第二十一話(第一章最終話)次は、何を作るのですか?
日曜の朝、作業台の上には、ゆうべの方眼紙が広げたままになっていた。
鞠のかがり模様を大きく描き写した紙だ。菱形の糸の重なりの上に、魔力の流れを変えるための線が何本も引いてあって、消しゴムで消した跡がそのまわりに灰色の雲みたいに残っている。三つ目の菱形のところだけ、線が何度もなぞられて濃くなっていた。ゆうべ、そこで手が止まったまま寝てしまったらしい。
窓の外は晴れていて、路地の向かいの家の屋根に薄く霜が降りている。十一月も、もう半ばだった。
昨日の朝は端材に三ミリ彫っては手が止まっていた。今朝は方眼紙の前に座ったとたん、鉛筆が勝手に動き出す。三つ目の菱形のどこで流れを分けて、どこへ寄せればいいのか。線を一本引いて、消して、少しずらしてまた引く。
アイカは「また明日」と言っていた。今日、来るかもしれない。そう思うと、ときどき勝手口のほうへ目が行った。
奥の作業台ではじいちゃんがお客さんの籠手の最後の仕上げをしている。新しい板に保護の樹脂を薄く塗って、作業灯の下で傾けては、また塗る。日曜でも、じいちゃんの朝はいつもどおりだった。
十時を過ぎたころ、鉛筆を置く。
紙の上でいくら線を引いても、本当に流れが寄るのかどうかは分からない。ポケットから狐の根付を出して、作業台の上に置く。狐は前脚で鞠を抱えたまま、細い目でこちらを見上げている。背中の紅い光の粒が、窓からの光を受けてかすかに瞬く。
緒締玉に指先を当てる。
地上では魔道具の膜は張らない。確かめられるのは回路の中を流れる魔力の通り道だけだ。それでも、流してみたかった。
少しだけ、魔力を流す。
青い球から、三本撚りの腱の紐へ。紐から狐の紐穴へ入って、背中の毛並みを流れ、肩の先で向きを変えて前脚へ。前脚から鞠へ渡って、かがり糸の菱形の中を巡っていく。何度も確かめてきた、いつもの道だ。
方眼紙の三つ目の菱形を思い浮かべながら、流れを鞠の右下のほうへ寄せられないか、意識してみる。
変わらなかった。
当たり前だ。魔道具は使う人がそう思っただけで回路が変わるものじゃない。流れは彫った溝のとおりにしか流れない。変えたいなら、溝を変えるしかない。
指を離そうとした、そのときだった。
鞠を巡りきった流れが、緒締玉のほうへ戻ってくる。
そんなはずはない。流れは鞠で外へ開くか、地上なら鞠の中で静かに消えるはずだ。それなのに何かが、紐を伝って逆にこちらへ上ってくる。冷たくも温かくもない、細い指で手の甲をなでられたような感覚が、緒締玉に当てた指先に返ってきた。
「――ああ。そこではありませんよ」
声がした。
すぐ近くからだった。作業場の奥でも、窓の外でもない。作業台の上の、狐のあたりから。
聞いたことのない声だった。若い男の人の声で、柔らかくて、落ち着いている。かすかに笑いを含んでいて、それでいて、ずっと昔から知っている人の声みたいに、耳の奥へまっすぐ入ってくる。
僕は狐を見る。
狐の根付のすぐ上に、何かがいる。
最初は作業灯の光が目に残っているのかと思った。根付の上の空気がほのかに白く光っている。その光がゆっくり形を結んでいく。
手のひらに乗るくらいの、人形みたいに小さな誰かだった。頭が体のわりに大きくて、背中へ長い髪が流れている。その髪のあいだから、とがった狐の耳が二つのぞいていた。頭には小さな烏帽子をのせ、体はゆったりした袖の狩衣に包まれている。
そして顔には、白い面をつけていた。
能の面だ。前にテレビで見たことがある。細く描かれた眉と、わずかに開いた薄い唇の、若い貴族みたいな静かな顔。その面をつけた小さな誰かが、牙の狐の頭の上に、袖を膝に重ねてちょこんと座っていた。
僕は緒締玉から指を離した。
寝不足だ、と思った。ゆうべ遅くまで起きていたし、昨日は一日じゅう落ち着かなかった。だから、目が疲れているんだ。
小さな姿は消えなかった。
「指を離しても、吾はまだいますよ」
面の下から声がする。面の唇は動かないのに、声は確かに、その小さな姿から聞こえていた。
「…え」
「そんなに驚かなくてもいいでしょう。この器を作ったのは、其方ではありませんか」
器。
僕は牙の狐を見下ろす。その上に座っている、面をつけた小さな誰かを見た。それから、もう一度、牙の狐を見た。
「…神様、ですか」
自分の声が思ったよりかすれていた。
小さな姿は、狩衣の袖を口元へ寄せるようにして首をかしげた。それが肯定なのかどうか、僕にはまだ読み取れなかった。
「吾のことは、スイと呼んでください」
「スイ、様」
「様は、つけてもつけなくても構いませんよ」
スイ様はそう言って、根付の頭の上で座り直す。
僕は椅子を引いて、作業台に向き直る。手が震えていた。アイカのブレスレットに石神様がいると聞いたときも、木の葉のイヤリングの人から連絡が来たときも、僕には何も見えなかったし、何も聞こえなかった。今は見える。聞こえる。目の前で、狐の耳が揺れている。
「いつから、いたんですか」
やっと出てきたのは、そんな質問だった。
「さて…目が入ったころでしょうか」
スイ様は自分の下の牙の狐の顔を、袖からのぞく指の先でちょんとつついた。
「二層で、あの剣の子に叩かれていたところも見ていましたよ。昨夜、遅くまで紙に線を引いていたことも」
全部、見られていた。二層で膝が笑って座り込んだのも、角ウサギに「立ってる」と変な返事をしたのも。
顔が熱くなる。
「どうして、これに」
聞いてから、それが一番聞きたかったことだと気づいた。
僕は神様を呼ぼうとして作ったわけじゃない。暴走ボアの牙をもらって、初めて扱う素材だから、まず自分で確かめようと思った。それだけだった。
スイ様は少しのあいだ黙っている。
「小さな神々のあいだで、少し噂になっていたのです」
「小さな、神々」
「石の子や、木の葉の子たちですよ。妙に細かな器を作る人の子がいる、と話していました」
石の子。木の葉の子。
アイカのブレスレットと、あのイヤリングのことだ。
「それで、吾も見に来たのです。そうしたら其方は、ちょうど牙に狐を彫っていました」
スイ様は牙の狐の背中を、小さな手でゆっくりなでる。そこには僕が肩の先で向きを変えさせた毛並みが、何十本も並んでいる。
「毛の流れを、肩できちんと変えていましたね。爪についた傷も、捨てずに形の中へ入れた。鞠の糸など、上と下まで彫り分けている。ああいうものは、なかなかありませんよ」
「でも、神様を呼ぼうと思って作ったわけじゃ…」
「知っていますよ」
スイ様はあっさりと言う。
「だから、吾は来たのです」
僕は何も言えなかった。
だから来た。呼ぼうとして作ったわけじゃないから。ただ、自分で使う物を、自分で確かめたくて、毛の一本、爪の一本まで彫っただけだから。
スイ様は作業台の上の方眼紙に目をやる。
「それで、其方。あれは何をしようとしているのです?」
僕は方眼紙を引き寄せる。ゆうべの、消しゴムの跡だらけの紙だ。
「膜を…寄せたいんです」
言葉にしてみると、自分でもまだうまく掴めていないのが分かった。それでも、続けた。
「二層で叩かれたとき、膜は全身に同じ厚さで張ってました。叩かれたところに、紅い粒が集まって。でも、叩かれてないところにも、同じだけ魔力が流れてて。僕の魔力じゃ、十何回で動けなくなって。だから、受けたところにだけ寄せられたら、もっと長く持つんじゃないかって」
スイ様は方眼紙の三つ目の菱形をじっと見ていた。何度もなぞって濃くなった線のところだ。
「ですが其方、それはもう寄っていたのでしょう?」
「…え」
「叩かれたところへ、粒が集まっていたのでしょう? 其方が何もしなくても」
僕は方眼紙から顔を上げる。
二層の広間でアイカの剣の腹が肩に当たるたびに、紅い粒がそこへ集まっていた。柄で胸を突かれたときは、胸のあたりに。角ウサギが脛にぶつかったときは、脛のまわりに。
誰も、そうしろとは言っていなかった。回路にも、そんな溝は彫っていない。それでも、粒は受けたところへ集まっていた。
寄ろうとしていたのだ。最初から。
それなのに僕は全身に同じ厚さの膜を張る回路のまま、そこへ魔力を流し続けていた。寄ろうとする流れを、回路のほうが全身へ引っ張って、均していた。
全部を作り直さなくていいのかもしれない。
アイカのブレスレットの、端の三目だけを直したみたいに。寄ろうとしている流れを邪魔しているところだけを、見つけて直せば。
僕は鉛筆を取った。三つ目の菱形の、何度もなぞった線を消しゴムで消す。
消しかけたところで、スイ様が言った。
「そこまで消さなくてもよいでしょう」
「え」
「その右の線は、悪くなかったと思いますけれど」
見ると、消しかけた線の右側に、ゆうべ最初に引いた一本が薄く残っていた。何度も上から描き直しているうちに、自分でも忘れていた線だ。僕は消しゴムを置いて、その線を指でなぞった。
スイ様はそれ以上は何も言わなかった。根付の頭の上で袖を膝に重ねて、面の顔を僕の手元へ向けていた。
階段がきしむ音がする。
じいちゃんが湯のみを二つ持って作業場に下りてきた。何かを取りに二階へ上がっていたらしい。僕の作業台の前で、足を止める。
じいちゃんの目には、何も映っていないはずだった。作業台の上には牙の狐と、方眼紙と、消しゴムのかすがあるだけだ。それでもじいちゃんは、僕の顔と、作業台の上の狐を、しばらく交互に見ていた。
「…来たのかい」
静かな声だった。
「見える。声も、聞こえる」
僕が言うと、じいちゃんは湯のみを一つ、作業台の端に置いた。それから狐の根付のほうへ、ほんのわずかに頭を下げた。そこにスイ様が座っていることを、知っているみたいに。
「なら、ちゃんと話を聞いておきなさい」
それだけ言って、じいちゃんは自分の作業台へ戻っていった。湯のみを持つ手がいつもよりゆっくりだった。
スイ様がじいちゃんの背中を目で追っている。
「あの方は、分かっているようですね」
「…じいちゃんは、昔から神様の話をしてたから」
「そうでしたか」
スイ様は、それきり黙る。
「…あの」
僕は、しばらく迷ってから聞いた。
「ずっと、ここにいるんですか」
スイ様は牙の狐の上で、狐の耳を片方だけぴくりと動かした。
「この器を気に入っているあいだは、でしょうか」
それが長いのか短いのか、僕にはまだ見当がつかない。でも、気に入られなくなるような物にはしたくない、と思った。
昼ごはんのあいだ、スイ様は根付と一緒に僕のポケットの中にいた。ポケットに手を入れると、指先に牙の狐の背中が触れる。その上にもう一つ、温かくも冷たくもない気配が重なっているような気がした。
勝手口が鳴ったのは、昼を少し過ぎたころだった。
二回。いつもの、アイカの叩き方だ。
アイカは昨日より顔色がよかった。左手首を軽く持ち上げて、石の上を指でとん、と叩く。
「石神様、起きた。まだ眠そうだけど」
「よかった」
アイカは丸椅子に座って、作業台の上をのぞき込んだ。方眼紙と、消しゴムのかすと、牙の狐。
僕はつい狐の上を見てしまった。スイ様がアイカのほうへ耳を立てている。
「どうしたの」
アイカが僕の視線の先を追う。でも、アイカの目には、牙の狐しか映っていないはずだった。
僕は少し迷った。言っていいのか。言って、どう説明すればいいのか。
「…いるみたい」
アイカはすぐには何も言わない。
僕の顔を見て、それから狐の根付を見て、もう一度僕の顔を見る。少し間があった。
それからアイカは自分の左手首に目を落とす。
アイカの目がわずかに見開かれた。たぶん、石神様が鳴ったんだと思う。僕には聞こえない音だ。アイカの目が、左手首と狐の根付のあいだをゆっくり行き来していた。
スイ様がアイカの手首のほうへ、袖を軽く持ち上げてみせる。
「…石神様が、そっち見てる」
アイカが小さな声で言う。
「狐のほう。じっと」
石神様とスイ様が何をやり取りしているのかは、僕にもアイカにも知りようがない。アイカは何か聞きたそうな顔をしたけれど、結局、それ以上は何も言わなかった。かわりに狐の根付を前よりも丁寧に見つめた。
アイカが帰ったのは、夕方だった。
勝手口で振り返って、「また来る」と言った。昨日の「また明日」より、少しだけ先のことまで含んでいるように聞こえた。
夜。
晩ごはんのあとで、作業場に下りる。作業灯を一つだけ点けて、作業台に向かう。
牙の狐の上にスイ様がいた。昼間と同じように、袖を膝に重ねて座っている。作業灯の光の中で、その輪郭は昼間より少しはっきり見えた。
今までこの作業台には、僕一人しかいなかった。
じいちゃんは奥の作業台にいて、アイカは丸椅子に座りに来て、サキさんはお茶を置いていく。でも、この作業台の前で、紙に線を引いて、端材を彫って、魔力を流しているときは、いつも一人だった。
今は手を伸ばせば届くところに、誰かがいる。
方眼紙を広げる。三つ目の菱形は昼間に消したままになっていた。寄ろうとしている流れを、どこで回路が邪魔しているのか。それを探すにはまず鞠の溝を、もう一度一本ずつ確かめるところから始めなければならない。
鉛筆を取ったところで、スイ様が言う。
「それで、其方」
僕は顔を上げる。
「次は、何を作るのです?」
すぐには答えられなかった。
狐の膜を直すこと。それはもう決めている。でも、それだけじゃない気がした。アイカのブレスレットは、十層から帰ってきたけれど、使っているうちにまた、どこかが変わっていくだろう。木の葉のイヤリングの人は、今もどこかの街で、あれを毎日着けている。それから、まだ会ったことのない誰か。
作りたいものはたぶん、いくらでもあった。
何も答えないまま、僕は方眼紙に、新しい線を一本引いた。
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第一章末話まで、ご高覧ありがとうございます。
第一章は如何だったでしょうか?
久しぶりにオリジナル小説を書いてみて、なるべく丁寧な表現を心掛けたのですが、かえってテンポが悪くなった気がしています。
第二章は一日一話更新にしたいと思いますので、その分テンポをもう少し改善していきたいと思います。
是非、第二章も引き続きご愛好頂けたらと思います。
良かったら⭐️押して評価して頂けたら幸いです。
ヅダスキー3世




