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端材の神様 〜魔道具職人見習いの練習作品は、なぜか依代になる〜  作者: ヅダスキー3世
第二章 七つの品

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第四十三話 歳神

 蓋を持ち上げたとき、重箱の上に冠が浮かんでいた。

 

 手のひらに載るくらいの、小さな冠だ。細い金の輪に紅と白の水引(みずひき)が巻きつけてあって、正面で一つに結ばれている。左右に輪を作って真ん中で絡み合う、ご祝儀袋で見る結び目だ。数えると、紅と白が五本ずつある。金の輪は髪の毛ほどの線を何本も撚り合わせたように見えて、継ぎ目がどこにもない。輪のまわりには柳の葉のような金の飾りがいくつも下がっていて、作業灯の光を受けて細かく震えている。空になった一の重の朱に、その金がちらちらと映っていた。

 

 顔はない。手も足もない。それでもこっちを見ているのは分かる。

 

 スイ様が初めて根付の上に座ったときは、寝不足のせいだと思った。今度はそうは思わなかった。蓋を持ったまま、気がつくと頭を下げていた。

 

「…はじめまして」

 

 結び目が、かすかに揺れる。

 

「ようやく、蓋が開きましたね」

 

 声は冠のあたりから聞こえる。高くも低くもない、ゆっくりした声だ。

 

「あなたが、この器を作った方ですね」

 

「…はい」

 

 作業台の端で、スイ様が根付の上から立ち上がった。烏帽子が膝につくほど深く頭を下げると、長い髪が肩の前へさらりと落ちる。

 

「お待ちしておりました」

 

「狐の方ですね。これから、お世話になります」

 

 冠がスイ様のほうへ小さく傾く。スイ様は面を上げて、根付の上に座り直す。神様どうしの挨拶はそれで済んだらしい。

 

「…シンジ」

 

 アイカの声で、自分がまだ腰を折ったままだと気づいた。蓋を作業台に置いて顔を上げる。アイカは左の手首を右手で包んでいた。

 

「神様が、来た。重箱に」

 

「…うん」

 

 アイカは驚いていない。

 

「石神様が、鳴った。小さい人も、そっちにお辞儀してた」

 

 僕には見えない神様たちが、先に挨拶をすませていたのだ。

 

「どこにいるの」

 

「ここ。重箱の上に浮かんでる」

 

 指でさすと、アイカは作業台に一歩だけ近づいてその何もないところをじっと見つめる。

 

「どんな神様?」

 

「冠。紅白の水引が結んであって、金色の飾りが下がってる」

 

「…お正月みたい」

 

 金の飾りが、くすぐったそうに揺れる。アイカの目は、冠のある場所より指一本ぶん左を見ていた。

 

「人には、歳神(としがみ)と呼ばれています」

 

「歳神様、だって」

 

 伝えながら、正月の朝の居間を思い出していた。ちゃぶ台の真ん中で、ばあちゃんが重箱の蓋を開ける。そのまわりで、お雑煮の椀が湯気を立てている。

 

 アイカは重箱のほうへ小さく頭を下げた。それから荷物を肩に掛け直して、帰る、とだけ言う。勝手口を出る前に振り返って、もう一度重箱のほうを見ていった。

 

 試した物を捨ててから、一の重と二の重を台所へ運んだ。冠は僕の肩の高さをすべるようについてくる。

 

 流しで柔らかいスポンジを使って朱を洗う。熱いお湯と固いたわしは漆を傷めるから使わないように、とじいちゃんに教わっている。二の重の隅では煮物の汁が薄く乾いていて、一の重の隅には卵焼きのかけらが一つ残っている。

 

「甘い匂いがしますね」

 

「じいちゃんの卵焼きです。砂糖が多くて」

 

「年の初めに、よく似た匂いをかぎます」

 

 伊達巻(だてまき)のことだろうか。かけらを流すと、冠は朱の隅のほうへ寄っていった。

 

「隅が丸いのですね」

 

「ばあちゃんの重箱がそうだったんです。食べ物が触れるところに溝があると、洗っても残るから」

 

「洗う方のことまで考えてあるのですね」

 

 結び目が小さく揺れる。水を切って乾いた布で朱を拭く。濡れたまま置くと跡が残るのも、漆の器の決まりごとだ。

 

 作業台に戻って段を重ねると、冠は四つの面を順に回った。亀が泳いでいる面で、ふと止まる。

 

「藻が、縁の真ん中まで届いていますね」

 

「そこから次の段へ渡るんです」

 

「どの向きに重ねても、つながるのですね」

 

「休憩所で十分しかない人は、向きなんか見ないと思ったから」

 

 その十分が、今日は四十分になっていた。ナツメが予定表の裏から開けた時刻と閉めた時刻を読み上げてくれたのだ。

 

「使う方の手まで、よく見ているのですね」

 

 金の飾りが作業灯の下できらりと揺れる。

 

「いつから、待っていたんですか」

 

 スイ様にも同じことを聞いた。あのときは、目が入ったころでしょうか、と言われた。

 

「この器に初めて光が巡った日から、気にかけておりました。ただ、宿ったのは先ほどのことです」

 

 二層の広間で鶴の頭から光が走った日だ。その晩、スイ様が「待っておられる」と言った。

 

「どうして、今日だったんですか」

 

「器は一度使われてみないと分かりませんから。それに、最初のご挨拶は作った方にと決めていました」

 

 冠が僕のほうへまっすぐ向き直る。

 

「この器を囲んで一緒に食べた方には、一人に一度だけ、厄を逸らしてさしあげられます」

 

 すぐには意味がのみ込めなかった。食べ物を長く保つために作った重箱だ。それが食べた人まで守るのだという。

 

「どのくらいの厄まで、ですか」

 

「それは、そのときの厄に聞いてみないと」

 

 冠が首をかしげるように傾く。

 

「もう一度囲んだら、また…」

 

 結び目がゆっくり揺れただけで、答えは返ってこない。

 

 去年の十一月、十層から帰ってきた日の四人を思い出す。ユズの襟元からは湿布の端がのぞいていて、マオは一歩ずつ腰をかばいながら歩いていた。あの朝この重箱があったら、と考えかけてやめた。

 

 厄がどこまで逸れるのかを確かめるには、誰かが本当に厄に遭わなければならない。二層の柱を相手に試せる力ではない。

 

「今日食べたアイカたちには」

 

「お昼には、まだこの器に宿っていませんでしたから」

 

 そうか、と思った。アイカの手首には石神様がいて、耳の上には小さな人がいる。それで十分だと思うことにした。

 

 方眼紙の三品の比較の下に、歳神、と書きかけてやめる。書いたところで、確かめたことにはならない。

 

 じいちゃんが寄り合いから戻ったのは、九時を過ぎてからだった。勝手口が開くと、夜の路地の湿った空気が入ってくる。片手には、寄り合いで配られたらしい菓子の包みを提げていた。

 

「じいちゃん。重箱に、神様が来た」

 

 上着を脱ぎかけた手が止まる。

 

「…そうかい」

 

 じいちゃんは老眼鏡をかけて、重箱を作業灯の下へ引き寄せた。蓋を取って、朱を明かりにかざす。段を一つずつ外しては、上の段の底が載る平らな面を指でなぞっていく。接点を作ったところだ。最後に、蓋の鶴の羽を指の腹で端から順に確かめた。人に渡す物を確かめるときの手つきだ。

 

 冠はそのあいだ、じいちゃんの手元の少し上に浮かんでいる。

 

「この留め具は、この方の手ですね」

 

 紐の真鍮の留め具のことだ。小さくうなずくと、金の飾りが満足そうに揺れる。

 

 じいちゃんは老眼鏡を外した。

 

「いい仕事をしたね」

 

 神様のことより先に、じいちゃんはそれを言った。胸のどこかが、すっと静かになる。

 

「神様がいらしてくださったのは、ありがたいことだよ」

 

 じいちゃんは重箱に向かって、軽く頭を下げる。見えていないはずなのに、頭を下げた先はちょうど冠の浮かんでいるところだった。冠も同じだけ傾く。

 

 歳神様から聞いたことは、そのまま話した。囲んで食べた人の厄を一人に一度だけ逸らすこと。どのくらいの厄まで逸らせるのかは、教えてもらえなかったこと。

 

「それで、どうするんだい」

 

 じいちゃんは何も決めずに、僕の顔を見ている。

 

「…売る。迷宮で囲んでもらうために作ったから」

 

 ナツメたちは、十分のはずの休憩を四十分にした。知らない誰かにも、そういう時間があればいいと思う。

 

「神様のことは?」

 

「書かない。確かめられないから。厄を逸らすなんて、試しようがないし」

 

「試そうとしちゃいけない力だね」

 

 じいちゃんはゆっくりうなずいた。

 

「売るのは、シンジの作った重箱だよ。神様は、それを気に入ってついてきてくださるんだ」

 

 それから菓子の包みを作業台の端に置いて、今日はもう寝なさい、と言った。

 

 次の日から、収納袋に取りかかった。

 

 方眼紙の端には、ナツメの予定表と同じ「角」の字が残っている。紐を掛けたままの重箱を巻き尺で測ると、幅が19センチ、高さが22センチあった。結び目のぶんだけ上に指一本の余裕をとる。

 

 外側は工具を巻いておくのと同じ紺の帆布(はんぷ)にした。二枚重ねた帆布のあいだに、厚さ5ミリのフェルトを挟む。角が当たる四隅だけは、フェルトを二重にする。外からは工房の革の端材を三角に切って当てた。帆布とフェルトを重ねると針がなかなか通らないので、革に使う菱目打ちで先に穴を開けてから、蝋を引いた糸で縫い留めていく。木槌で菱目打ちを叩く音が、夕方の作業場に何十回も続いた。冠はその音がするたびに、金の飾りを小さく震わせている。上の面は三方が開いて、蓋のようにめくれる。その真ん中に革の持ち手を一本付ける。

 

 最初に縫い上がった袋は、きつすぎた。重箱を入れようとすると、フェルトが角に引っかかって途中で止まる。休憩所でこれを引っぱり出すのに手間取るようでは困る。縫い目をほどいて、内側をひと回り広げた。

 

 二つ目の袋には、重箱がするりと収まった。

 

 冠が、めくった上の面から中をのぞき込む。

 

「暗くて、静かですね。休憩所に着くまでなら、ちょうどいい」

 

 台所の米をビニール袋に小分けにして、三つの段に詰める。四人ぶんの料理とだいたい同じ重さになる。

 

 作業台の端で、スイ様が袋のまわりを一周していた。

 

「其方。その持ち手で持ち上げたら、蓋のほうが開きませんか」

 

 持ち手をつかんで持ち上げてみる。三方の縫い目がきしんで、上の面が袋から浮く。中の米の重みが、まるごと蓋の側にかかっている。

 

 スイ様はそれ以上何も言わずに、根付へ戻っていった。

 

 持ち手は付け直すことにした。底から両脇を通って上へ回る革の帯を一本縫い付けて、その真ん中に持ち手を付ける。持ち上げたときの重さは帯が受けるので、蓋の縫い目は引っぱられない。蓋を開けるときは、帯を横へ倒せばいい。重さのかかるところを帯で受けるのは、十文字の紐と同じ考え方だ。

 

 袋に入れた重箱を自分のリュックの底に据えて、隣に金属の水筒を立てた。背負って路地を出て、商店街の端まで歩いて戻る。八月の午後の舗道は、靴の底まで熱い。肉屋の前を通ると揚げ物の匂いがして、リュックの中の米の重みが一歩ごとに背中へ寄ってくる。工房の土間に戻ってからは、リュックを背負ったまま何度か跳ねてみた。迷宮の中では走ることも転ぶこともあるはずだ。

 

 リュックを開けて、水筒の横腹を指の腹でなぞる。へこみはどこにもない。袋の上から角を押すと、フェルトの厚みのぶんだけ指が沈む。リュックの口から手を入れて持ち手をつかむと、蓋を閉じたまま袋ごと重箱が上がってきた。

 

 帳面に、袋の材料の行を書き足した。

 

 袋に入れた重箱の写真をアイカに送ると、しばらくして返事が来た。

 

『ナツメが、丸って』

 

 説明文はまた、じいちゃんと二人で考えた。

 

 最初の下書きには、一日持ちます、と書いていた。読み返して、自分で消す。確かめたのは、あの日のあの三品がふつうの容器より遅く傷んだことだけだ。

 

 補充のことも書き方を迷った。ナツメが足したときは、一瞬しか吸い込まなかった。その日に使ったぶんが少なかったことまでは言える。けれどそれで、何日もつかまでは言えない。残りの量は数字では分からない、とだけ書くことにした。

 

「食べ物を入れる物はね、入れる前のことも書いておくんだよ」

 

 じいちゃんはそう言って、下書きの終わりのほうを指で叩いた。傷んだ物は箱に入れても戻らない。詰める前が肝心だ。重箱を作り始めたころ、じいちゃんが言っていたことだ。

 

 材料の名前は書かなかった。問屋で甲殻と牙のことを尋ねていった人のことは、まだ忘れていない。じいちゃんは老眼鏡をかけ直して、書き上がった説明文を最後まで読んだ。それから、うん、とだけ言った。

 

『檜の木地に漆を塗った、三段の重箱です。外寸はおよそ18センチ角で、外は黒、内は朱です。内側には回路も彫りもなく、平らな朱漆で仕上げています。外側の鶴と亀の絵が、保存の術式の回路を兼ねています。術式は中の食べ物の傷みを遅らせるもので、冷やす働きはありません。迷宮に入ったら、蓋の鶴の頭の魔石に触れて魔力を流し、ためてください。蓋を閉じているあいだだけ働きます。開けると止まり、閉じ直すと残りの魔力でまた働きます。残りの量は数字では分かりません。段の順番は決まっていますが、向きはどちらに重ねても働きます。迷宮の中で一日持ち歩いた試験では、ふつうの容器に入れた物より色や乾き方の変わり方が遅いことを確かめました。何日保つかは確かめておりません。食べ物の安全を保証するものではありません。傷んだ物は元に戻りませんので、よく冷ましてから詰めてください。持ち歩くあいだも、ふつうのお弁当と同じ衛生上の注意が必要です。迷宮の外では術式は働きません。食器洗い機と電子レンジは使えません。専用の収納袋と革の紐が付属します。』

 

 写真は作業台に無地の布を一枚敷いてから撮った。作業灯を横から低く当てると、鶴の羽が一枚ずつ白から青へ変わっていく。最後の一枚は袋に入れたところで、帯の持ち手が真上に来るように置き直した。

 

「羽が、少しずつ開いていますね」

 

 画面をのぞき込んで、冠が言う。

 

「翼を打ち下ろす前の形です。きれいに重ねると、線が細くなっちゃうから」

 

「飛び立つ前の形ですね」

 

 撮った写真のどれにも、冠は写っていなかった。

 

 神様のことは、どこにも書かなかった。

 

「それで、いいと思いますよ」

 

 冠はそう言って、鶴の上にふわりと降りる。

 

 出品は週末の夜にした。

 

 入札は最初のうちは静かだった。お気に入りの数だけが、じわじわと増えていく。重箱を欲しがる探索者がどのくらいいるのか、僕には見当もつかない。終了の前の晩になって、いくつかのIDが値を重ね始めた。数字はエーデルワイスのときほどには上がらなかった。そのほうがなんとなくほっとする。

 

 落札したのは、見覚えのないIDだった。定型の一文のあとに、何行か書き足してある。

 

『落札させていただきました。大阪迷宮の深い階層へ四人で持っていくつもりです。深いところに潜るほど、食事は携帯食ばかりになりがちです。この重箱で、四人で落ち着いて食べる時間が作れたらと思っております。届くのを楽しみにしております。』

 

 深い階層というのが何層のことなのか、僕は知らない。それでも、四人で、という一行のところで指が止まった。九層の休憩所でも、四人がこの重箱を囲んだのだ。

 

 その晩、重箱を最後に確かめた。段を外しては接点の面を指でなぞり、蓋を載せ直す。紐を十文字に掛けて、結び目を鶴の胸の上にそろえる。説明文と同じことを紙に書いて、使う順に番号を振った。最後にいつものメモを一枚添える。

 

『ありがとうございました SHIN』

 

 売った物に神様が来たと知るのは、これまでいつも届いたあとだった。今度は、知っていて送り出す。

 

 落札のことは夕方のうちにアイカに知らせてあった。寝る前に短い返事が届く。

 

『いってらっしゃい、って伝えて』

 

 伝えると、冠は前へ深く傾く。それから重箱の上に浮かんで、僕の手元を見ている。

 

「向こうの人にも、話すんですか」

 

「ご挨拶は、します。持ち主になる方ですから」

 

「厄のことは」

 

「言わないでおきます。知っていると、人は厄のほうへ一歩近づいてしまいますから」

 

 確かめられないことは書かない。じいちゃんに言われてきたことと、どこか似ている。

 

 作業台の端で、スイ様が立ち上がる。

 

「道中、お気をつけて」

 

「狐の方も、お元気で」

 

 冠は金の飾りをしゃらりと鳴らして、鶴の上で薄くなって見えなくなった。

 

 重箱を袋に収めて、緩衝材で二重にくるむ。説明書とメモを添えて、段ボール箱に入れた。箱を閉じてテープを貼った。作業台の端には、ばあちゃんの重箱だけが残っている。

 

 次の朝、コンビニで匿名配送の番号を見せて、箱を預けた。商店街はまだシャッターが半分しか上がっていないのに、朝からもう蝉が鳴いている。両手で渡すと、店員さんは重さに驚いた顔をした。

 

 受け取った控えの品名の欄には、僕の字で「重箱」と書いてある。宛先の欄は、いつもどおり空白だ。

 

 それでも、この箱が大阪へ行くことだけは知っている。


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