第四十二話 帰らなくても、おいしい
アイカside
二層で重箱を試した土曜から四日たった水曜日は、朝の七時からもう暑かった。
路地の電線で蝉が鳴いている。勝手口を二回叩くと、中から「開いてる」とシンジの声がした。戸を引いたとたん、漆と革の匂いに甘い卵の匂いが混じって流れてくる。
「おはよ」
「おはよう」
シンジは作業台の向こうで、方眼紙に何か書きつけていた。
その手前に、黒い重箱が置いてあった。三つの段と蓋を細い革の紐が十文字にまとめている。紐の交わるところはちょうど鶴の胸の上で、鶴はその下から翼をいっぱいに広げていた。頭の赤い粒は、紐の脇からのぞいている。紐の端の真鍮の留め具が、窓から入る朝の光を鈍く返していた。
奥の台所から、親方が割り箸の束を持って下りてくる。前掛けの胸に、ご飯粒が一つ付いていた。
「おはよう、アイカちゃん。お昼は全部、よく冷ましてから詰めたからね」
一の重と二の重が、四人ぶんのお昼だ。三の重には、シンジが比べる物を入れてある。
ユズたち三人は、バス停からそろってやって来た。
「お重!」
ユズは作業台に駆け寄って、鼻をひくつかせる。
「卵焼きのにおい、する」
「…する」
マオもうなずく。親方は笑って、割り箸と紙のおしぼりを四つずつ数えてナツメに渡した。
「お昼に、みんなでおあがり」
「ありがとうございます」
ナツメが頭を下げて、私たちも続く。
シンジが重箱の横に、透明な保存容器を一つ置いた。
「三の重とこの容器に、同じ物を同じだけ入れてある。三の重は、食べないで」
ふた越しに、海苔を巻いていない白いおにぎりと切ったりんごが見える。隅の仕切りには青菜のおひたしが詰めてあった。
「お昼に開けるときは、容器も同じだけ開けて。閉めるときも一緒に」
ナツメは予定表を裏返して、開けた時刻と閉めた時刻の欄を書き足していく。
「それから、帰る前に鶴の頭にもう一回触ってほしいんだ。どれくらい吸い込むか教えて」
欄の下に「補充」と一行足される。
「書いた」
背負うのはナツメになった。記録をつける人が持つのが合理的、と本人が言う。
「真ん中なら、いちばん揺れない」
並んで歩くとき、ナツメはいつもユズのすぐ後ろにいる。前からも後ろからも、いちばん遠い場所だ。
シンジは重箱を両手で持ち上げて、ナツメに渡す。
「一日、よろしく」
「預かる」
ナツメはリュックの底に重箱を据えて、隣に保存容器を立てる。すき間には水筒とタオルを詰めていった。肩紐に腕を通したとき、膝が一瞬だけ沈んで、すぐに伸びる。
シンジは来ない。九層まで一緒に下りるのは、まだ無理だ。本人もそれは分かっていて、勝手口の外まで出てきて私たちを見送った。
バスのあいだ、ナツメはリュックを膝の上に抱えたまま一度も下ろさなかった。
管理棟のゲートを抜けて石の門をくぐると、入口の広間の床に石の円がいくつも並んでいる。ナツメが配ったクリスタルを握って、四人で同じ円の上に立った。五層の階層主を倒したときにもらったものだ。
光が引くと、体がふっと軽くなった。五層の下り階段の手前の部屋だ。ナツメはまずリュックを下ろして、紐の脇から鶴の頭の赤い粒に指先を当てる。
最初に灯ったのは、その粒だった。細い光の線が鶴の首を走って、翼の羽を一枚ずつ縁取っていく。羽の貝そのものは光らない。光の線に囲まれて、白い貝が薄暗がりに浮かび上がる。
線は蓋の縁を越えて、リュックの中の段へ降りていく。のぞき込むと、布の陰で亀の甲羅の六角形が端から順に光で囲まれていくのが見えた。藻の先まで届いたところで、光はリュックの底へ見えなくなる。
ナツメの端末の帯は、ほとんど動かない。
「光、丸」
予定表の裏に丸が一つつく。ユズが小さく拍手をして、マオが「…鶴」とつぶやいた。二層で見たときと同じ言い方だった。
六層の通路は広くて天井が高い。ライトとライトのあいだの暗がりへ、ユズの盾が先に入っていく。すれ違った大学生くらいのパーティーの一人が、ナツメのふくらんだリュックを不思議そうに振り返っていった。
ナツメの足音は、ふだんより低く響く。ときどき肩紐を親指で持ち上げて、肩に当たる位置をずらしていた。
七層の通路の角で、ナツメが手を上げる。
「上。岩ムカデ、二匹」
天井の暗がりから、灰色の長い体が垂れ下がってくる。ユズが盾を頭上に掲げて一匹目の頭を受け止める。ナツメはその場から一歩も動かずに短杖を向け、氷の筋で二匹目の脚を床に縫いとめた。私はユズの左から回り込んで、一匹目の節の継ぎ目に刃を入れる。二匹目の頭は、もうマオの矢が射抜いていた。
十秒もかからない。
ナツメの背中のリュックは、最後まで音ひとつ立てなかった。十文字の紐が段も蓋も押さえているのだろう。
八層の床は今日も濡れている。壁からにじんだ水が細い流れになって、床の溝を伝っていく。ナツメは一歩ずつ確かめるように踏んでいき、前を行くユズも歩幅を詰めていた。
広い部屋の手前で、ナツメが水を飲もうとリュックを開ける。
「…あ」
水筒の横腹に、親指の先くらいのへこみができていた。歩いているあいだじゅう、重箱の角がそこを押していたのだ。
ナツメは真っ先に重箱の角を指でなぞった。黒い漆には傷ひとつない。水筒とのあいだにタオルを畳んで挟み直してから、予定表の端に小さく「角」と書く。
「三灯原くんに言う」
「代わろうか」
声をかけると、ナツメは首を横に振る。
「最後まで同じ人が背負わないと、一日の試験にならない」
今日の道を決めたのも、ナツメだ。五層から歩いて、知っている階層だけを一日かけて回る。試すのは重箱のほうだから、と言っていた。
九層に下りると、空気が重くなる。明るいところより暗がりのほうが長く続いて、大きな切り石の壁には誰かが刻んだ模様の欠片が残っている。通路の奥から、ときどき乾いた音が聞こえてきた。去年、二匹の大蟷螂に押し込まれたのもこの階層だ。
九層の休憩所は、大部屋の脇の小さな石室だ。入口の金属の札も、誰かが持ち込んだ古いベンチが二つあるのも、去年の十一月のままだった。
壁の落書きは増えている。油性ペンの字が重なり合うあいだに、「帰ったら焼肉」がまだ残っていた。去年、ユズはこれを読んで、焼肉もいいなあと言いかけたまま黙った。
ほかのパーティーの姿はない。ナツメが腕時計を見る。
「お昼。十分」
ユズがリュックから何か引っぱり出して、ばさりと広げる。白い猫の柄のレジャーシートだ。盾のステッカーと同じ片目をつぶった猫が、いくつも並んでいる。
「持ってきた。お重だもん」
ナツメはシートと腕時計を見比べて、何も言わずにリュックを下ろした。
シートの真ん中で十文字の紐がほどかれる。ナツメは容器のふたに片手をかけたまま、もう片方の手で重箱の蓋を持ち上げた。蓋の縁を巡っていた光が、すっと消える。容器のふたも同じときに開いて、ナツメのペンが予定表の裏に時刻を書き込む。
蓋はベンチの脚に立てかけた。
一の重と二の重をシートに並べて、三の重は容器と一緒に端へ寄せる。白いおにぎりにも切ったりんごにも、誰も箸を向けない。
一の重の片側には、厚い卵焼きが切り口を上にして一列に立ててある。黄色い渦が一つずつこっちを向いていた。残りのところには、海苔を巻いた俵の形のおにぎりが二列にきっちり並んでいる。二の重には唐揚げと煮物がぎっしり詰まっていて、すき間に塩ゆでの枝豆ときゅうりの浅漬けが押し込んであった。
「つぶれてない…」
ユズが重箱をのぞき込んだまま止まった。
「いつもリュックの底で、全部ひとかたまりになってるのに」
それから割り箸を割って、顔を上げる。
「いただきます」
声をそろえて、四人で手を合わせた。迷宮の中でこれを言うのは、初めてかもしれない。
おにぎりを一つ取ると、指の下でご飯がやわらかく沈む。九層の空気はひんやりしていて、コンビニのおにぎりなら、お昼にはもう固くなりかけているころだ。
ユズは唐揚げを一つ頬張って、壁の落書きを見上げる。
「帰らなくても、おいしい」
マオは黙って卵焼きに箸を伸ばした。一口かじって、重箱をじっと見る。それから二切れ目を取る。迷宮の中のマオは、いつも同じ携帯食しか食べない。
「三灯原くん、毎日こういうの食べてるのかな」
ユズが二つ目の唐揚げを取りながら言う。
「卵焼きは、だいたい入ってる」
言ってから、しまったと思った。ユズの口の端がゆっくり持ち上がっていく。
「…なんで知ってるの」
返事をしないで、卵焼きを一切れ取った。
甘い。
教室でシンジの机の横を通ると、お弁当箱の隅で斜めに滑っているのが見える卵焼きだ。形はおばあちゃんのとよく似ているのに、甘さだけが強い。
小学生のころ、親方とおばあちゃんとシンジと四人で、お弁当を持って河原へ行ったことがある。
平たい大きな石の上に、黒い重箱が広げてあった。石は日に温まっていて、手をつくと熱い。一の重には卵焼きがぎっしり並んでいて、おばあちゃんが一切れずつ紙皿に取り分けてくれる。川の音が、ずっと足もとから聞こえていた。シンジは食べ終わるなり水際へ行って、しゃがんだまま石ばかり見ていた。
おばあちゃんの卵焼きは、ちょうどいい甘さだった。
今、口の中にあるのは親方の甘さだ。それをここまで運んできたのは、シンジの作った重箱だった。ベンチの脚に立てかけた蓋の上で、鶴の羽が休憩所のライトを一枚ずつ拾っている。少し顔を傾けると、白かった羽が青に変わる。
あの日の平たい石の上と、今日の猫のシートの上が、同じ場所みたいに思えた。
「…アイカ、どうしたの」
さっきまで笑っていたユズが、顔をのぞき込んでくる。私は残りの卵焼きを口に入れた。
「なんでもない。甘いだけ」
ナツメは腕時計を見ていた。
十分たっても、誰も箸を置かない。ナツメはまた腕時計に目を落として、それから三人の顔と重箱を順に見ていく。
ナツメは予定表を畳んだ。
去年の十一月、ナツメはこの部屋で予定表を畳んでから、もう一度開いた。今日は膝の上に置いたまま開かない。割り箸を持ち直して、煮物のれんこんを取っている。一口かじってから、「…れんこん、好き」と誰にともなく言った。
それから三十分、四人とも休憩所を出なかった。
ユズはシートの猫を数え始めて、途中で数え直して笑う。最後の唐揚げにユズとマオの箸が同時に向かって、マオが黙って二の重をユズのほうへ押す。れんこんは、結局ナツメがいちばん多く食べた。食べ終えたユズはシートの上に仰向けになって、動きたくない、と天井の継ぎ目に向かって言った。マオは立てかけた蓋の鶴をまだ眺めている。
この重箱は売り物だ。シンジが売る物は、知らない誰かのところへ行く。いつか知らない人たちが、どこかの休憩所でこれを囲むのだろう。
その人たちにも、今日みたいな三十分があればいい。
空になった二つの段は、起き上がったユズが三の重の上へ向きも見ずに重ねた。ナツメが容器のふたを閉めるのと一緒に、重箱の蓋を載せる。
鶴の頭から、また細い光が巡り始める。誰も鶴に触れ直していない。
「あ、亀がこっち来た」
ユズが自分の前の面を指さした。さっきまで向こう側にいた亀が、甲羅の六角形を光でなぞられながら、こっちを向いて泳いでいる。
ナツメは腕時計を見て、「四十分」とだけ言った。予定表は膝の上で畳まれたままだった。
午後は九層の大部屋を二つ回った。ナツメは二度リュックの口を開けて、そのたびに蓋の縁を巡る光を確かめている。
帰りは、来るときに下りた九層への階段まで戻る。踊り場の床では、帰還用のポータルの石の円が淡く光っていた。円に乗る前に、ナツメがまたリュックを下ろして鶴の頭に指を当てる。
指先は、すぐに離れた。
「吸われたの、一瞬だけ」
ナツメは端末の帯を確かめて、小さくうなずいた。四人で石の円の上に立つと、足もとの光が強くなって視界が白く塗りつぶされる。
視界が戻ると、入口の石の門の内側だった。門の外から売店の揚げ物の匂いが流れ込んでくる。管理棟を出ると、外はまだ昼の熱を残していた。どこかの木でひぐらしが鳴いている。帰りのバスを降りたところで、ナツメが肩をぐるりと回した。
工房の作業台にナツメが重箱を下ろす。紐をほどくのも本人で、シンジは向かい側に立ったまま手を出さない。最後まで同じ人が扱うのが、今日の試験だ。
シンジが作業灯を引き寄せて、三の重と容器が並んだところへ明かりを落とす。ふたが開いた。
「うわ、こっち茶色」
ユズが容器を指さす。容器のりんごは、切り口がすっかり茶色くなっていた。縁がやわらかくなって、ひと回り縮んで見える。重箱のりんごは、切り口がほんのり黄色みを帯びただけで角がまだ立っている。
容器の白いおにぎりは、表面の粒が白く濁って乾いていた。シンジが割り箸の先で押しても、へこんだまま戻らない。重箱のおにぎりは、押すとゆっくり戻ってくる。
いちばん差がはっきりしていたのは、おひたしだ。容器の青菜は色が沈んで、底に濁った汁がたまっている。シンジが鼻を近づけて、かすかに眉を寄せた。重箱の青菜も朝よりしんなりしているけれど、色はまだ緑で底の汁もわずかだった。
シンジは三つを順に見て、最後にりんごの切り口へ顔を近づけた。
「食べないよ」
ユズが先に言う。シンジは顔を上げて、ふっと笑った。
「うん。見た目だけじゃ、食べて平気かどうかまでは決められないから」
ナツメが予定表を開いて、裏の欄を読み上げていく。シンジはそれを方眼紙に書き写して、最後の補充の欄で手を止めた。
「一瞬しか吸わなかったなら、今日一日で使ったぶんはそれだけ少なかったんだと思う」
それから、ナツメの肩のほうを見る。
「一日背負って、どうだった?」
「重い。でも、一日なら背負える。気になったのは、これ」
ナツメがリュックから水筒を出して、横腹のへこみを見せる。
「重箱の角。ずっと押してた」
シンジは水筒を受け取って、へこみに親指を当てた。それから指の腹で重箱の角を確かめる。
「…袋、考える。角が何に当たっても平気なように」
方眼紙の端に、「角」と一文字書き足される。ナツメの予定表と同じ字だった。
シンジの口の端が、ほんの少し上がっている。うれしいときのシンジは、だいたいこういう顔をする。本人は、たぶん気づいていない。
試した物は、シンジがあとで捨てることになった。ナツメは空になった三の重を二つの段の下に戻して、蓋を載せる。紐を十文字に掛け直して、結び目を鶴の胸の上にそろえた。
それから両手で重箱を持ち上げて、シンジのほうへ差し出す。
「返す」
シンジも両手で受け取った。
親方は夕方から寄り合いに出かけていて、まだ戻っていない。
「三灯原くん、ごちそうさま!親方にも言っといて」
ユズが勝手口で振り返って手を振る。マオは黙って頭を下げて、ナツメは小さく片手を上げた。
三人の足音が路地を遠ざかっていく。私は作業台の端に立ったまま、帰りそびれていた。言っておきたいことが、一つだけ残っている。
窓の外はもう薄暗い。作業灯の明かりだけが、作業台の上を丸く照らしていた。シンジは重箱をその真ん中に置いて、紐の結び目に指をかける。洗う前に中を見ておくのだろう。
「…卵焼き、甘かった」
シンジの指が止まる。
「じいちゃん、砂糖多いから」
「河原の、思い出した」
シンジはしばらく何も言わなかった。作業台の端には、おばあちゃんの重箱が今も置いてある。角の擦れたところから、下の木の色がのぞいていた。シンジの目が一度だけそっちへ行く。
「…うん」
それだけ言って、シンジは紐をほどいた。巻き取った紐を作業台の端に置いて、蓋に両手をかける。
蓋が持ち上がったところで、シンジの手が止まった。
目が、重箱の上の何もないところを見ている。息まで止めているのが分かる。
「シンジ?」
返事はない。
左手首で、ころ、と石神様が小さく鳴った。
左の耳の上で草餅の匂いがする。目だけを動かすと、白い花の真ん中で、葉っぱを抱えた小さな人が立ち上がっていた。何かに気づいたように、重箱のほうへ顔を向ける。それから葉っぱを抱え直して、ぺこりと頭を下げた。
そのすぐあとで、シンジも同じほうへゆっくり頭を下げた。
私には見えない誰かに向かって、ちゃんと。
蓋を持ったシンジの手の下には、作業灯を映した朱の内側があるだけだ。それでもシンジと小さな人が同じところへ頭を下げるのなら、そこには誰かがいるのだろう。
「…はじめまして」
シンジの小さな声が、作業場に落ちた。




