第十七話 無事に、帰ってきて
日曜の朝、作業場で靴紐を結んでいると、奥の作業台からじいちゃんの声がした。
「二層まで。昼には戻る」
「うん」
「無理だと思ったら?」
「帰還用のポータルで戻る」
「それから?」
「アイカの言うことを聞く」
じいちゃんは籠手の板から目を上げずに、ゆっくりうなずく。
「うん。それなら行っておいで」
それだけだった。昨日、狐を見せたときに止まっていた鋏は、今朝はいつもどおりの速さで革を切っている。それでもいつもなら「気をつけてね」で済むところを、今日はわざわざ一つずつ確かめるように聞いてきた。
ズボンのベルト通しには、腱を撚った紐で狐を留めてある。本体は右のポケットに入れて、青い緒締玉だけがポケットの口のあたりで小さく揺れていた。歩くたびに腿のあたりで狐の重みがかすかに動く。
勝手口を開けると、アイカがもう路地で待っている。胸当てに新しい前腕の防具、腰には剣といういつもの探索の格好だ。左手首には端だけ編み直した本物のブレスレットが巻かれている。工房の丸椅子に座っているときより、背が高く見えた。
「行こ」
それだけ言って、アイカは先に歩き出す。
バスの中でアイカはほとんどしゃべらなかった。窓の外を流れる商店街を眺めながら、ときどき左手首の石を指でなぞっている。僕のほうは膝の上に置いた手のひらが、いつの間にか汗ばんでいた。ダンジョンに入るのは、中学の授業以来だ。あのとき一層の曲がり角で、角ウサギ一匹に足がすくんだことを、バスが揺れるたびに思い出した。
横浜迷宮の管理棟は、日曜の朝からもう人でいっぱいだった。ゲートの手前で、僕はポケットから探索者のカードを出した。中学の授業のときに作ったきりで、昨日の夜に机の引き出しの奥からやっと見つけたものだ。写真の中の僕は、今よりずっと顔が丸い。アイカがそれをのぞき込んで、何も言わずに口の端だけで笑った。
換金所の電光掲示板の前を抜けてゲートでカードをかざすと、ぴっ、と軽い音がする。石の門をくぐって入口の階段を下りきったところで、ひんやりした空気が肌に貼りついた。
湿った石の匂いがする。切り石を隙間なく積んだ通路にライトが等間隔に並んでいて、壁のすり減った模様は通る人の手でなでられてつるつるになっている。中学のときと、何も変わっていない。
隣でアイカが軽く肩を回す。ゲートを抜けた瞬間から、アイカの動きが変わったのが分かる。足の運びが軽くて、立っているだけなのにいつでもどこへでも跳べそうに見えた。
僕のほうは何も変わらない。魔物をほとんど倒したことのない体は、地上と同じ重さのまま、石の床を踏んでいた。
「シンジは、私の左。前に出ないで」
「うん」
一層はほとんど散歩だった。すれ違う高校生のパーティーが、アイカに軽く手を挙げていく。アイカは挨拶を返しながらも歩く位置をほんの少し僕の前へずらして、曲がり角のたびに先をのぞいた。分かれ道ごとの金属の札を確かめて二層への階段を下りると、真ん中だけ靴に削られてくぼんだ石段で、手すりの鉄パイプが冷たかった。
二層に下りるとライトの間隔が広くなって、壁の継ぎ目から水がにじんでいた。アイカは少し奥まで進んで、人の通らない小さな広間を見つける。柱が四本立っているだけの天井の低い部屋で、入口にライトが一つあるだけで、奥のほうは薄暗い。
「ここ。誰も来ないと思う」
アイカは入口のほうを向いて立ち、通路の気配を一度だけ確かめてから、僕を振り返る。
「やってみて」
右のポケットの口に指を伸ばして、緒締玉に触れる。ひんやりとした深い青の球に、工房で何度もそうしたように少しずつ魔力を流していく。
青い球から撚った腱の紐へ。紐からポケットの中の狐の紐穴へ入って背中の毛並みを流れ、肩の先で向きを変えて前脚へ。前脚から鞠へ渡って、かがり糸の菱形の中を巡っていく。
工房では、そこで終わっていた。
今日は、その先があった。
鞠の中を巡りきった流れが、ふっと外へ開く。ポケットの布の向こうから、何かが僕の体の表面をなでるように広がっていく。腿から腰へ、胸へ、腕の先へ、首のまわりへ。冷たくも温かくもない、薄い水の膜をまとったような感覚だった。
アイカが目を細める。
「…見える」
顔の前に手を上げてみると、手の甲のすぐ上で空気がかすかに揺らいでいた。夏の道路に立つ陽炎みたいな揺らぎの中を、ごく薄い紅い粒がときどき細く走っていく。狐の背中で見た、あの紅い光と同じ色だ。
張った。工房では確かめようのなかったものが、今、僕の体のまわりにある。
「…動いた」
声が少しかすれていた。アイカは何も言わずに、僕の手の甲の上の揺らぎを見つめている。それからそっと人差し指を伸ばして、揺らぎの縁に触れた。
「…押し返される。水の中で、手を押したみたい」
アイカの指先が触れたところで紅い粒がいくつか集まって、ふっとほどけた。アイカは指を引っ込めて、自分の指先をじっと見ている。
「叩いて、みてくれる?」
アイカは剣を抜きかけて、手を止める。
「本当に、いいの」
「軽くから。だめだったら、すぐ言う」
アイカは剣を抜いて、刃を寝かせる。剣の腹で僕の左の肩をほんの軽く叩く。触れたはずの感触が、触れる直前で柔らかく散った。叩かれたのは分かるのに、剣の重さが肩に乗ってこない。揺らぎの中を紅い粒がさっと広がって、すぐに消える。
「どう?」
「…叩かれた感じがしない。触られた、くらい」
アイカは小さくうなずいて、もう一段、それからもう一段と強めていく。四回目で肩がわずかに押された。それでも痛くはない。押された力が肩の一点に集まらずに、体の表面全体へ広がって薄まっていく。紅い粒は叩かれた場所のまわりほど濃く集まっていた。
「まだ、大丈夫」
「本当に?」
「本当に。もう少し強くても平気だと思う」
アイカは剣の握りを一度直して、腰を少し落とした。今度は剣の腹ではなく柄の先で、胸当てのない僕の胸の真ん中を突く。どん、と体の芯に重さが来て、一歩後ろへよろける。でも、骨に響く痛みはない。紅い粒が胸のあたりで一度に散って、ゆっくり消えていく。
「…大丈夫?」
アイカの声がさっきより硬い。
「大丈夫。押されただけ」
剣の腹で腕を、柄で肩を、また胸を。七回目、八回目と、少しずつ強さを上げてもらう。膜はそのたびに衝撃を散らして、僕の体には押される力だけが残った。
途中でアイカがふと自分の左手首に目を落とした。
「石神様、出てきてる。シンジのほう、じっと見てる」
「…何か、言ってる?」
「分かんない。でも、紅いのが光るたびに、体を伸ばしてる」
僕には何も見えない。アイカの手首の上に親指の先くらいの灰色の丸いのが座って、こっちの膜を眺めているところを想像するしかなかった。
十回目を過ぎたあたりで、息が上がっているのに気がつく。
叩かれるたびに緒締玉から流している魔力がぐっと持っていかれる。その分を指先から足していくうちに、叩かれていないあいだも膜を保っているだけで、細く少しずつ流れ出ていることが分かってきた。工房では回路を確かめるために一瞬流して、すぐ止めていた。今はそれを流しっぱなしにしている。
額に汗が浮いて、指先が冷たくなってきた。
「…シンジ」
「次、いいよ。最後、本気に近いので」
アイカは少し迷ってから、剣を両手で構え直す。柄を握った手にさっきまでとは違う力が入る。
「加減する。でも、強いよ」
「うん」
アイカが踏み込む。工房で見たのとも、練習場で見たのとも違う速さだった。剣の腹が僕の左の肩口に横から叩きつけられる。
膜が一気に紅く光って、衝撃が体の表面を波みたいに広がって散っていく。それでも散りきらなかった力に押されて、僕は二歩、三歩と横へよろけ、柱に手をついてやっと止まった。
痛くはなかった。肩にずしりと重いものが当たった感触が残っているだけだ。
かわりに膝が笑っている。
緒締玉から、魔力がごっそり持っていかれたのが分かる。膜を保とうとして流し続けていた指先から力が抜けて、揺らぎが薄くなり、紅い粒が走らなくなった。僕が緒締玉から指を離すと、膜は体のまわりから、薄い水が引いていくように消えた。
「シンジ」
アイカが剣を鞘に戻して、駆け寄ってくる。
「大丈夫。痛くない。…ただ、ちょっと、疲れた」
柱にもたれて、ずるずると床に座り込む。石の床の冷たさがズボン越しに伝わってきた。息がなかなか落ち着かない。
膜はちゃんと働いた。アイカの加減した本気の一撃を受けても、僕はよろけただけで済んだ。狐も、鞠も、腱の紐も、緒締玉も、一つの道具として動いてくれた。
その道具を十数回働かせただけで、僕のほうが先に動けなくなった。
アイカなら、同じ根付を一日じゅう働かせても平気なんだろう。何年も潜って魔物を倒して、体の中の魔力も育ってきた人なら。僕にはそれがない。作った物がどんなにちゃんと動いても、それを使う僕の体は、中学の授業のときから大して変わっていない。
それから、もう一つ気づいたことがあった。紅い粒は叩かれた場所のまわりにだけ濃く集まって、背中や足のほうではほとんど走っていなかった。叩かれていないところまで、膜は同じ厚さで張られている。そこにも、魔力は同じだけ流れ出ていたはずだ。
もし、膜を全部同じ厚さで張るんじゃなくて、何かを受けたところにだけ厚く寄せられたら。鞠のかがり糸の巡らせ方を、変えられたら。
考えかけたところで、アイカが水筒を差し出す。
「飲んで」
冷たい麦茶を半分くらい一気に飲むと、ようやく息が少し落ち着いた。
「…すごかった」
アイカがぽつりと言う。
「膜。私の剣、ちゃんと散ってた。量産品の防具だったら、肩、外れてたかもしれない」
「アイカ、あれで加減してたの」
「してた」
アイカは真顔でうなずく。僕は思わず笑って、それから肩に残る重い感触を思い出して、背筋が少し寒くなった。
「十数回で、こんなになるなんて思わなかった」
「最初は、みんなそう。私も一年のころは、一層を一往復しただけで座り込んでた」
「アイカが?」
「ユズに、おんぶされた」
その光景がうまく想像できなくて、僕はもう一度笑った。アイカは何も言わずに、水筒の蓋を閉めた。
しばらく休んでから、帰ることにした。
アイカが前で、僕がその左後ろを歩いて、二層の通路を来た道へ戻る。膜はもう張っていないけれど、何かあったらすぐ流せるように緒締玉に指を添えたまま歩いた。
一層への階段が見えかけたところで、通路の脇の崩れた石材の陰から、何かが飛び出してきた。
灰色の毛玉みたいなものが、まっすぐ僕の足元へ跳んでくる。額に小指ほどの角が光っていた。中学の授業のとき、曲がり角の先でこっちを向いた、あの一匹と同じ角ウサギだ。あのとき僕は足がすくんで、一歩も動けなかった。
指先が、勝手に緒締玉へ魔力を流していた。
膜が張りきる前に、角ウサギの体が僕の右の脛にぶつかった。ごつ、と鈍い衝撃は来ても、角が刺さる痛みはない。脛のまわりで紅い粒が一度に散って、衝撃は膝の下あたりで柔らかく薄まっていく。
僕は倒れなかった。一歩後ろへよろけて、それでも両足で石の床を踏んでいた。
角ウサギが体勢を立て直す前に、アイカの剣が横から一閃する。それで終わりだった。アイカは剣を払って鞘に戻すと、僕の脛を見下ろす。
「大丈夫?」
「…大丈夫。立ってる」
自分で言ってから、変な返事だと思った。でもアイカはそれで分かったみたいに小さくうなずいた。
緒締玉から指を離すと、膜はまた静かに消える。ポケットの中で狐の重みがかすかに動いた。
一層への階段の踊り場では、帰還用のポータルの石の円が淡く光っていた。二人でその上に立つと、足元の光がゆっくり強くなって、視界が白くなる。光が引いたとき、僕たちは入口の石の門の内側に立っていた。門の外から、管理棟のざわめきと、売店の串カツの匂いが流れ込んでくる。日はまだ高くて、昼にはずいぶん余裕があった。
管理棟を出たところで、アイカは売店の列に並んで串カツを二本買ってくると、一本を黙って僕の手に押しつけた。
「…ありがとう」
「お腹、空いてるでしょ。魔力使ったあとは、そうなる」
言われてみれば、ひどくお腹が空いている。二人で並んで商店街の手前まで、串カツをかじりながら歩く。揚げたての衣が指に熱かった。
「来週の土曜」
アイカが、前を向いたまま言う。
「十層、行く」
「うん」
聞いていたはずの言葉が、今日はずっと重く聞こえた。さっき肩で受けた一撃は、加減してあれだった。十層の巨腕猿は加減なんかしてくれない。
アイカの左手首で、ブレスレットの石が日差しを受けて鈍く光っている。
「アイカ」
呼ぶと、アイカが足を止める。
何か気の利いたことを言いたかったのに、浮かんだのは、一つだけだった。
「無事に、帰ってきて」
アイカはしばらく僕の顔を見ていた。からかうでもなく、目をそらすでもなく、まっすぐに。それから、小さくうなずいた。
「帰ったら、結果を見せに来る」
それだけ言って、アイカはまた歩き出す。
僕はその少し後ろを歩きながら、ポケットの口の緒締玉にもう一度だけ指を触れた。ひんやりとした青い球は、行きと同じ重さでそこに揺れていた。




