第四十四話 白嶺
ハジメside
重箱が届いたのは、八月の火曜の夕方だった。
窓の外では日が傾いてもまだクマゼミが鳴きやまない。高架を電車が通るたびに、ベランダの手すりがかすかに震える。玄関で受け取った段ボールの箱には匿名配送のシールと取引番号が貼ってあるだけで、差出人の欄は空白だった。
保存の魔道具はこの一年ずっと探していた。量産の保存箱はたいてい金物で、内側の壁にまで線が刻んである。洗うたびに溝へ米粒が詰まって、楊枝でかき出すのは決まって俺の役目だった。SHINの出品を見つけたのは、その楊枝を三本折った晩だ。内側には回路も彫りもありません、という説明文の一行で手が止まった。
レンたちが来るのを待ってからテープを切った。体の大きいレンが入ると、俺の部屋はそれだけで狭くなる。ミツキは靴を脱ぐなり箱の前にしゃがみ込み、シオリはコンビニの袋から麦茶のペットボトルを四本出して冷蔵庫へしまった。
緩衝材を二重にほどくと、紺の帆布の袋が出てくる。底から両脇を通って上へ、革の帯が一本回してあった。真ん中の持ち手をつかんで引き上げると、四隅だけが手に硬い。三角に切った革が外から角に当ててある。
上の面をめくると、黒い重箱が収まっていた。細い革の紐が、三つの段と蓋を十文字にまとめている。蓋の上では白い貝の鶴が翼をいっぱいに広げていて、部屋の明かりを受けた羽が一枚ずつ白から青へ色を変える。段の側面には亀が一匹ずつ、それぞれ別の面で泳いでいる。
レンが重箱を両手で持ち上げて、思ったより軽いな、と言った。中身を詰めたら変わるよ、とシオリが返す。
「待って」
ミツキが床に膝をついて、亀の面に顔を寄せる。
「これ、絵がそのまま回路になってる。甲羅の縁も藻も全部つながってるよ。藻が縁の真ん中まで来てるのは、たぶん次の段へ渡すため」
説明文にも鶴と亀の絵が回路を兼ねていると書いてあった。それを実物で確かめるとき、ミツキの声はいつも半音上がる。
「で、これに何入れる?」
レンはもう中身の話をしている。シオリはミツキの肩越しに黒い蓋をのぞき込んで、開くのを待っている。
俺は先に箱の底に入っていた紙を広げた。
説明書は手書きだった。出品のときの説明文と同じことが、使う順に番号を振って書き直してある。字は少し右に傾いていて、一画ずつ迷いがない。掲示板では八十二歳の名工ということになっている人の字だ。添えられたメモには『ありがとうございました SHIN』とだけあった。
最後まで読んでから、もう一度頭に戻る。食べ物の安全は保証しない。何日保つかは確かめていない。迷宮の外では働かず、ふつうの弁当と同じ衛生の注意がいる。できることと同じだけの行数を使って、できないことが書いてあった。
紐をほどいて蓋を持ち上げる。
重箱の上に、小さな冠が浮かんでいた。
手のひらほどの金の輪に紅白の水引が巻いてあって、正面の結び目は祝儀袋で見るあの形をしている。輪のまわりには細い金の飾りがいくつも下がり、エアコンの風も届かないのに細かく震えている。
「ほんとに、内側に何もないね。これなら洗いやすい」
すぐ横で、シオリが朱の底をのぞき込んでいる。その目は冠を素通りしていた。
「はじめまして。この器に宿っております」
声は冠のあたりから聞こえる。高くも低くもない、ゆっくりした声だ。
「人には、歳神と呼ばれています」
神様の宿った装備の話なら、何度も聞いたことがある。うちより上のチームには依代を持っているところもある。けれど自分の持ち物に来たのは、これが初めてだった。声に出して返していいものか、一瞬だけ迷う。三人には聞こえていないはずだ。
「…御厨原です。はじめまして」
「御厨原さん。どうぞ、よろしくお願いします」
冠が会釈するように軽く傾く。
「ハジメ?誰と話してんの」
レンが眉を寄せる。三人には何も見えていない。
「神様が来てる。重箱に」
ミツキが息をのんで、それから小声で言った。
「SHINの出品は神様に好かれてるって、掲示板で…」
「どんな神様?」
シオリに聞かれて、見たままを話した。冠と水引と、下がっている金の飾り。シオリは何もない宙を見上げて、おめでたい感じだね、と言った。それから少し考えて、神様もご飯は食べるの、と聞く。
冠がくすりと笑ったように揺れる。
「お気遣いなく」
そのまま伝えると、シオリは真顔でうなずいた。
「神様の宿った物には、何か力があると聞きますが」
「私にできることは、あまり多くありませんよ」
金の飾りがしゃらりと揺れる。それ以上は聞かなかった。神様が自分から言わないことは、こちらから掘り返さないほうがいい。上のチームの連中は口をそろえてそう言う。
「作った人は、どんな方でしたか」
「丁寧な方でしたよ」
掲示板の、八十二歳の名工という話が頭にあった。皺の深い手が白い羽を一枚ずつ据えていくところが、勝手に頭に浮かんだ。
その晩、到着の連絡を一通だけ送った。神様のことは書かなかった。何と書けばいいのか、見当がつかなかったからだ。
五十階層の主に挑むのは金曜と決めてあった。
前の晩、俺の部屋に四人の装備を並べた。盾役のレンの大盾は、縁の傷を削って塗り直したばかりだ。ミツキは杖の先の魔石を布で磨き、シオリは短弓の弦を張り替えて矢羽を一本ずつ指でしごいていく。俺は槍の穂先を研ぎ直す。
キングクラブの資料はもう何度も読んでいる。甲羅は剣も矢も通しにくく、狙えるのは脚の付け根と腹の継ぎ目くらいだ。四人で組んで六年になるが、五十階層の主はまだ誰も倒していない。
それぞれの癖も分かっている。レンは仲間が下がると、つい一歩前へ出すぎる。ミツキの大きな火は撃つまでに数呼吸の溜めがいる。シオリは高い足場が好きで、そのぶん足もとを見ない。俺は三人を見ているあいだ、自分の背中が留守になる。だから互いに声を掛け合うことにしている。
勝ったら焼き肉な、とレンが言う。勝ってから言いなよ、とシオリが返して、ミツキは黙って端末に店の名前を打ち込んだ。
料理は金曜の朝五時から作った。
窓の外はまだ薄青くて、クマゼミもさすがに鳴いていない。献立を決めたのはシオリだ。おにぎりの具は梅と昆布だけにして、海苔は別に持っていく。卵焼きには中までしっかり火を通す。照り焼きのタレはよく煮詰めて、煮物も汁気を切っておく。
「マヨネーズ系は、なし。生野菜も、なし」
シオリはフライパンを振りながら指を折っていく。レンが照り焼きの端に手を伸ばして、菜箸で甲を叩かれた。俺はおにぎりを握る係で、大きすぎると二回言われた。台所に醤油と砂糖の焦げる匂いが広がって、六時を過ぎたころ、窓の外でクマゼミが一斉に鳴き始めた。
できた物から網に並べて、扇風機の風に当てる。説明書の終わりのほうに、よく冷ましてから詰めてください、とあった。
蓋を開けると、冠がまた浮かび上がる。冠は朱の上に浮かんだまま、シオリが洗ったばかりの菜箸で卵焼きを立てて詰めていく手元を黙って見ている。
保存の術式が働くのは迷宮の中だけで、それまではただの塗りの箱になる。重箱は収納袋ごと保冷バッグに入れて、保冷剤を二つ添えた。背負うのはミツキだ。
「起動も補充も、私がやりたい」
いちばん後ろを歩くミツキの背中が、四人の中でいちばん安全でもある。
大阪迷宮の管理棟は川沿いの古い倉庫街に建っている。保冷バッグを抱えたミツキが、朝から照りつける日差しの下を小走りに抜けた。ゲートをくぐると、外の熱気が嘘のように肌から引いていく。ポータルで飛べるところまで飛び、そこから先は自分たちの足で下りていく。
着いてすぐ、ミツキが保冷バッグから重箱を出して、鶴の頭の赤い魔石に指を当てて魔力を流した。
細い光の線が鶴の首から翼へ走る。羽を一枚ずつ縁取りながら、蓋の縁を越えて段の面へ降りていった。
「光ってるのは、貝の縁の線だけ。貝そのものは通してない」
ミツキは光を目で追いながら、口の中で何か数えている。起動を済ませると、重箱はまた保冷バッグへ戻した。術式だけに任せない、というのはシオリが決めたことだ。
四十階層を過ぎると、大阪迷宮の壁は湿った岩になる。足もとには浅い水が溜まっていて、潮だまりのような匂いがした。岩の割れ目には青白い苔が貼りついていて、ライトを向けるとぼんやり光り返す。明かりはめいめいの頭のライトと、ミツキの杖の灯りだけだ。
四十八階層の水路の脇で、先を歩いていたシオリが拳を上げる。
「水の中。岩蟹、四。右から二、左から二」
膝の高さほどの蟹が水を割って這い上がってくる。
「レン、前。ミツキ、右の二匹」
レンが大盾を構えて半歩出ると、蟹の鋏が盾の表で鈍い音を立てた。レンの足は動かない。盾の縁で二匹をまとめて押し込み、水際まで押し戻す。ミツキの杖から火が走って、右の二匹の脚の付け根を焼いた。俺はレンの盾の脇から槍を突き出して、甲羅と脚の継ぎ目に穂先を入れる。最後の一匹は、シオリの矢が飛び出した目を射抜いていた。
一分もかからない。レンが盾の表についた泡を手の甲で拭って、腹減った、と言った。シオリは水に落ちた矢を拾い上げ、ミツキはリュックの口を細く開けて、蓋の縁の光を確かめている。手首の端末に並んだ四本の帯は、どれもほとんど減っていなかった。
四十九階層への階段の踊り場で、ミツキがもう一度鶴の頭に触れた。
「すぐ止まった。ほとんど吸わない」
「それで何日もつかが分かるわけじゃない」
説明書にも残りの量は数字では分からないとあった。ミツキはうなずいて、端末に何か打ち込む。
五十階層の休憩所は、岩棚をくり抜いた乾いた小部屋だった。
奥の区画まではここから百歩ほどだと、資料にはある。耳を澄ますと、水の落ちる音のあいだに硬い物どうしが擦れる音がかすかに混じった。
ふだんなら、ここで銀色の袋の携帯食を破って立ったまま流し込む。ここ何年かの、五十階層の手前での俺たちの休憩だ。
休憩所の真ん中に、誰かが運び込んだ木箱が一つある。シオリがその上を布で拭いてから、重箱を置いた。ランタンを吊るすと、鶴の羽が橙色の光を拾う。蓋の縁ではまだ細い光が巡っている。
シオリが一人ずつ手にアルコールを吹きかけて回り、それから紙皿と割り箸を配る。四人は木箱を囲んで、それぞれ荷物の上に腰を下ろした。シオリが腕の端末を見て、三十分、と言う。最初からそのつもりで時間を取ってある。
紐をほどいて蓋を取ると、縁を巡っていた光がすっと消えた。冠がふわりと浮かび上がって、木箱の上で止まる。
一の重には俺の握った大きすぎるおにぎりと、切り口を上にして立てた卵焼き。二の重には照り焼きと煮物が詰まっていて、三の重には皮ごと食べられる小粒のぶどうが房のまま入っている。どれも朝、詰めたときの形のままだった。
シオリが卵焼きを一切れつまんで、匂いをかぐ。指先で照り焼きの表面に触れてから、小さくうなずいた。
「見たところ、変わりはなさそうね。いただきます」
この一言を言うために、シオリは朝から火の通し方と冷まし方を決めてある。
レンがいちばんに照り焼きを取った。かじって、黙ってもう一口かじる。
「照りが、落ちてない」
「卵焼きの切り口も、乾いてないよ」
ミツキは箸を止めて、卵焼きの断面に顔を近づけている。
「朝の五時に焼いたやつだよ、これ。量産の保存箱でも、ここまでは…」
「食べてからにしなよ」
シオリに言われて、ミツキは笑って卵焼きを口に入れた。
海苔はシオリが袋から一枚ずつ出して、食べる直前に巻く。ぱりっという音が岩の小部屋にやけに大きく響いた。照り焼きをかじると、タレの甘さのあとから生姜が追いかけてくる。ぶどうは保冷バッグに入れてきたせいか、口に入れるとまだひんやりしていた。
「腹八分目ね。このあと動くんだから」
「分かってる」
レンはそう言いながら、もう二つ目のおにぎりに手を伸ばしている。
「最初のころはさ、入口の石段に座ってシオリのおにぎり食ったよな」
「具が、おかかしかなかったころね」
「四人とも、お金なかったから」
ミツキが言うと、レンが手を叩いて笑った。
深いところへ下りるようになって、休憩は短くなった。食べる物は銀色の袋になって、黙って腹に入れるだけの物になった。いつからそうなったのか、誰もはっきりとは覚えていない。
「SHINって、ほんとに八十二歳なのかな」
ミツキが箸の先で鶴を指す。
「字は頑固そうだったけどな」
レンが言って、シオリが小さく吹き出した。
「なあ、ハジメ。なんで重箱だったんだ」
「洗いやすそうだったから」
三人がそろって笑った。
本当は、それだけでもない。この重箱を落としたのは、神様が目当てだったからじゃない。もう一度、四人で座って食べたかった。
俺は箸を持ったまま、三人の顔を順に見ていた。レンの肩からは今朝からの硬さが抜けている。ミツキはさっきから、キングクラブの話を一度もしていない。ふだんの休憩なら、シオリの指は何度も短弓の弦に触れる。それが今日は、まだ一度も触れていなかった。
「神様は、何してる?」
ミツキが小声で聞いてくる。
「見てる。…機嫌がよさそうだ」
冠の金の飾りがランタンの光の中で細かく揺れている。
「あいつの鋏さ、右のほうが」
レンが言いかけたので、食ってからにしろ、と言った。レンは肩をすくめて、煮物の大根を口に入れる。
大きすぎるおにぎりは、結局レンが人より一つ多く食べた。照り焼きはもっと甘くてもよかったかな、とシオリが言う。これでいい、とレンが即座に返した。ランタンの火が小さく揺れるたびに、四人の影が岩の壁で重なったり離れたりした。
卵焼きが一切れだけ残った。シオリが箸で四つに切り分けて、一つずつ紙皿に載せていく。誰も何も言わずに、それを食べた。
最後のぶどうを口に入れて、四人の箸がそろって止まる。
ランタンの下で、冠が重箱の上へ静かに浮かんでいる。金の飾りが小さく揺れる。休憩所に風は吹いていない。
誰も口をきかなかった。携帯食を流し込んだあとの、あの黙り方ではない。水の落ちる音が、さっきと同じ間隔で岩を叩いている。奥の区画から、また硬い物の擦れる音が届いた。レンがそっちへ顔を向けて、それから重箱へ目を戻す。
何かが変わったようには見えなかった。腹が満ちて、体が少し重くなった気がするだけだ。神様はそれきり何も言わず、俺も何も聞かなかった。
ミツキが紙皿を重ねてごみ袋に入れ、シオリがその口をきつく縛る。迷宮に食べ物の匂いを残さないのも、シオリの決まりだ。シオリは布で朱を拭いて、空になった段を重ねていく。向きは気にしていない。どれでもつながるんだって、とミツキが横から言った。
蓋を載せると、誰も触れていないのに鶴の頭からまた光が巡り始める。
冠は鶴の上で薄くなって、見えなくなった。
重箱を収納袋に戻して、ミツキのリュックに収める。リュックは四つとも、休憩所の奥の岩陰にまとめて置いていく。休憩所は区画から百歩離れていて、入口は人が一人ずつしか通れない幅しかない。あの甲羅では、ここまで入ってこられない。
四人で装備を確かめ直す。レンが大盾の持ち手を握り直し、ミツキが杖の魔石に指を当てる。シオリは矢筒の矢を数えて、最後に弦を一度だけ弾いた。俺は槍の石突きで岩の床を軽く突いた。
区画の入口をくぐると、天井が急に遠くなった。空気は休憩所より冷たく、潮の匂いに生臭さが混じっている。
広間の床の半分は、浅い水に沈んでいる。岩の柱が何本も水面から突き出していて、そのあいだに赤黒い山のようなものが沈んでいた。水面に浮いた青白い苔の光が、山の輪郭を細く縁取っている。
山が、ゆっくりと持ち上がる。
甲羅の幅は、ワゴン車ほどもある。赤黒い殻には白い棘がいくつも並び、縁には古い貝殻がこびりついている。左右の鋏は大きさがそろっていなくて、右の鋏は俺の背丈より長い。八本の脚が水を押しのけて、甲羅を横へ滑らせる。そのたびに脚の付け根の継ぎ目がわずかに開いて、また閉じた。
狙うなら、あそこだ。
「レン、正面。ミツキ、後ろの岩へ。シオリ、左の柱」
レンが大盾を構えて前へ出る。盾の陰で、短く息を吐く音がした。俺はその右に槍を構えて並ぶ。ミツキが水の届かない岩の上に立ち、シオリは柱の陰を伝って左の岩棚へ上がっていく。
棘だらけの甲羅の上で、二本の目がこちらを向いた。
右の鋏が、水を滴らせながらゆっくりと持ち上がった。




