第二十話 忘れてた
ゆうべはあまり眠れなかった。
布団に入って目をつぶると、二層の小さな広間で肩に受けた一撃の重さが勝手に体の中によみがえってくる。アイカが加減して、あれだった。寝返りを打つたびにそれを思い出して、気がつくと窓の外が白み始めていた。路地を新聞配達のバイクが通り過ぎていく音を、布団の中で聞いた。
土曜日の朝は何をしても手につかなかった。
作業台に向かって、練習用の端材に線を一本彫ろうとする。刃先を当てたところでポケットのスマホが気になって手が止まり、取り出して画面を見ても、通知は一つも来ていない。当たり前だった。アイカたちは朝の七時に管理棟の前に集まると言っていたから、今ごろはまだ六層か七層あたりのはずだ。スマホを伏せてもう一度刃先を当てると、三ミリ彫ったところで、また手が止まった。
奥の作業台ではじいちゃんがいつもどおり、先週のお客さんの籠手の新しい板に回路を彫っている。ルーターの低い音が、一定の間隔で続いていた。じいちゃんは朝から一度もアイカたちのことを口にしない。
十時を過ぎたころ、表の引き戸からサキさんが顔をのぞかせた。
「シンジくん、アイカちゃんたちって、今日だったわよね。十層」
「…うん」
「そう」
サキさんはそれ以上何も言わずに、作業台の端に僕の好きな栗の入った最中を一つ置いていく。包みを開けないままそれを眺めていると、奥からじいちゃんの声がした。
「シンジ、手が空いているなら、こっちを手伝っておくれ」
じいちゃんの作業台へ行くと、磨きかけの金属の板が三枚並んでいる。
「この縁を、目の細かい布で磨いてほしい。力は入れなくていい。同じところを、同じ向きに、ゆっくりね」
言われたとおりに布を当てて、板の縁をなでる。同じところを同じ向きに、何度も。磨いているあいだは、手が止まらなかった。金属の縁が少しずつ明るくなっていくのを見ているうちに、ポケットのスマホのことをときどき忘れていられた。
じいちゃんがわざと僕に手を動かす仕事をくれたのだと気づいたのは、三枚目に取りかかったころだった。
十一時を少し過ぎたところで、ルーターの音が止まる。
「シンジ、お昼にしようか」
昼にはまだ早かった。それでもじいちゃんは二階へ上がって、おにぎりを四つと、豆腐とわかめの味噌汁を作ってくれた。おにぎりはいつもより塩がほんの少しだけ強かった。じいちゃんは味噌汁をすすりながら、窓の外の空をしばらく見ている。
午後になっても、同じだった。じいちゃんの板を磨き終えてしまうと、また端材に向かっては手が止まり、スマホを見ては伏せるのくり返しになる。三時を過ぎて窓から差し込む光が斜めになり始めたころには、端材の上に途中で止まった線が五本並んでいた。サキさんの最中は包みを開けないまま作業台の端に置いてあった。
勝手口が鳴ったのは、四時半を少し回ったころだった。
二回。いつもの、アイカの叩き方だ。
立ち上がるときに椅子の脚が床に引っかかって、大きな音がする。勝手口を開けると、夕方の冷たい空気と一緒に、揚げ物の匂いが流れ込んでくる。
アイカが立っている。
その後ろにユズがいた。マオがいた。ナツメがいた。
四人いた。
「ただいま、じゃないか。こんにちは」
ユズが手に提げた白いビニール袋を持ち上げてみせる。管理棟の売店の袋だった。
「串カツ。五本目、三灯原くんの分。親方の分もあるよ」
僕は何も言えずに、四人の顔を順番に見る。
ユズの右肩のあたりで、上着の襟元から白い湿布の端がのぞいている。袋を持ち上げた腕を下ろすとき、ほんのわずかに顔をしかめる。マオはいつもより歩き方が少し硬くて、腰のあたりをかばうように一歩ずつ慎重に足を運んでいる。ナツメは顔色がいつもより白く、眼鏡の奥の目が疲れていた。
アイカには目立った怪我が見当たらなかった。右の手のひらを握ったり開いたりしていて、そこに赤い跡が残っているのが、ちらりと見えただけだ。
でも、四人とも、自分の足でここまで来ていた。
ようやく、息が吐けた。朝からずっと、どこかで止めていたらしい息だった。
「…入って」
奥の作業台から、じいちゃんが立ち上がってこちらへ来る。四人の顔を一人ずつ順に見ていく。ユズの肩、マオの足、ナツメの顔色、それからアイカ。
「よく帰ってきたね」
それだけ言って、じいちゃんは台所へお茶を淹れに上がっていく。
四人が入ると、狭い作業場がいっぱいになる。ユズは丸椅子に、マオとナツメは作業台の端の木箱に並んで座る。アイカはいつもの丸椅子をユズに譲って、立ったままでいた。
「アイカ、ブレスレット、見せてもらっていい?」
アイカは黙ってうなずいて、左手首を作業台の上に置く。
作業灯を引き寄せると、最初に目に入ったのは汚れだった。編み帯の革に薄く砂埃がついている。手首の内側の防具の縁に近いほうだけが、白っぽく粉を吹いたようになっていた。石の表面の波紋の溝には、細かい砂が一粒挟まっている。
使われた跡だ。
柔らかい布を出して、編み帯の表を軽く拭う。砂埃が布に移って、その下から、アイカの手首の形に丸く癖のついた革のつやが戻ってきた。
編み目を一つずつ見ていく。端の三目の、編み直したところ。つやの違う境目。その先の、真ん中の編み目。どこもずれていなくて、目と目の間隔は先週ここで巻いたときのままだった。
石の両側の輪の根元を、爪の先でそっと押す。石は押した分だけほんの少し傾いて、離すと元に戻った。締め直した遊びはそのまま残っている。細い針の先で波紋の溝から砂粒を一つ掻き出す。
それからアイカに断って、編み帯の下の手首の肌も見せてもらった。石のドームが当たる甲の側にも、留め金の当たる内側にも、赤くなったところはない。肌に帯の編み目の跡がうっすら残っているだけだった。
最後に留め金を見る。波模様の蹴彫りを作業灯の角度を変えながらのぞき込む。前に一本だけついた細い擦り跡はそのまま残っていたけれど、それ以外に新しい線は、一本も増えていなかった。
「上がってなかった」
木箱に座ったマオが、短く言う。
「八層でも十層でも、留め金は一度も鳴ってない」
ナツメが続ける。
僕は留め金から目を上げられなかった。一度も、鳴っていない。十層で。資料でしか知らない、あの長い腕の前で。
「石神様にも、助けてもらった」
ユズが袋から串カツを出しながら言う。
「でっかい壁。私の前に、どーんって。あれがなかったら、私、今ここにいなかったかも」
ユズは笑いながら言ったけれど、袋を持つ手が一瞬だけ止まった。
「…今、寝てる」
アイカが手首の石を見下ろして言う。
僕は作業台の上のアイカの手首に、そっと指を伸ばす。灰色に少し緑の石の上に指先を置くと、ひんやりとして少しざらついている。それだけだった。何も鳴らないし、何も見えない。この石の中で誰かが眠っているのかどうかさえ、僕には分からない。
でも、アイカの手首は、ここにあった。
指を離すと、アイカは手首を引いて、胸の前でそっと握った。
じいちゃんがお茶を持って下りてきて、作業台の端に湯のみを六つ並べる。ユズが串カツを一本ずつ配っていく。揚げてから時間がたって、衣はもう熱くなかった。それでも袋を開けたとたん、作業場じゅうがソースの匂いでいっぱいになる。
「いただきます」
ユズの声に合わせて、六人で串カツをかじった。
誰も、十層のことを詳しくは話さなかった。ユズが「柱つかむの、ずるいんだよ」と言い、マオが「ずるい」と言い、ナツメが笑いかけて腕を押さえ、顔をしかめる。それだけだった。何があったのかを全部は知らないのに、それで十分だった。
ナツメは串カツを食べ終えると、リュックから例の予定表を出した。端の折れた紙のいちばん下の空いたところに、細い字で何か書いてある。のぞき込むと、「串カツ 四人」の「四」にボールペンで線が一本引かれていた。その横に小さく「五」と書き足してある。
「予定、変更」
ナツメは真顔でそう言って、予定表をしまった。ユズが吹き出して、肩を押さえて「いった」と言った。
ナツメはそのあと、リュックの奥から布にくるんだものを取り出してじいちゃんの前に置いた。布を開くと、握りこぶしより一回り小さいくらいの魔石が出てきた。灰色がかった緑で、中で光がゆっくり揺れている。
「十層の主の魔石です。どうしたらいいか、親方に聞いてみようって、四人で」
じいちゃんは魔石を手に取って、作業灯にかざす。しばらく中の光を見てから、布の上にそっと戻す。
「いい石だね。換金してもいいし、いつか自分たちの装備に使ってもいい。急いで決めなくていいよ。四人で、ゆっくり相談しなさい」
ナツメはうなずいて、魔石をまた布にくるむ。その手つきが予定表を畳むときと同じくらい丁寧だった。
じいちゃんは自分の串カツを一口かじってから、ナツメの顔色をもう一度見た。
「今日は、早く寝なさい。みんな」
「はい」
ナツメが珍しく素直に答える。
ユズとマオとナツメが帰ったのは、五時半を回ったころだった。
外はもう暗くなりかけていて、路地の街灯が点いている。ユズは勝手口で振り返って、「三灯原くん、ごちそうさま」と言う。串カツを買ってきたのは、ユズのほうなのに。マオは黙って頭を下げて、ナツメは「また、報告に来る」とだけ言った。
アイカは勝手口の内側に残っていた。
三人の足音が路地の先へ遠ざかって、聞こえなくなる。作業場にはじいちゃんが二階で湯のみを洗う音だけが、かすかに届いていた。
「…無事でよかった」
やっと出てきたのは、それだけだった。
「うん」
アイカは勝手口の柱にもたれて、自分の左手首を見下ろしている。しばらく、どちらも何も言わなかった。
「狐は?」
アイカが作業台のほうへ目をやる。
「ポケットに入れてた。今日、ずっと」
「ずっと」
「…落ち着かなかったから」
言ってから、余計なことを言ったと思った。アイカは何も言わずに、少しだけ口の端を上げた。
「戦ってるとき」
アイカがぽつりと言う。
「ブレスレットのこと、忘れてた」
一瞬、意味が分からなかった。忘れてた。あれだけ時間をかけて、一目ずつ直して、輪の根元を締めて、何度も試してもらったものを。
それから、分かった。
忘れていられた、ということだ。巨腕猿の前で剣を振るあいだ、手首のことを一度も気にしなくてよかった。ずれないか、当たらないか、考えなくてよかった。
道具にとって、それより上の褒め言葉を、僕は知らない。
「…そっか」
それしか言えなかったけれど、胸の奥のどこかで、ずっと固く結ばれていたものがゆっくりほどけていった。
アイカは手首から目を上げて、僕を見る。
「石神様だけじゃないよ」
アイカが、左の手首を少しだけ持ち上げた。
「シンジのも、ちゃんと動いた」
それだけ言って、アイカは勝手口を開ける。
「また明日」
勝手口が閉まる。僕はしばらく、閉まった勝手口の前に立っていた。
夜、晩ごはんのあとで作業場に下りる。
作業台の端にサキさんの最中が置きっぱなしになっていた。包みを開けて一口かじると、栗の甘さが、今日初めてちゃんと舌に届いた。
作業台の上には昼間に途中で止まった線が五本並んだ端材が、そのまま残っている。どの線も三ミリか四ミリ彫ったところで止まっていた。一本目から五本目まで、順番に指でなぞってみる。どれも、刃の入り方が少しずつ硬かった。今日の自分の手がそこに全部残っている。端材を作業台の脇に寄せた。
作業灯を一つだけ点けて、ポケットから狐の根付を出す。作業台の上に置くと、狐は前脚で鞠を抱えたまま細い目でこちらを見上げていた。背中の紅い光の粒が、作業灯の下でかすかに瞬いている。
先週、二層で膜を張ったときのことを思い出す。叩かれた場所のまわりにだけ紅い粒が濃く集まって、背中や足のほうにはほとんど走っていなかった。それなのに膜は全身に同じ厚さで張られていて、魔力は全身から同じように流れ出ていた。
アイカのブレスレットは、全部を作り直さなかった。アイカの手首の形になった真ん中は残して、端の三目だけを直した。外へ回るずれには石の輪の根元だけを締めた。
この狐の膜も、そうできないだろうか。全身に同じだけ張るんじゃなくて、何かを受けたところにだけ厚く寄せられたら。それなら僕の少ない魔力でも、もっと長く持つかもしれない。
方眼紙を広げて、鉛筆を取る。
鞠のかがり模様を大きく描き写していく。菱形の糸の重なりの、どこで流れを分けて、どこへ寄せればいいのか、まだ何も分からない。分からないまま、鉛筆の先で菱形の一つ目をなぞった。
階段の上から、じいちゃんの「おやすみ」という声が聞こえてくる。
「おやすみ」
返事をして、二つ目の菱形を描く。消しゴムのかすを手で払って、三つ目に取りかかった。




