第四十一話 鶴亀
昼過ぎには、また雨が降り出した。
作業台の上に新しい重箱とばあちゃんの重箱を並べる。どちらも18センチ角の三段で、外は黒、内は朱だ。ばあちゃんの重箱の黒には擦れた角があって、新しいほうの黒はまだ窓の格子しか映していない。
教本を開くと、保存の術式は一つの輪で描かれている。箱の中を一つの領域としてくるむ輪で、量産の保存箱はこれを内側の壁に刻んでいる。重箱では同じ輪を外側だけで作らなければならない。
方眼紙に重箱の外側を開いた図を描いてみた。真ん中に蓋の上の面があって、そのまわりに蓋と三つの段の側面が十字の形に並ぶ。蓋の上は手のひら二つぶんの広さしかなく、側面はどれも細長い帯だ。重ねたときには、この面すべての線が一つの網になって箱ごとくるむことになる。
その網を絵にする。
保存の箱には長く保つ物の絵がいい。方眼紙の隅に「長く保つ」と書いて、横に「長く生きる」と書き足したところで鉛筆が止まった。
鶴と亀だ。
正月の朝は、居間のちゃぶ台の真ん中にばあちゃんの重箱が置かれていた。ばあちゃんが蓋を開けると一の重には黒豆がつやつやと光っていて、じいちゃんはまず数の子に箸を伸ばした。誰が見てもすぐ分かる絵のほうが、使う人にはきっといい。
「鶴と亀かい」
後ろを通りかかったじいちゃんが、方眼紙をのぞき込んだ。
「うん。長く持つように」
「正月みたいだね」
じいちゃんはそれだけ言って、奥の作業台へ戻っていく。
鶴は空を飛ぶから、上の蓋に置く。亀は水辺を歩くから、下の三つの段に置く。
蓋には翼を広げた鶴を一羽描く。頭の赤いところに小粒の魔石を据えて、そこに触れて魔力を通す。翼の羽のあいだに線を走らせて、蓋の四つの縁へ魔力を分けていく。
三つの段の側面には水辺の亀を描く。甲羅の亀甲は六角形が並んだ模様で、六角形どうしの縁がそのまま網の目になる。甲羅のうしろには長い藻をなびかせて、藻と水の流れで三つの段をつなぐ。亀は一つの段で終わらせないつもりだった。
問題は、その線を何で引くかだ。
作業台の引き出しからガラスの小瓶を出す。腕輪の溝を埋めたときに残った、狐の根付の緒締玉の削り粉だ。黒い紙の上に出すと、灰色がかった緑の粉が作業灯の下で細かく光る。
地上では術式の効き目までは確かめられない。工房で分かるのは、線を魔力が通るかどうかだけだ。練習板の端に小さな魔石を据えて、そこから指で魔力を流して確かめることにした。
最初は腕輪のときと同じように、粉を漆に混ぜて線を引いた。乾いてから魔石に指を当てる。温もりは線に入ったところで、指一本ぶんも進まずに消えた。腕輪のやり方がそのまま使えると、どこかで思い込んでいたのだ。
粉を増やしてもう一本引いてみる。今度は線がざらついて、研ぐと粒ごと欠けて途切れた。
「漆は、粉を包んでしまうからね」
板をのぞき込んだじいちゃんが言った。腕輪の樹脂は、粉どうしが触れ合うまで詰めて固められた。漆は粒の一つ一つまで、薄い膜でくるんでしまうらしい。
図書館で借りてきた漆の本を開く。蒔絵の頁には、漆で描いた線が乾ききらないうちに上から粉を蒔く、と書いてあった。混ぜるのではなく、蒔くのだ。
細い筆で漆の線を引き、竹の筒の先に張った網から粉を落とす。筒の腹を指でとんとんと叩くたびに、粉が雨のように線の上へ降りていく。じいちゃんからは「線の漆は薄くね。厚いと縮むよ」とだけ言われた。余った粉を柔らかい刷毛で払うと、灰緑の細い帯が黒い板の上に残る。帯は筆で引いた線よりわずかに太い。
漆風呂で一晩寝かせてから、上から薄く漆を引いて粉を固めて、軽く研いだ。魔石に指を当てると、温もりは帯の端から端まで迷わずに走った。
練習板は三日で五枚になった。
次は、貝だ。
厚い貝の丸を一枚埋めた板に、左右から粉の線をつないでみる。温もりは貝の縁まで来て、そこでふっと止まった。貝そのものは、魔力を通さない。
それなら、貝のまわりを通せばいい。
貝の輪郭に沿って粉の線をぐるりと巡らせた。指を当てると、温もりは貝の手前で二手に分かれて縁をなぞり、向こう側でまた一本に戻って先へ進む。川の水が中の石をよけて分かれていくのと同じだ。
貝を二枚に増やすと、魔力は三本に分かれてまた一本に集まる。貝の数と並べ方で分かれ方が変わる。貝は魔力を止める物ではなく、魔力の通り道の形を決める物だった。亀甲の六角形も鶴の羽も、こうして線を分けたり合わせたりする場所になる。六角形を並べれば、魔力は網の目のように細かく分かれていく。箱をくるむ網には、ちょうどいい。
粉の帯と貝の縁のあいだには、どうしても段ができた。炭で研いでは指でなぞり、また研ぐ。研ぎすぎれば粉の帯が途切れ、足りなければ段が残る。螺鈿の練習で指に覚えさせた加減が、ここでもそのまま役に立った。
本番に使う魔石の粉は問屋から新しく買うことにした。帳面に魔石粉の行が一つ増えて、その下に鶴の頭に据える赤みのある小粒の魔石の行が並ぶ。届いた粉は、残り粉より青みが強い。練習に使った残りの粉は、小瓶ごと引き出しの奥へ戻した。
蓋の鶴から始めた。
方眼紙の下絵を薄紙に写し、裏から漆で線をなぞって蓋の上に伏せる。紙をはがして白い粉をはたくと、黒い面に鶴の形がうっすら浮かんだ。
鶴の体は大きめの薄い貝を三枚つないで作る。首と脚は粉の線で描いて、首の黒いところには漆の黒をそのまま残した。頭の赤いところには浅いくぼみを彫り、小粒の魔石を据える。
この魔石には、術式を動かすための魔力をためておく。身につけるペンダントなら体から絶えず受け取れるけれど、重箱はリュックに入れて運ぶ物だ。迷宮に入ったら一度触れて魔力を注いでおき、蓋を閉じているあいだは、ためた魔力を細く使い続ける。蓋を開ければ流れは止まり、閉じ直せば残った魔力でまた巡り始める。どれくらい残っているかは、触れて足したときに魔石がどれだけ吸い込むかで分かるはずだ。
羽は一枚ずつ切り出した。型で抜いた欠片を小刀で整えていくと、米粒ほどの羽から小指の爪ほどの羽まで、全部で四十枚近くになる。角度を変えるたびに、白い羽が青く光る。
一日に据えられる羽は十枚ほどだ。据えた羽は漆風呂で一晩寝かせないと動いてしまうから、翼の付け根から先へ、毎晩少しずつ羽が増えていった。羽と羽のあいだには粉の線を通し、頭の魔石から翼の先へ、そこから蓋の四つの縁へと魔力が広がるようにする。
ところが、翼の先で流れが細くなった。
図鑑の鶴の写真に合わせて、風切羽をきれいに重ねたところだった。羽が重なり合う場所では、あいだを通る粉の線が髪の毛ほどの細さになってしまう。指を当てても、温もりは翼の先までかすかにしか届かない。左の翼だけで、そこまで三日かかっていた。
羽を削って線を太くすれば、翼がやせて鶴に見えなくなる。図鑑の頁を何枚もめくって、飛び立つ鶴の写真を探した。翼を打ち下ろす直前に、羽がいちばん大きく開く一瞬がある。
風切羽を何枚か据え直して、重なりをほんのわずかずつ開いた。線の太さがそろって、魔力は翼の先まで同じ強さで届く。写真の鶴と並べても翼は不自然に見えず、今にも羽ばたきそうな形になった。
浮いてしまった羽が一枚だけあって、そこは研ぎ直した。
できあがった鶴は、白い体を黒い面に浮かべている。頭には赤い魔石が一粒あり、広げた翼の羽は、のぞく角度によって白にも青にも見える。
亀の甲羅には厚い貝を使う。層の向きを確かめながら、六角形の欠片を糸鋸で切り出していった。割れるのはもう五枚に一枚くらいになっている。厚い貝の六角形は、光の加減で緑にも桃色にも変わる。甲羅の丸みに沿って、一匹に十三枚、三匹で三十九枚の六角形を埋めていく。甲羅の縁に近い六角形ほど小さく、真ん中ほど大きく切ってある。六角形の縁をすべて粉の線でつなぐと、どの六角形の前でも魔力は分かれてまた合わさる。
頭と脚は粉の線で描いて、目には小さな貝の点を一つ置いた。
亀は一つの段に一匹ずつ、それぞれ違う面に置いた。甲羅のうしろから長い藻をなびかせ、藻は角を回って段の四つの面へ広がっていく。灰緑の粉の線は、作業灯の下で本物の藻のように揺れて見える。藻のあいだには水の流れを細い線で描き足す。どの面でも、藻と水の線が上下の縁の真ん中まで届くようにした。三匹の亀ができあがるまでに、十日かかった。
最初は、表の一面だけで段と段がつながるように接点を作った。三匹の亀が、正面に縦に並ぶ向きだ。
その晩、スイ様は作業台の上で、積んだ三つの段のまわりをゆっくり一周していた。四つの面を順に見上げて、正面に戻ってきたところで足を止める。
「其方。その箱は、いつも同じ向きに重ねるのですか?」
ばあちゃんの重箱は、向きを確かめなくても蓋がぴたりと閉まった。休憩所で十分しかない人は、亀の向きなどそろえずに重ねるだろう。回路がつながる向きが一つしかないなら、使う人に向きを覚えさせることになる。
「…そろえないと思います」
答えると、スイ様はそれ以上何も言わずに根付の上へ戻っていった。
展開図を描き直して、段の継ぎ目ごとに四つの面の真ん中へ小さな丸を付けた。継ぎ目は三つあるから、接点は全部で十二になる。四つの面の真ん中すべてに、同じ形の接点を作り直した。藻と水の線はどの面でも縁の真ん中まで届いているから、どの向きに重ねても魔力は次の段へ渡る。向きを変えれば、三匹の亀が箱のまわりで泳ぐ場所を変えるだけだ。
段の順番だけは変えられない。木地の段には一から三まで順番があって、違う順に重ねると、きっちりとは噛み合わない。
接点は段の内側に回った細い段差の、立ち上がった面に作った。粉の線を縁まで回して、漆の面と同じ高さに研ぎ出す。重ねて鶴の頭に指を当てると、温もりは翼から三つの段を回って底まで届いた。
ところが、持ち上げて重ね直すと、二の段の継ぎ目で止まった。
もう一度重ねると、今度はつながる。十回くり返して、四回止まった。接点は削れていないし、粉の帯も切れていない。
段を重ねたまま、継ぎ目に作業灯を寄せてのぞき込んだ。薄紙を一枚、継ぎ目に差し込んでみる。紙は片側にだけ、すっと入った。
木地のとき、漆の厚みのぶんだけ合わせ目を削った。塗り終えた今も、そこには紙一枚ほどのゆとりが残っている。上の段はそのぶん片側へ寄って、反対側の接点が離れていたのだ。
立ち上がった面では、触れるかどうかが段の寄り方しだいになる。脚甲の蝶番では、ばねで板を押しつけて流れを保った。重箱には、ばねの代わりになるものがある。
段そのものの重みだ。中身を詰めれば、重みはもっと増える。
接点は上の段の底が載る平らな面へ移した。重ねれば、段の重みが上から接点を押さえる。漆の面から少しも出っ張らないように研ぎ出して、粉の帯だけを漆と同じ高さにそろえた。
蓋は、段よりずっと軽い。蓋の接点だけは粉の帯を長めにとって、多少ずれても触れ合うようにした。
それから二十回、向きを変えては重ね直した。持ち上げて、回して、重ねる。そのたびに鶴の頭に指を当てて、底まで温もりが届くのを確かめる。蓋も、載せ直すたびに確かめた。一度も途切れなかった。
蓋を外すと、魔力は蓋の縁でふっと止まる。閉め直すと、また鶴の頭から巡り始めた。段を一つ抜けば、そこで止まる。接点はどれも食べ物の触れない外側にあって、内側の朱には何も足していない。
持ち運ぶときのために、工房の革の端材で細い紐を二本作った。三段と蓋をまとめて十文字に掛ければ、リュックの中で揺れても蓋は浮かないし、段もずれない。紐の留め具は、じいちゃんが真鍮の端材で小さく作ってくれた。帳面に、じいちゃんの工賃の行がまた一つ増える。
漆の養生には、それから二週間かかった。
梅雨が明けて作業場の窓から蝉の声が入るようになったころ、じいちゃんが重箱の縁に爪の先を押し当てた。漆の面に跡は残らない。
「もう、いいだろう」
八月に入って最初の土曜、二層の小さな広間で試した。
重箱には、朝のうちにじいちゃんが握ったおにぎりと切ったりんごを詰めてある。りんごは、塩水にもくぐらせていない。ふつうの保存容器にも、同じ物を同じだけ入れてきた。中身を詰めた三段は思っていたより重い。ガラス張りの管理棟を抜けて、蝉の声を背中に聞きながら階段を下りるころには、リュックの紐が肩に食い込んでいた。二層の空気はひんやりしていて、汗がゆっくり引いていく。
柱が四本の広間には、アイカたちが先に来ていた。
「三灯原くん、それ、お重?」
ユズが目を丸くする。十文字の革紐をほどくと、マオが黙って蓋の鶴をのぞき込んだ。ナツメの予定表の裏には、光が巡るかどうかを見る欄と、食べ物を比べる欄が別々に書いてある。
ナツメが探索端末で僕をパーティーに入れ、魔力の帯を出した。鶴の頭の魔石に指を当てて、魔力を通す。
鶴の頭から翼へ、細い光が走った。魔石の粉が魔力を受けて、かすかに光っているのだ。光は羽のあいだを抜けて蓋の縁から段の面へ降り、亀甲の六角形を一つずつなぞりながら、藻を伝って三の段の底まで巡っていく。帯の端が、ほんのわずかに動く。ユズが「わっ」と声を上げて、マオが小さく「…鶴」とつぶやいた。
蓋を開けると、光は縁で消えた。閉め直すと、指を当て直さなくてもまた鶴の頭から巡り始める。
ナツメが光の欄に丸を二つ付けた。
それから三時間、重箱と保存容器を広間の隅に並べて置いた。そのあいだアイカたちは柱のあいだで動きを確かめていて、僕は時々蓋の光を見に行った。何度踏み込んでも、アイカの左の耳の上の白い花はずれない。
三時間たって、二つの容器を開けた。
ふつうの容器のりんごは、切り口の縁が茶色くなりかけている。重箱のりんごは、切ったときの白さをまだ保っていた。おにぎりは、容器のほうが表面が乾いているような気もする。けれど三時間では、はっきり違うとまでは言えなかった。
「三時間で分かるのは、このくらい」
ナツメが端末に数字を打ち込みながら言った。
「長く持つかは、もっと長く置かないと分からない。次に潜るとき、一日持っていく」
「食べちゃだめ?」
ユズが重箱をのぞき込む。
「試した物は食べない」
ナツメに即答されて、ユズは肩を落とした。試した物は全部持ち帰って、捨てることにしてある。
帰る前にもう一度鶴の頭に触れて、減ったぶんを足した。ナツメの端末の帯は、三時間ぶんを足してもほとんど動かない。
「待ってるあいだは、端末で分からないくらいしか減ってない」
ナツメはそう言って、予定表の欄にもう一つ丸を付けた。
持ち上げたユズが「おっも」と言って笑った。十文字に紐を掛け直してリュックに入れ、広間をひと回り歩いてくれる。段も蓋もずれていない。ナツメが「四人で一回食べるぶんなら、ちょうどいい量」と言って、予定表に何か書き足した。それでも一日背負って歩けるかは、まだ分からない。
床に置き直した重箱の前に、アイカがしゃがんだ。
「亀、さっきと違うとこにいる」
ユズが向きを変えて重ねたらしい。
「どの向きに重ねても、つながるようにしたから」
「…ふうん」
アイカはそれだけ言って、正面に回ってきた一匹の亀の藻を指の先でたどった。
工房に戻ると、重箱の外を柔らかい布で拭いて、接点を一つずつ確かめた。漆の匂いは、もうほとんど残っていない。拭いた黒い面に、作業場の天井の明かりが細長く映った。
じいちゃんが奥の作業台から来て、蓋を取る。内側の朱を明かりにかざし、三つの段の合わせ目を順に指でなぞった。人に渡す物を確かめるときの手つきだ。最後に蓋を戻して、黙ってうなずいた。
方眼紙の隅に三時間の結果を書き写して、その下に、まだ確かめていないことを並べた。一日たっても持つかどうか。一日背負って歩けるかどうか。出品するのは、それを確かめてからだ。
作業台の上で、ばあちゃんの重箱と並べてみる。
形はよく似ている。ばあちゃんの重箱の角は擦れて、下の茶色がのぞいている。新しい重箱の角には、まだ誰の指の跡もない。蓋の鶴は翼を広げたまま、窓の光を羽に一枚ずつ受けて白から青へ色を変えている。三つの段のまわりでは、三匹の亀がそれぞれの面で藻をなびかせている。
この重箱を囲むのが誰なのか、僕は知らない。
根付の上で、スイ様がいつもより長く重箱を眺めていた。烏帽子の下の白い面が、鶴から亀へゆっくり降りていく。
「…どなたか、蓋が開くのを待っておられるようですよ」
「待ってるって、誰がですか」
「さあ。お顔までは、まだ」
スイ様はそれだけ言って、長い髪を肩のうしろへ払った。
待っている、という言い方を聞いて、なぜか正月の朝の居間を思い出した。
蓋の上では、鶴の頭の小さな赤い魔石が、夕方の光を一粒だけ拾っていた。




