第四話 神様がいた
イヤリングは昼休みに売れた。
弁当を食べ終えてスマホを見たら、通知が一件来ていた。即決価格で落札されました。出品してから、まだ丸一日も経っていない。
前の席の男子に「なにニヤニヤしてんの」と言われて、あわてて画面を伏せた。
「彼女?」
「違う」
「じゃあ何」
「……オークション」
「渋っ」
何が渋いんだ。
即決価格はいつも開始価格より少し高めにしてある。そのぶん、すぐ欲しい人しか押さない。押してもらえたのは、初めてかもしれない。
放課後、工房の作業台で梱包の準備をする。
作業場の窓は西向きで、この時間になると作業台の上まで日が届く。光の帯の中で、削り粉がゆっくり沈んでいくのが見える。じいちゃんの作業台では、古いラジオが小さな音で野球中継を流していた。誰も聞いていないのに、いつもついている。
小さな紙箱に、薄紙を一枚敷く。
イヤリングを置く前に、もう一回だけ作業灯の下で回してみる。
飴色の木の葉の縁に沿って、細い溝がぐるりと一周している。付け根の魔石から葉先へ一本、そこから左右へ細い葉脈が何本も。彫刻刀の刃を寝かせて少しずつ進めたところだ。右側の葉脈の一本だけ、刃が木目に引っかかって溝が太くなりかけて、そこから先は息を止めて彫った。
よく見ても、たいていの人は気づかない。でも、僕は覚えている。
イヤリングを置いて、もう一枚薄紙をかぶせる。金具の先が紙を突き破らないように、そこだけ小さく折り返しておく。箱の中で転がらないか軽く振ってみて、少しだけ動くので、隙間に丸めた薄紙を詰める。
もう一回振る。動かない。
それからメモ用紙を一枚ちぎった。
何か書こうか迷って、結局「ありがとうございました SHIN」とだけ書く。字が少し右に傾いたので、書き直す。二枚目も傾いた。まあ、いいか。
箱を緩衝材でくるんで、封筒に入れる。
取引画面で匿名配送を選ぶと、コンビニで使う番号が出てくる。相手の名前も住所も、僕には見えない。向こうにも、僕の名前は見えない。
どんな人が買ったんだろう。
即決で買うくらいだから、写真を見て気に入ってくれたんだと思う。
あの斜め下からライトを当てた写真かな。葉脈の影がいちばんきれいに写ったやつ。
「シンジ、手が空いたら表の箱を裏へ回してくれるかい」
隣でじいちゃんが杖の頭に彫刻刀を当てながら言った。
「うん。これ出してきたらやる」
「ああ、急がなくていいよ」
封筒を持って、裏口から出る。
コンビニまでは歩いて五分くらいだ。商店街の入口の角にある店で、軒先のベンチでは、部活帰りの中学生が肉まんを分け合っている。
自動ドアが開くと、冷房の名残みたいな冷たい空気が顔に当たった。もう肉まんの季節なのかと思ったけれど、レジ横の蒸し器のガラスは湯気で曇っていて、中身は半分も残っていなかった。
その隣には、冒険者向けの量産品のお守りが吊るしてある。魔石の粒が一つ入った、プラスチックのやつだ。
裏返すと、型で抜いた線が三本だけ入っていた。太くて、まっすぐで、角がきっちりしている。これはこれできれいだと思う。一本も迷っていない線だ。
レジで番号を見せると、店員さんが慣れた手つきでシールを貼って、控えを渡してくれる。封筒が店の奥のかごに入れられるのを、なんとなく最後まで見ていた。
店を出て、帰り道は川沿いの道を少しだけ遠回りする。
土手のすすきが、ちょうど穂を出し始めている。赤とんぼが二匹、水面すれすれを行ったり来たりしていた。
橋の下の河原が見える。ブレスレットの石を拾ったのも、この川だ。水が少なくて、白っぽい石が並んで日に当たっている。次はどれにしようか、とつい目で探してしまう。
夏の大雨で一度水かさが増えたせいか、河原の石は、どれも角が取れて白っぽく洗われていた。
自分が作ったものが、知らない人のところへ行く。
ペンダントトップや髪留めも、前に何個か売れたことはある。でも、今回のは少し違う気がする。
あのイヤリングは木を彫るのがいちばん楽しかった。
ポケットの中で、スマホが震える。
アイカからだった。
『今から行く。話ある』
話ある。
昨日の夜の返事は既読のままずっと止まっていた。
それが急に、これだ。
きつかったのかな。石が当たって痛かったとか。それとも留め金が外れて、どこかに落としたとか。
ダンジョンに潜るって、今日言ってたはずだ。潜って、何かあったのか。
歩く速さが自然に上がった。
工房の裏口に着くと、ちょうど勝手口の前にアイカが立っていた。
日はもう落ちて、路地の街灯が点いていた。
制服に着替えてはいるけど、髪の先がまだ少し湿っている。近くに寄ると、なぜか串カツの匂いがした。
「おかえり、じゃなくて。えっと、話って」
「中で」
アイカは僕より先に勝手口を開けて、いつもの丸椅子に座った。
僕は裏へ回すはずだった箱のことを、完全に忘れていた。
作業場にはじいちゃんがいない。
表からサキさんの声がするから、お客さんの相手をしているんだと思う。
作業灯はまだ点けていなくて、作業場は夕方の青い薄暗さに沈んでいる。窓の外の空だけが明るい。じいちゃんの作業台には、彫りかけの杖の頭が、布をかけないまま置いてあった。
アイカは左の袖をまくる。
手首に、ブレスレットがある。
石も、編んだ革の帯も、波模様の留め金も、昨日渡したときのままに見える。
「壊れた?」
「違う」
「きつい? 当たる?」
「違う」
じゃあ何だ。
アイカはブレスレットを見下ろしたまま、しばらく黙っている。
言いにくいことなんだろうか。気に入らなかった、とか。
「……神様がいた」
「は?」
変な声が出た。
「これに。神様が、入ってた」
アイカはブレスレットの石を指でそっと押さえる。
いつもと同じ、短くて平らな声だった。冗談を言うときの顔でもない。そもそもアイカはこういう冗談を言わない。
神様。
神社の神様。神棚の神様。どっちも、僕の作業台からは遠すぎる。
「ごめん。もう一回言って」
「神様。ブレスレットに」
「三層目で、鉄尾トカゲに会った」
「うん」
「尻尾が、ユズの盾の外から回ってきて。ナツメのほうに」
「え、ナツメ大丈夫だったの?」
「大丈夫。私が前に出たから」
「前に出たって、受けたの? あの尻尾を?」
「受けた。そしたら、石が出た」
「石」
「壁みたいなの。手首のとこから」
アイカは左手首を胸の前に上げて、手のひらを立ててみせた。このくらい、と言いたいらしい。
「そのあと、これの上に、なんかいた」
「なんか」
「丸いの。親指くらいで、灰色。この石と同じ線が入ってた」
アイカにしてはものすごく長くしゃべっている。
話しながら、ときどき首をかしげた。自分でも、全部は分かっていないらしい。
「その丸いのが、神様?」
「たぶん。ナツメもそう言った」
「しゃべったの?」
「しゃべらない。ころころ、って鳴るだけ」
「ころころ」
「石が転がるみたいな音。私にしか聞こえないっぽい」
「ほかには?」
「手、こうやって開いてた」
アイカが真顔で両手をぱっと開いてみせる。
「……何それ」
「ぶつけろ、って意味だった。たぶん。三回目で分かった」
三回目。
一回目と二回目は何だと思ったんだろう。聞いたら、アイカが黙りそうなのでやめておいた。
僕はアイカの手首を見る。
ここに、何かがいる。そう言われても、見た目はただのブレスレットだ。
思わず顔を近づけた。耳を澄ませば、ころころが聞こえるかもしれない。
「ちょっと」
アイカが手首を引っ込めた。
近すぎた、と気づいたのは、アイカが少しだけ横を向いてからだ。
「ごめん」
「……聞こえないと思う。私にしか」
「そっか」
「今も、いるの?」
アイカは手首を顔の前に持ち上げて、じっと見る。
「中にいると思う。でも、出てこない」
「人見知り?」
アイカはちょっとだけ肩をすくめた。
それから人差し指で石を軽く叩く。
「出てきて」
何も起きない。
もう一回叩く。
真ん中の魔石が一回だけ、ぽっと光った。すぐに消える。
「今の、返事?」
「……寝てるのかも」
「賑やかな声がすると思ったら、アイカちゃんかい」
表から、じいちゃんが戻ってくる。
「お邪魔してます」
アイカが立ち上がって頭を下げると、じいちゃんは手のひらでそれを押しとどめて、また座らせた。
それから僕とアイカの顔を順番に見て、少しだけ首をかしげる。
「どうしたんだい。二人とも、ずいぶん難しい顔をしているね」
それから思い出したように僕に言う。
「表の箱は、サキさんが運んでくれたよ。お礼を言っておいで」
「あ」
完全に忘れていた。明日、サキさんに何かお菓子でも持っていこう。
僕が説明しようとして、うまく言葉が出てこなくて、結局アイカがもう一回同じ話をした。
二回目は一回目より少しだけ短かった。
じいちゃんは途中で一度も口を挟まなかった。
最後まで聞いてから、穏やかに言う。
「アイカちゃん。その石の壁、ここで出せるかい」
「やってみます」
「無理はしなくていいよ。出せなかったら、それでいいからね」
アイカは作業場の真ん中まで出て、左腕を胸の前に上げる。
一度、目をつぶった。
音はしなかった。
アイカの腕の前に、石の板が立っていた。
厚さはアイカの手のひらくらい。高さはアイカの肩まである。
表面はざらざらしていて、ところどころに細い線が走っている。僕がブレスレットに彫った線に、よく似ている。
「……うわ」
それしか言えない。
「ユズの盾より硬いって。ユズが言ってた」
アイカが腕を上げたまま小さく付け足した。
じいちゃんはゆっくり近づいて、石の板の縁に指先で触れた。
叩きもしないし、押しもしない。ただ、しばらく触れていた。
「ありがとう。もう下ろしていいよ」
アイカが腕を下ろすと、石の板は砂になって崩れ、床に落ちる前に消えた。
床には何も残っていない。削り粉の一粒もない。
僕は思わず表へ続く扉のほうを見た。
サキさんとお客さんの話し声は、さっきと同じ調子で続いている。何も聞こえなかったらしい。
「じいちゃん、今の」
「魔道具の効果じゃないね。ここは地上だもの」
じいちゃんは自分の指先を見ている。
そもそも、壁を出す回路なんか彫った覚えはない。
「アイカちゃん、少しだけ手首を借りてもいいかい」
アイカがうなずいて左手を差し出すと、じいちゃんは作業灯を点けてから、ブレスレットの石に指の腹を当てた。
目を細める。魔力を流しているんだと思う。
長かった。
籠手を見たときより、ずっと長い。
「通りは、とてもきれいだよ。どこにも詰まりがない」
じいちゃんは指を離した。
「でもね、これで分かるのは通りがいいことだけだ。神様がいるかどうかは、魔力では分からないんだよ」
それから僕を見た。
「シンジ。これを作ったときのことを、最初から聞かせてくれるかい」
「えっと、河原の石と、じいちゃんの籠手の端材。缶の中で、いちばん色がきれいだったやつ」
「線は、両方に彫ったのかい」
「うん。はめたらつながるように」
「どこか、直したところは」
「左の一本。深さが合ってなくて、直したら今度は向きがずれてて。あと、溝の底に削り粉が残ってたから、筆とアルコールで掃除した」
「樹脂は、いつものを二回かい」
「うん。一回目は溝のあるところ。二回目は石の縁から魔石の縁まで、全部」
「うん」
「裏は?」
「角が一個残ってたから、砥石で消した」
じいちゃんはそれ以上は何も聞かなかった。
じいちゃんは僕の作業台の上を見ていた。
端材の缶を開けて、中の破片をいくつか手のひらに出す。使いかけの球形のビットを、作業灯にかざす。いちばん目の細かい砥石の、すり減った面を親指でなぞる。
作業灯の白い光が、じいちゃんの手のひらの上の破片を一つずつ照らしていく。窓の外に残っていた青みも消え、ガラスには作業場の中が鏡みたいに映っていた。そこに映ったじいちゃんの顔は、本物よりもっと硬く見えた。
こんな顔のじいちゃんは、あまり見たことがない。難しいお客さんの注文を聞いているときに、たまにする顔だ。
「……そうかい」
じいちゃんはビットを作業台に戻した。
アイカがちらっと僕を見た。何か言いたそうで、でも何も言わない。
「神は細部に宿る、か」
本当に神様は宿るんだよ。
小さいころから、何百回も聞いてきた。手を抜くなって意味だと、ずっと思っていた。
本当に、宿ったのか。
僕はアイカの手首を見る。
灰色に少し緑の、平たいドーム。何重にも広がる輪と、それを横切る細い線。真ん中の、青い魔石。
昨日、作業灯の下で回して、けっこういいんじゃないかと思ったやつだ。
あれが。
自分の手を見る。いつもの、削り粉で指先の白い手だ。
「あの」
アイカが小さく言った。
「返しに来たんじゃないです」
僕もじいちゃんも、アイカを見た。
「何があったか、言いに来ただけ。……これは、このまま着けてたい」
最後のほうはほとんど聞き取れないくらいの声だった。
アイカは左の手首を、右手でそっと包んでいる。
「うん。アイカちゃんのものだからね」
じいちゃんがやっと少しだけ笑った。
「ただ、今日のことは、しばらくはアイカちゃんと仲間の子たちの間だけにしておいてくれるかい。理由は、またちゃんと話すよ」
「はい」
アイカはうなずいて、袖を下ろした。
ブレスレットが袖口の下に隠れる。
「それと、シンジ」
じいちゃんが今度は僕のほうを向く。
「このことを、誰かに話したかい」
「話してない。今聞いたばっかりだし」
「そうだね。じゃあ、ほかの練習作品は? 同じように作ったものが、どこかにあるかい」
ほかの練習作品。
ペンダントトップ。髪留め。
全部、同じ端材の缶から出した魔石で、同じように線を彫って、同じようにレジンを掛けた。
昨日の夜、オークションに出した。
それから、あの木の葉のイヤリング。
「……ある。何個か、出品してて」
じいちゃんは黙って、続きを待っている。
「一個、もう売れた」
口に出してから、ポケットの中の紙に気づいた。
さっきコンビニでもらった、発送の控えだ。
「今日、送った」




