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端材の神様 〜魔道具職人見習いの練習作品は、なぜか依代になる〜  作者: ヅダスキー3世
第一章 作業台の上の神様

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第十九話 いつもの一歩

 アーチをくぐったとたん、足元の石の床がわずかに沈んだように感じた。

 

 大部屋は外から見たよりずっと広かった。見上げた天井は暗がりに溶けていて、太い柱が二列に並んだまま奥まで続いている。入口のライトの光は三本目の柱のあたりで尽きていて、その先は、柱の影と暗がりの区別がつかない。獣の匂いがさっきよりずっと濃かった。

 

 ナツメが小さく手を振って、四人の位置を決める。ユズが先頭。そのすぐ右後ろにアイカ。さらに右へ距離を取ってマオ。全体の後ろにナツメ。地上の練習場と四層で、何度も確かめてきた並びだ。四人の足音が止まると、大部屋はしんと静まり返った。自分の息の音だけが、耳の奥で大きく聞こえる。

 

 ユズが盾を構えて一歩前へ出ると、暗がりの奥で、何かが柱から手を離す音がした。

 

 ずしん、と床が揺れる。

 

 二本目の柱の陰から、それが出てくる。前かがみの姿勢なのに、灰色がかった茶色の毛に覆われた肩は、ユズの頭よりずっと上にある。胴は思ったより細くて、そのかわり、両肩から下がった腕が異様に長かった。資料に書いてあったとおり、立ったまま長い指先が床に届いている。握った拳は、片方だけでユズの盾ほどもあった。

 皺の寄った黒い顔の奥で、小さな黄色い目が二つ光っている。その目が四人を順番に見た。

 

 ユズの盾の表で、白い猫のステッカーが入口のライトを受けて光っている。巨腕猿の黄色い目が、ほんの一瞬だけ、その猫に止まった気がした。

 

 巨腕猿は片腕を持ち上げて、床を叩いた。

 

 石の床にひびが走って、足の裏から膝まで震えが突き上げてくる。床に積もっていた砂が、ふわっと舞い上がった。

 

「正面、ユズ!」

 

 ナツメの声で四人が動く。

 

 ユズが盾を構えて巨腕猿の正面へ回ると、右腕が横薙ぎに振るわれる。ユズは盾を斜めに傾けて、その力を上へ逃がした。盾と拳のぶつかる音が大部屋じゅうに響いて、ユズの足が床の上で半歩ぶん滑る。それでも、倒れない。

 

「右!」

 

 アイカはユズの右へ大きく踏み出す。盾の陰から抜けながら左腕を後ろへ振り、剣の柄の魔石に魔力を通して、振り抜かれた巨腕猿の右腕の付け根へ刃を斜めに入れる。

 毛の下の皮膚が厚い革みたいに硬かった。それでも刃は浅く入って、灰色の毛が数本、宙に舞う。

 

 アイカが半回転してユズの後ろへ戻るのと入れ違いに、マオの矢が、アイカの空けた射線を通って巨腕猿の肩に刺さった。ナツメの氷の筋が巨腕猿の右足を床に縫いとめる。巨腕猿が低く唸った。

 

「もう一回!」

 

 ユズが受けて、アイカが右から回り込んで、マオが射て、ナツメが足を止める。同じ形を二回目もくり返して、二回目も通った。巨腕猿の右腕の付け根に、浅い傷がもう一本増える。

 

 いける。四層で何度もくり返した形が、ここでも通る。剣を握る手に力が戻ってくるのが分かった。

 

 三回目は少し違った。巨腕猿はユズの盾を叩く前に、拳を一度だけ引いた。ユズが盾の角度を変えるのを待つみたいに、黄色い目が盾の縁をじっと見ている。それから、さっきより低いところから拳を突き上げた。ユズは盾を下げて受けたけれど、受け流しきれずに、盾の縁が自分の肩にぶつかった。

 

「っ…大丈夫!」

 

 ユズが叫ぶ。アイカは右から回り込んで、また付け根を斬った。でも、巨腕猿はもう、アイカが来る方向を見ていた。

 

 巨腕猿は氷を砕いて足を引き抜くと、すぐ横の柱をつかむ。

 

 長い右腕が柱を巻き込むように握る。次の瞬間、巨腕猿の体は柱を軸にして横へ大きく振られた。床を蹴らずに腕の力だけで巨体が弧を描いて宙を移り、ユズの正面から消える。

 

「左っ…違う、右、後ろ…!」

 

 ナツメの声が初めて乱れる。

 

 巨腕猿は柱の向こう側に降りている。ユズの盾の外、四人の配置の外側だ。ユズが慌てて盾を向け直そうとした瞬間、柱の陰から長い左腕が伸びてきて、盾を横から弾いた。

 

 ユズの体が盾ごと宙に浮く。床を二度転がって、柱の根元に背中からぶつかって止まる。

 

「ユズ!」

 

 アイカはとっさに巨腕猿の前へ出る。ユズのほうへ向かわせないように、剣を大きく振って目の前を横切る。黄色い目がアイカを追う。

 長い右腕が横から薙いでくる。アイカは床を蹴って、腕の下をくぐる。頭の上を拳が風を巻いて通り過ぎる。髪の先が引っぱられた。ダンジョンの中の体でなければ、絶対に避けられなかった。

 

 巨腕猿はアイカを深追いしない。かわりにすぐ次の柱をつかんだ。体を振って、今度はマオのいる右後ろへ回り込む。マオの射線を柱が切っていた。マオが弓を構え直そうと横へ動いた、その真上から右腕が振り下ろされる。

 

 間に合わない、と思った瞬間、左手首で、ころ、と石が鳴った。

 

 マオの頭上に石の板が一枚立つ。九層で見たのと同じ、手のひら二つぶんの小さな板だ。

 

 拳がその板に叩きつけられた。板は一瞬も持たずに乾いた音を立てて砕け、破片が四方へ飛び散る。けれど、その一瞬で拳の軌道が外れた。真上から叩き潰すはずだった拳がマオの肩口をかすめ、その体を横へ弾き飛ばす。

 

 マオは床を滑るように飛ばされて、壁際で一度跳ねてから止まった。それから両手をついて、ゆっくり上体を起こす。弓はまだ握っていた。

 

 板がなかったら、マオは拳の真下にいた。板があったから拳の向きが逸れて、横へ払われただけで済んだ。アイカはそれを頭のどこかで分かっていたのに、背筋の冷たさは消えなかった。九層で大蟷螂の鎌を止めた板が、ここでは一瞬で砕けた。

 

「…引き返す、条件」

 

 ナツメの声がかすれている。短杖の先の光がさっきより弱い。予定表に書いてあった、引き返す条件。二人以上が動けなくなったら。盾役が立てなくなったら。

 

 柱の根元でユズが膝をついている。盾を床に突いて、体を起こそうとしている。

 

「…まだ、いける。まだ、動ける。マオは」

 

「動ける」

 

 壁際から、マオが短く答える。もう立ち上がって、矢筒から一本抜いている。

 

 ナツメはほんの一瞬だけ目をつぶって、それから短杖を握り直した。

 

「…続ける。でも、次に誰か倒れたら、戻る」

 

 ナツメはそう言って、短杖の先をまっすぐ巨腕猿へ向けた。手は震えていたけれど、声は、いつもの平らな声に戻っていた。

 

 巨腕猿がまた柱をつかむ。体を振るために長い腕が柱を巻き込み、肘から先がまっすぐ伸びきる。

 

 その瞬間、アイカの目に、それが見えた。

 

 肘の内側だった。腕を伸ばしきったところだけ、灰色の毛が薄くなって、黒っぽい皮膚がのぞいている。腕を曲げているあいだは、毛に埋もれて見えなかった場所だ。さっきから柱をつかむたびに、そこが一瞬だけ、ライトの光の中に白く浮いていた。

 

「肘の内側! 毛が薄い!」

 

 アイカが叫ぶのと、マオの矢が飛ぶのは、ほとんど同時だった。柱をつかんで伸びきった右腕の、肘の内側に矢が刺さる。今までの矢とは違って、深く入った。巨腕猿が甲高い声を上げて、柱から手を離す。

 

 巨体が落ちた先に、ユズがいる。

 

 ユズはまだ盾を構え直しきれていなかった。片膝をついたまま、盾を半分だけ持ち上げている。その真上で巨腕猿が両腕を振り上げた。

 

 アイカは駆け出していた。でも、遠い。柱二本ぶんの距離は、アイカの足でも間に合わない。ナツメの氷もマオの矢も、両腕を振り上げた巨腕猿を止めきれない。

 

 アイカは走りながら、左手首を胸の前に引き寄せる。

 

「石神様、お願い!」

 

 初めて、はっきり頼んだ。

 

 ころ、と石が鳴った。

 

 ユズの前に壁が立つ。九層の小さな板とは違う。床からせり上がった石の壁は、アイカの背丈よりも高く、ユズの体を丸ごと隠すほど幅が広い。灰色のざらついた表面に、ブレスレットの石と同じ波紋の線が、くっきりと走っていた。

 

 巨腕猿の両腕がその壁に叩きつけられた。

 

 大部屋じゅうが揺れて、壁の真ん中から放射状にひびが走る。それでも壁は両腕の一撃を受け止めて立っていた。

 

 一瞬だけ。

 

 次の瞬間、壁は砂になって崩れ落ちた。でも、その一瞬で十分だった。ユズは壁が崩れる前に盾を抱えて横へ転がっていて、ナツメの氷が巨腕猿の両足を床に縫いとめていた。マオは次の矢をつがえている。

 

 アイカはユズの右に滑り込む。左手首の石はもう鳴らなかった。

 

「ユズ、左腕!」

 

 ナツメの声はもう乱れていなかった。

 

 ユズが倒れ込むように、盾を巨腕猿の左腕へかぶせる。盾の縁を床との間へ噛ませ、全身の重みを乗せて押さえ込んだ。巨腕猿が残った右腕を振り上げようとした。肘の内側にマオの矢が刺さったままの右腕だ。

 

 右腕が伸びきる。

 

 アイカは右へ大きく踏み出す。盾の陰から抜けて、左腕を後ろへ振る。マオの射線を空けるための、いつもの一歩だった。練習場で何度もシンジに見られて、四層でも八層でも何度もくり返してきた一歩。

 

 その一歩が空けた射線を、マオの矢が通った。右の肘の内側、一本目の矢のすぐ隣に、二本目が刺さる。巨腕猿の右腕ががくりと下がった。

 二本の矢に引かれるように右肩が落ちて、その向こうで首筋が開く。

 

 アイカは踏み込んだ勢いのまま、剣を振り上げる。

 

 左手首は何も変わらなかった。編み帯は手首の上に座ったまま、石は甲の側を向いたまま、留め金はどこにも当たらない。だから、何も気にしなくてよかった。剣のことだけを考えていればよかった。

 

 剣の柄の魔石にありったけの魔力を通す。刃がかすかに震えるのを確かめて、下がった右腕の付け根から首へ、斜めに入れた。

 今度は、浅く止まらなかった。厚い皮膚を抜けて、刃が深く沈む。

 

 巨腕猿はしばらく動かなかった。

 

 それから、ゆっくりと前のめりに倒れた。床がもう一度だけ揺れて、長い腕が床の上に伸びたまま動かなくなる。

 

 誰も、しばらく何も言わなかった。

 

 さっきまで大部屋を満たしていた音が、全部どこかへ消えていた。拳が床を叩く音も、盾が軋む音も、ナツメの声も。聞こえるのは、四人の荒い息と、天井のどこかから落ちる水の滴の音だけだった。

 

 舞い上がっていた砂が、入口のライトの光の中をゆっくりと落ちていく。アイカは剣を下ろして、その場に座り込む。膝に力が入らない。剣を握っていた右の手のひらには、柄の跡がくっきりと赤く残っていた。

 

 ユズが盾を抱えたまま、仰向けに倒れ込む。

 

「…勝った?」

 

「勝った」

 

 答えたナツメも、床に座り込んでいた。短杖を握った手が細かく震えている。魔力をほとんど使い切っているのだろう。

 

「勝ったぁ…」

 

 ユズは盾を抱きしめて、笑っているのか泣いているのか分からない声を出した。それから肩を動かそうとして、顔をしかめる。

 

「いった…肩、すっごい痛い」

 

「帰ったら、すぐ冷やして」

 

 ナツメはそう言ってから、膝の上で自分の手を開いたり閉じたりした。

 

「…条件、ぎりぎりだった」

 

「知ってる」

 

 ユズが天井を見上げたまま答えて、それきり二人とも黙った。

 

 壁際からマオが歩いてくる。腰をさすりながら、少しだけ足を引きずっている。アイカの隣に座ると、マオは黙って水筒を差し出した。

 

 マオは倒れた巨腕猿の右腕のほうを見ていた。肘の内側にマオの矢が二本並んで刺さったままになっている。

 

「二本目。アイカが、空けてくれたから」

 

 それだけ言って、マオは水筒の蓋を閉めた。

 

 アイカは水を一口飲んで、それから左手首を見下ろす。

 

 石は静かだった。

 

 とん、と指先で一回叩く。返事がない。

 

 もう一回叩いても、何も鳴らなかった。灰色に少し緑の石は、ドームの丸みに入口のライトの光を集めたまま、ただの石みたいに黙っている。

 

 アイカはもう一回だけ叩いた。そっと。起こさないように、でも、気づいてもらえるように。

 

 しばらく、待った。

 

 ころ。

 

 耳を澄ましていなければ聞き逃すくらいの、小さな音だった。

 

 アイカは息を吐いた。止めていたことに、そのとき初めて気づいた。

 

 手首の上で編み帯は朝と同じ場所に座っていた。端の三目だけ、つやの違う編み目。真ん中の、アイカの手首の形に丸く癖のついたところ。あれだけ踏み込んで、あれだけ振り回したのに、一目もずれていない。

 

「…ありがとう」

 

 石の上に指を置いたまま、小さく言う。返事はもうなかったけれど、さっきまでの黙り方とは違っていた。眠っているだけだ、と思えた。

 

 ユズが仰向けのまま首だけこっちへ向ける。

 

「串カツ、二本だからね」

 

 ナツメが膝の上で予定表を広げて、いちばん下の細い字の一行を、指でなぞった。それから黙って予定表を畳んで、ポケットにしまう。

 

 巨腕猿の体があった場所に、魔石が一つ転がっていた。マオがそれを拾い上げてナツメに渡すと、ナツメは魔石を両手で受け取ってしばらく見つめ、それからリュックにしまった。

 

「帰ろう」

 

 ナツメが言う。

 

 大部屋の奥には十一層へ下りる階段がある。その踊り場で帰還用のポータルの石の円が淡く光っていた。

 

 四人は互いの腕をつかんで立ち上がった。ユズの肩をマオが支えて、ナツメの腕をアイカが取る。一歩ずつ、光のほうへ歩いていく。

 

 階段の手前でユズが振り返る。床の上に巨腕猿の長い腕が伸びたままになっている。

 

「…あれ、柱つかむの、ずるくない?」

 

「ずるい」

 

 マオが即答する。ナツメが小さく吹き出して、すぐに顔をしかめて腕を押さえる。笑うと、どこかが痛むらしかった。

 

 アイカは歩きながら、左手首の石に、もう一度だけ指を触れた。

 

 帰ったら、結果を見せに来る。

 

 自分がそう言ったのを、思い出していた。


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