顔色をうかがいながら彫ることになる。じいちゃんはそう言っていた。だから、目は最後にとっておいた。
顔の、目のある場所に刃先を当てて、そっと押し込む。小さな細い切れ込みが一つ。もう片方にも同じように。
狐が、こっちを見た。
さっきまでうずくまっていただけの牙の塊が、前脚で鞠を抱えたまま細い目でこちらを見上げている。僕はしばらく、彫刻刀を持ったまま動けなかった。
「いい顔だね」
いつの間にか、じいちゃんが後ろに立っていた。湯のみを片手に狐の顔をのぞき込んでいる。
「目を入れたら、もう狐の言うことを聞かないといけないよ」
じいちゃんはそう言って笑うと、湯のみを持ったまま居間へ上がっていった。
それから、スライムの保護材を作る。乳鉢で紅色の核をすり潰して粘液に混ぜ、筆の先をほとんど湿らせる程度にして狐の背中から薄く塗っていく。乾くのを待ってもう一度。親指が当たる背中の小さな丸を描いた場所には、さらにもう一度だけ重ねた。
乾いた膜は透明で、細い毛並みの一本も埋もれていない。作業灯の下で傾けると、乳白色の背中の上を紅い光の粒が細く渡っていった。
最後に検査機の端子を緒締玉と鞠に当てると、小さなランプが点く。それから自分の指を緒締玉に当てて、魔力を流す。
青い球から、撚った腱の紐へ。紐から狐の紐穴へ入って背中の毛並みを流れ、肩の先で向きを変えて前脚へ。前脚から鞠へ渡ると、かがり糸の菱形の中を何重にも巡っていく。
どこにも、詰まりはなかった。
でも、ここまでだ。鞠のところで本当に膜が広がって、僕の体のまわりに防護の膜が張るのかは、この工房では確かめようがない。魔道具としての効果は、ダンジョンの中でしか出ない。
土曜の昼、アイカが勝手口を叩く。本物の帯の具合をもう一度見せに来てくれたのだ。
ちょうどお茶を持ってきたサキさんが、作業台の上を見て「まあ」と声を上げる。
「狐さん。シンジくん、これ自分で彫ったの? かわいいわねえ。目がきりっとしてる」
サキさんが表へ戻ったあと、アイカは丸椅子に座るのも忘れて作業台をのぞき込んだ。
「…目、入ってる」
「昨日の夜、入れた」
アイカは狐の顔をしばらく見つめてから、鞠を抱える前脚と、背中を渡る紅い光に目を移した。
「持ってみていい?」
うなずくと、アイカは狐を両手で包むようにして持ち上げた。手のひらの上でそっと傾ける。背中の紅い光がアイカの指のあいだを細く渡っていった。
「重い」
「牙だから。石よりは軽いけど」
「…でも、手に収まる」
アイカはしばらく狐を手のひらに載せたままでいて、それから、緒締玉の青い球を指先でころりと転がした。
「できたの?」
「工房でできることは、全部やった。でも、本当に動くかは、中で試さないと分からない」
僕は緒締玉を指でつまんで、狐を手のひらに載せる。
「浅い層で、試してみたい。一層か二層くらいで。ちゃんと膜が張るのか、どのくらい防げるのか」
アイカは狐から目を離さないまま、少しだけ考えた。
「じゃあ、一緒に行く」
それだけだった。
奥の作業台でじいちゃんが顔を上げる。何も言わなかったけれど、鋏を持つ手は、しばらく止まったままだった。




