第十八話 串カツ、四人
その朝、アイカは目覚ましが鳴るより一時間早く目を覚ました。
カーテンの向こうはまだ暗くて、部屋の空気がしんと冷えている。布団から出て、ゆうべ床に並べておいた装備を、もう一度一つずつ確かめた。胸当ての留め具、前腕の防具の締め具、剣の柄の魔石、靴の紐。全部、ゆうべ確かめたとおりだ。それでも、確かめずにはいられなかった。
最後に机の上に置いておいたブレスレットを手首に巻く。留め金は指で軽く押すだけで留まった。
土曜の朝七時、横浜迷宮の管理棟の前は、まだ人がまばらだった。
十一月の朝の空気は冷たくて、吐いた息が白く流れていく。換金所のシャッターはまだ半分しか上がっていなくて、売店の串カツの鍋にも火が入っていない。自動ドアの横のベンチで、アイカは左手首の石を指先でとん、と一回叩いた。少し待つと、耳の奥で小石の転がるような音が、ころ、と一度だけ鳴る。起きている。アイカは手首を下ろして、ほっと息を吐いた。
「おはよー。寒っ」
ユズが大盾を背負って駆けてくる。盾の表では片目をつぶった白い猫のステッカーが朝日を受けていた。その後ろから弓袋を肩に掛けたマオが歩いてきて、ベンチに座るなり弓を出し、弦を張り直し始める。昨日の夜にも張り直していたはずなのに、指で一度弾いて音を確かめ、もう一度だけ締めた。
最後に来たナツメは、いつもの予定表を手にしていた。表と裏に細かい字がびっしり並んでいて、端が少し折れている。
「全員いるね。確認する」
ナツメは予定表を見ないまま、四人の装備を一人ずつ目で追っていった。ユズの盾の縁、マオの矢筒の本数、アイカの剣の柄、それから自分の短杖。
「ポータルで五層の先へ飛ぶ。六層から十層までは階段で、九層の休憩所で一回休む。引き返す条件は、前に決めたとおり」
三人が黙ってうなずく。
アイカは左手首に目を落とした。端だけ編み直された本物の編み帯の上で、灰色に少し緑の石が、ドームの丸みに朝の光を集めている。先週、商店街の手前で、串カツの油の匂いの中でシンジが言った言葉が、一瞬だけ耳の奥をかすめた。
無事に帰ってきて。
アイカは手首を握って、立ち上がる。
ゲートを抜けて入口の広間に入ると、正面の床に石の円が埋め込まれている。ナツメが四人分のクリスタルを配って、四人で円の上に立つ。足元の光が強くなって、視界が白く塗りつぶされる。
光が引くと、空気の匂いが変わっている。
五層の、下りの階段の手前の部屋だった。夏休みの終わりに、四人で五層の主を倒したあとで通った場所だ。あのときユズは盾ごと二回吹き飛ばされて、それでも最後まで前に立っていて、主が倒れたとたんに座り込んで泣いた。壁の継ぎ目の苔の色も天井の低いアーチも、そのときのまま見覚えがある。
でも、部屋の奥に口を開けている下りの階段の先は、四人ともほとんど知らない。
「行こう」
ナツメの声でユズが先頭に立つ。
六層に下りたとたん、足音の響き方が変わる。通路の幅が広くなって天井が高く、ライトの間隔が五層より一つぶん長い。ライトとライトのあいだに、薄い暗がりがはさまっている。吐く息は白くならないのに、首筋のあたりがひやりとする。
アイカは剣の柄に置いた手の指を一本ずつ動かしてみる。体は軽い。いつもと同じ、ダンジョンの中の体だ。それなのに肩の後ろのあたりに、見えない誰かの視線を感じるような落ち着かなさがある。
前を歩くユズの盾の縁が、ライトの下を通るたびに鈍く光る。その少し後ろでナツメが短杖を握り、最後尾のマオは、ときどき振り返って背後の暗がりを確かめていた。四人で潜るようになって、もうすぐ一年半になる。誰がどこに立って、どこを見ているか、振り返らなくても分かる。それが今日はいつもより心強かった。
六層は何事もなく抜けた。すれ違ったのは九層から帰ってきたという大学生のパーティーが一組だけで、そのうちの一人が「十層? 気をつけて」と言ってから、ユズの盾の猫を見て少し笑った。
七層で最初の戦いがあった。
通路の角を曲がったところで、ナツメが手を上げて全員を止める。ライトの届かない天井の暗がりで、何かがかさかさと動いていた。
「上。岩ムカデ」
ナツメの声と同時に、天井から灰色の長い体が垂れ下がってくる。人の背丈より長い体に、岩のかけらみたいな殻が節ごとに重なっていて、何十本もの脚がばらばらに空を掻いていた。上から落ちてきて巻きつく。殻は硬いけれど、節と節の継ぎ目は柔らかい。ナツメの資料で何度も読んだ相手だ。
ユズが盾を頭上へ掲げると、落ちてきたムカデの頭がぶつかって、鈍い音が通路に響いた。ナツメの短杖から氷の筋が走って、ムカデの後ろ半分の脚を床に縫いとめる。体をくねらせて逃げようとした節の継ぎ目へ、マオの矢が刺さった。
アイカはユズの左から回り込んで、剣の柄の魔石に魔力を通した。浮かび上がった継ぎ目の一つへ、刃を斜めに入れる。
三十秒もかからなかった。
「よし」
ナツメが短く言って、予定表に小さな印をつける。ユズが盾の表をのぞいて「猫、無事」と言い、マオが黙って矢を回収した。
ナツメが腕時計を見て、「予定より十分早い」と言う。ユズがリュックから飴を出して、四人に一つずつ配る。レモンの味がした。
いつもの四人の動きだった。四層で何度もくり返した形が、七層でもそのまま通る。剣を鞘に戻しながら、アイカは肩の後ろの落ち着かなさが少し薄くなっているのに気づいた。
八層に下りると、通路の床が濡れている。壁のあちこちから水がにじんで、細い流れになって床の溝を伝っている。ライトの光が水面に揺れて、通路全体がゆらゆらと波打って見える。ユズが盾を少し低く構え直して、一歩ずつ踏みしめるように進んでいく。
広い部屋に出たところで、岩ムカデが二匹、壁を這い下りてきた。
「右、一匹。左、一匹」
ナツメの声が飛ぶ。ユズが盾を左へ傾けて左のムカデの頭を受け止めると、右のムカデがユズの盾の外から回り込もうと体をくねらせた。
「右!」
アイカはユズの右側へ大きく踏み出す。濡れた床を蹴って盾の陰から抜け出すと、左腕が後ろへ振られて、剣が前へ伸びる。あの練習場で何度もシンジに見られた動きだ。
剣が右のムカデの継ぎ目を裂く。振り抜いた勢いのまま半回転して、ユズの後ろへ戻る。そのあいだにマオの矢が左のムカデの継ぎ目に刺さって、ナツメの氷がその脚を止めた。
二匹目が動かなくなったところで、後ろからマオの声がした。
「上がってない」
短い一言だった。
アイカは左手首を見下ろす。編み帯は手首の骨のすぐ上に座ったままだった。石のドームは甲の側を向いていて、留め金は防具の縁から離れている。濡れた床であれだけ大きく踏み込んだのに、そういえば、かちっという音も一度も聞いていない。
一瞬だけ、作業台の上の手が浮かんだ。古い革紐を指に掛けて、表の面が上に来るように一目ずつひねりを直しながら、編み直していた手。真ん中はアイカの手首の形になってるから、と言ったときの、作業灯の下の横顔。
アイカは手首を握って、剣を払った。
「次、行こ」
九層は空気が重い。
ライトの間隔がさらに長くなって、明るいところより暗がりのほうが長い。壁の切り石は大きくて古く、ところどころに誰かが刻んだらしい模様の欠片が残っていた。通路の奥から、ときどき乾いた音が聞こえてくる。何か硬いもので石の床を引っかいているような音だ。
マオがすっと前へ出る。弓を下ろしたまま、足音を消して通路の角まで進み、壁に背をつけて先をのぞく。しばらくして戻ってくると、指を二本立ててみせた。
「二匹。大きい」
その音の主は大部屋の手前の通路で待っていた。
大蟷螂だ。アイカの背丈より大きな灰緑色の蟷螂が二匹、細長い体の先で、鎌になった前脚を胸の前に畳んでいる。三角の頭が四人のほうへ同時に向いた。
「鎌、速いよ」
ナツメの声がいつもより低い。
一匹目が跳んで、ユズが盾で鎌を受け止める。甲高い音がして、盾の表に細い傷が走った。ナツメの氷の筋が一匹目の脚を狙ったけれど、蟷螂は細い脚で器用に跳ねて、氷をかわしてしまう。マオの矢も、硬い前脚に弾かれた。
二匹目がユズの盾の右の外側へ回り込む。
アイカはそっちへ踏み出そうとして、足を止める。一匹目の鎌はまだユズの盾の上でぎりぎりと押し合っている。今アイカがユズの右へ出れば、盾の左側が空く。それなのに二匹目の鎌は、もうユズの右肩の真横で振り上げられていた。
間に合わない。
そう思った瞬間、左手首で、ころ、と石が鳴った。
ユズの右肩の横に、石の板が一枚、音もなく立つ。アイカの手のひらを二つ並べたくらいの、小さな板だ。表面にはブレスレットの石と同じ細い線がうっすら走っている。
二匹目の鎌がその板に叩きつけられて、乾いた音とともに板の表面が細かくひび割れた。でも、鎌はユズの肩に届かなかった。
「…っ、今の!」
ユズが叫んだときには、アイカはもうユズの右へ踏み出していた。鎌を板に食い込ませたまま動きの止まった二匹目の胴へ、剣を横に入れる。ナツメの氷がようやく一匹目の脚を捉えて、マオの次の矢が三角の頭を射抜いた。
石の板は蟷螂が動かなくなるのと同時に、砂になって崩れて消える。
息を整えながら左手首を見下ろすと、石の上に灰色の丸いのが座っていた。親指の先くらいの、目も鼻もない体だ。それがアイカの顔を見上げて、両手をぱっと広げてみせる。
「…ありがとう」
小さく言うと、石神様は、ころ、と一度鳴って、そのまま石の中へ引っ込んでいった。
ユズが盾の右肩のあたりをさすりながら、アイカのほうへ振り向く。
「アイカ、今の、石神様?」
「うん」
「…ちっちゃい壁だった」
「うん。ちっちゃかった」
それ以上は二人とも何も言わなかった。
九層の休憩所は大部屋の脇の小さな石室だった。入口には金属の札が掛かっていて、中には誰が持ち込んだのか、古いベンチが二つ置いてある。壁にはほかのパーティーが書き残していった落書きが、油性ペンでいくつも並んでいた。「十層、三回目で突破」「腕に気をつけろ」「帰ったら焼肉」。ユズがそれを一つずつ小さな声で読み上げて、「焼肉もいいなあ」と言いかけ、途中でやめた。
四人はベンチに並んで座り込む。
しばらく、誰もしゃべらなかった。マオが水筒の水を一口飲んで、蓋を閉めて、また開けてもう一口飲む。ナツメは予定表を膝の上に広げていたけれど、さっきから同じ行を指でなぞったまま動いていなかった。予定表の端を押さえている指先が、白くなっている。
「ねえ」
ユズが天井を見上げたまま言う。
「十層の主、腕、どのくらい長いんだっけ」
「資料だと、立ったときに床に指が届く」
ナツメが答える。
「…そっか」
ユズはそれきり黙った。いつもならここで、猫のステッカーのことでも、お昼のことでも、何か言うはずだった。でもユズはそのまま、盾の表に今日ついた新しい傷を、指でなぞっている。
「…怖いね」
ナツメがぽつりと言う。予定表から目を上げないまま、いつもと同じ平らな声で。
ナツメがそんなことを口にするのを、アイカは初めて聞いた。ユズもマオも、驚いたようにナツメを見ている。
「怖いのは、悪いことじゃない。引き返す条件を決めておくのは、怖いからだし」
ナツメはそう言って、予定表の、引き返す条件を書いた行を指で押さえた。指先の白さはさっきより少しだけ薄くなっていた。
アイカは自分の手のひらを見た。剣の柄の跡が薄く赤く残っている。
「帰ったら」
三人がこっちを見る。
「串カツ、食べよう。管理棟の売店の」
ユズがぱちぱちと瞬きをした。それから、ゆっくり口の端を上げる。
「…私、二本食べる」
「私も」
マオが言う。マオが自分から食べ物の話に乗るのは、珍しい。
ナツメは予定表を畳んで、膝の上で一度だけ深く息を吐いた。それから予定表を開き直して、裏に小さく何かを書き込む。アイカがのぞき込むと、いちばん下の空いたところに、細い字で「串カツ 四人」と書いてあった。
「予定に入れた」
ナツメは真顔でそう言う。ユズが吹き出して、マオの肩が小さく揺れた。
十層への階段は休憩所を出て通路を少し進んだ先にあった。
ほかの階段より、段の一つ一つが高い。手すりの鉄パイプは途中で途切れていて、そこから先は壁に手をつきながら下りていく。下へ行くほど空気が冷たくなって、湿った石の匂いに、何か獣の匂いが混じり始めた。
階段を下りきると、短い通路の先に大部屋の入口が開いている。
入口は大きなアーチになっていて、その向こうは薄暗い。ライトは入口の手前に一つあるだけで、部屋の中に太い柱が何本も並んでいるのが、影の重なりでかろうじて分かる。
その柱の一本に何かがかかっている。
長い腕だ。柱を上から下まで撫でおろすように、長い指が石の表面をゆっくり滑っていく。肩も頭も、薄暗がりの奥でよく見えない。腕だけが柱の陰から陰へ、音もなく移っていった。
先週、二層の小さな広間で、アイカは加減した一撃をシンジの肩に打ち込んだ。膜は紅く光って衝撃を散らしたのに、シンジは三歩よろけて柱に手をつき、そのあと膝が笑って座り込んだまま、なかなか息が戻らなかった。
あれは、アイカが加減した一撃だった。あの腕の持ち主は、加減なんかしない。
ユズが、盾の持ち手を握り直す音がした。
「確認する」
ナツメが小さな声で言う。
「ユズ、盾」
「いける」
「マオ、矢」
マオが矢筒を軽く叩く。
「アイカ」
アイカは剣の柄に手を置いて、左手首の石に指先をそっと当てた。ころ、と小さく鳴る。
「いける」
ナツメはうなずいて、自分の短杖を握り直した。それから、三人の顔を一人ずつ見る。
「右、左、今、戻って。合図は練習どおり。引き返す条件も、練習どおり」
三人がうなずく。
ナツメは入口のほうへ向き直る。
「行こう」




