第三十九話 八十二の名工
その朝は、雨の音で目が覚めた。
梅雨に入ってから、屋根を叩く音が一日じゅう止まない日が続いている。枕もとのスマホを取ると、取引画面に新しいメッセージが一件入っている。差出人は、エーデルワイスを落札した人だ。届いたのは、ゆうべの十一時過ぎだった。
布団の上に座り直して、最初から読む。
『エーデルワイスのペンダントトップを落札した者です。本日、娘が迷宮学習の最中に事故に遭いました。横浜迷宮の一層で、補修の資材を積んだ台車が坂を下りてきて娘にぶつかったそうです。』
台車、の二文字で目が止まる。
本日、とあるのは昨日のことだ。
続きを読むのが、少しこわい。
『教えていただいたとおり、娘は迷宮に入ってすぐに花を握っておりました。指導員の方のお話では、ぶつかった瞬間に膜が当たったところへ集まっていたそうです。台車の勢いまでは止められず、娘は床に倒れて腰を打ち、両方の手のひらを擦りむきました。病院で診ていただいたところ、骨はどこも折れていないとのことでした。』
腰の打ち身と、両手の擦り傷。
膜は台車を止めるようには作っていない。二層でユズの盾に三回目に押されたときは、僕の体も膜ごと二歩よろけた。盾よりずっと重い台車なら、小学生の体は床まで運ばれてしまう。分かっていたはずなのに、知らない女の子の腰と手のひらに今も痛みが残っているのだと思うと、画面を持つ指に力が入る。
『指導員の方は、あれがなければ打ち身では済まなかったかもしれないとおっしゃっていました。説明文に、必ず防げるものではないと書いてくださっていたことは存じております。それでも娘が打ち身と擦り傷で帰ってこられたのは、あのお花を着けていたからだと思っております。花はどこも欠けておらず、お勧めいただいた留め具も外れずにおりました。本当にありがとうございました。娘からも一言、書かせてください。』
その下に一行だけ空けて、短い文が続いている。
『お花、守ってくれてありがとうございました。』
お花、という言い方で誰が打ったのか分かる。
二度目は、その一行のところで長く止まった。
落札のメッセージを読んだとき、知らない女の子が迷宮の入口で白い花を手のひらに包むところを思い浮かべた。その子は本当に、そうしてくれたのだ。台車にぶつかるところは、一度も思い浮かべなかった。
三度目を読み終えてから、返信を打つ。
『ご連絡ありがとうございます。入口ですぐに花を握ってくださったと伺い、ほっとしました。お嬢さんの手と腰が、早く良くなりますように。強い衝撃を受けたあとですので、このあとも花の裏の線や丸カンに傷や欠けが見えましたら、お知らせください。SHIN』
膜のおかげで、とは書かなかった。膜が守れなかったぶんは、その子の手のひらに残っている。
送信してから、最後の一行にもう一度目を戻す。窓の外では、雨が同じ音で降り続いている。
その日の夕方、学校から帰って作業場に入ると、引き戸の向こうからサキさんの声がする。
「親方、これ、うちでも扱っている魔道具みたいな物でしょう?」
引き戸を開けると、表の帳場でサキさんがじいちゃんにスマホを向けている。じいちゃんは老眼鏡をかけ直して、画面に顔を近づける。ガラスの陳列棚の中では、紺色の布に載った短剣の見本が天井の明かりを鈍く返している。
僕はサキさんの肩越しに画面をのぞいた。
迷宮学習の事故を伝える記事だった。台車がぶつかったのは横浜迷宮の一層で、小学五年生の女の子が腰に打撲を負ったという。身につけていた防御膜の魔道具が衝撃を和らげたとみられる、と書いてある。魔道具は保護者がネットオークションで購入した個人製作のもので、SHINの名前はどこにも出てこない。
記事の下に、白い花の写真が一枚載っている。
胸もとで、長さのそろわない七枚の苞が広がっている。綿毛の彫りの一本一本が、ブラウスの上に細い影を落としている。顔は写っていない。
僕の花だった。
「あら」
サキさんが画面と帳場の端を見比べた。梅雨に入ってから、サキさんは鉢の置き場所を毎日のように変えている。湿気の苦手な花なのだという。今日は帳場の端の、いちばん風の通るところに戻してある。
「これ、エーデルワイスじゃない?うちのと同じ花」
心臓が一つ、大きく打った。
鉢のエーデルワイスは、三つ目の花を開いている。
「流行っているのかしらね。かわいいもの」
流行ってはいない。その花は、サキさんの鉢を見て彫ったのだ。
サキさんは指で写真を広げた。大きくなった綿毛は、画面の上でもフェルトのように見える。
僕はじいちゃんの顔を見た。じいちゃんは画面から目を離して、老眼鏡を胸ポケットにしまう。
「膜の魔道具だね。子供さんが軽い怪我で済んで、何よりだ」
お客さんの品物を見るときと同じ声だった。じいちゃんは僕のほうを見ないまま、帳面の続きを書き始める。
その晩、自分の部屋で記事の題を検索してみた。
出てくるのは記事そのものより、記事について書かれたものばかりだ。
記事の写真の横に、僕が出品のときに撮った写真が並べてある。苞の長さが一枚ずつ違うところまで同じだと、誰かが二枚の上に線を引いて示している。これはSHINのエーデルワイスだ、という書き込みがあちこちに貼り直されて広がっている。
掲示板をちゃんと読むのは、これが初めてだった。
スレッドの題に、僕のIDが入っている。女の子が無事でよかった、という書き込みが続いたあとに、推定八十二歳の名工という言葉が何度も出てくる。誰が言い出したのかは、たどってもよく分からない。うちの子にも持たせたい、という書き込みには同じ声がいくつも続いている。次の出品いつだよ、と書いている人までいた。
八十二歳の名工は、どうやら僕のことらしい。
どうして知らない人たちが、僕の作った物のことをこんなに話しているのだろう。出品の写真は誰でも見られる。それは分かっている。それでも作業灯を横から当てて撮った写真が知らない人たちの書き込みの中に何枚も貼られていると、自分の作業台をのぞき込まれているような気がする。
写真の隅には、作業台の木目が細く写り込んでいた。
記事が出て何日かたつと、店の電話がいつもより多く鳴るようになった。
その日も作業台で金具を磨いていると、引き戸の向こうからサキさんの声が聞こえてくる。
「SHINさん、ですか?」
返事までに、間が空く。
「さあ、うちでは…。ええ、はい。失礼いたします」
受話器を置く音がして、サキさんが引き戸から顔をのぞかせた。
「親方、またですよ。SHINっていう職人さんをご存じありませんかって。ほら、あのお花のペンダントの」
奥の作業台で、じいちゃんはやすりを一往復させてから手を止めた。
「出品者さんのことは、うちでは分かりません、と答えておいてくれるかい。この辺りの工房に、順番にかけているんだろうからね」
「はい。そうお答えしますね」
サキさんはうなずいてから、思い出したように付け足した。
「電話の方が言ってましたけど、八十二歳の名工なんですって。親方のお知り合いに、いらっしゃいません?」
「さあねえ」
じいちゃんはそれだけ言って、またやすりを動かし始める。サキさんは何も疑っていない顔で表へ戻っていく。引き戸が閉まると、やすりの音だけが作業場に残る。
僕の手の中で、磨きかけの金具が止まっている。
電話はそのあとも何本か続いた。たいていは記事を読んだ人で、SHINという人に会ってみたいとか、どんな人なのか知りたいとかいう話だった。帳場の電話の横のメモ用紙には、サキさんの丸い字で「SHINさん?」と書いた行がいくつも並んでいく。どの行の横にも、答え終えたしるしの小さな丸が付けてある。
子供に持たせる防御膜のペンダントを作ってもらえないか、という相談も一件あった。
その電話には、じいちゃんが自分で出た。
「出品なさった方のことは分かりかねますが、お子さんに持たせる護身の魔道具でしたら、うちでもお作りできますよ」
お客さんと話すときの声だった。じいちゃんは受話器を肩に挟んで、手もとの紙にお子さんの年と迷宮学習の日取りを書き留めていく。
僕が作れば早い、と一瞬だけ思った。でも、それではSHINが誰なのか、自分から言って回るのと同じだ。
知らない誰かが、自分の子供にも同じような物を持たせたいと思っている。正直に言えば、それはうれしかった。
土曜日の昼前、問屋のおじさんが勝手口から入ってきた。
雨合羽の肩から、しずくが土間に落ちる。抱えてきたのは、じいちゃんが頼んでいた革の束と小さな桐箱が二つだ。僕は作業台を離れて、革の束を棚まで運ぶ。雨の日の革は、晴れた日より重く感じる。
じいちゃんが受け取りの伝票に判を押していると、おじさんは合羽のフードを外しながら言った。
「そういや、こないだ妙なことを聞かれたよ」
「妙なこと?」
「岩甲虫の甲殻を一枚まるごと買っていく工房はないか、ってさ。例のSHINって職人の話でね。ほら、ニュースになった花の」
棚の前で、手が止まった。
バックラーの甲殻は、このおじさんが持ってきた中から選んだ。あの日おじさんは三枚を作業場の床に並べて、どれも上物だよと胸を張っていた。人の背中ほどもある一枚から盾の円を切り出して、残った端材で脚甲を作った。
「店に来た客でね。記者さんだか同業さんだか、名刺も出さない人だったよ」
おじさんは肩のしずくを手で払った。
「同じ人がね、暴走ボアの牙を最近どこかへ卸したか、とも聞いていったよ。牙なんて、柄だの根付だので、どこの工房でも使うのにね」
「ほかに、何か聞いていったかい」
じいちゃんが顔を上げて聞いた。
「いや、それだけだよ。帰りぎわに、うちの見本の棚をしばらく眺めていったけどね」
おじさんは伝票を胸のポケットにしまう。
「もちろん、お得意さんのことは何も話してないよ」
そう言って笑うと、おじさんはフードをかぶり直した。
「ありがとう。助かるよ」
じいちゃんは頭を下げた。おじさんが路地へ出ていくまで、勝手口の戸を押さえて見送っている。戻ってきたじいちゃんの顔は、ふだんと変わらないように見える。ただ、作業台に戻ってもしばらくやすりを手に取ろうとしない。
僕は意味もなく、棚の革の束を揃え直した。
甲殻はバックラーと脚甲の説明文に、牙はエーデルワイスの説明文に書いてある。その人は、僕の出品をいくつも読み比べてから問屋へ来たのだ。
どれも、隠すような材料ではない。甲殻もミスリル線もどこの工房でも扱っているし、エーデルワイスの牙は根付を彫ったときの端材で、もとはじいちゃんがお客さんの短剣の柄に使った残りだ。
けれど、その牙を仕入れたのもこの工房だ。出品の写真と、どこで何を仕入れたかという話を重ねていけば、いつか誰かがこの路地までたどり着くかもしれない。
勝手口の外で、雨どいからあふれた水が石を打つ音がしている。
その晩、シャッターを下ろす音が聞こえてから帳場へ行った。
三月にはまだ冷えていた板の間が、今夜は湿って足の裏に貼りつく。雨が、下ろしたシャッターを細かく叩いている。じいちゃんは老眼鏡をかけて、布張りの帳面に今日の仕入れを書き込んでいた。帳場の端では、サキさんの鉢の白い花が明かりの縁にぼんやり浮かんでいる。
僕は帳場の向かいの丸椅子に座る。
「あの子の記事、見た?」
「見たよ」
じいちゃんは鉛筆を止めずに答えた。
「うれしかったんだ。入口でちゃんと握ってくれて、骨も折れてなくて」
「握るように書いたのは、シンジだろう」
鉛筆の音は止まらない。
「でも、こんなに知らない人が話すなんて思ってなかった。店に電話まで来るし」
じいちゃんは鉛筆を置いて、老眼鏡を外した。
「いい仕事をしたんだよ。それは、喜んでいい」
低くて穏やかな、いつもと同じ声だった。喜んでいい、と言われて肩の力がようやく抜けた。
「品物を見れば、作った人の癖は分かるものだよ。職人ならね。花の形にも、線の引き方にも出る」
じいちゃんは帳面の端を指で押さえたまま続けた。
「癖は隠しようがないからね。せめて写真には、作った物のほかは何も写さないこと。下に無地の布を一枚敷いて、作業台の木目も道具の影も入らないようにね」
写真の隅の木目を思い出して、僕はうなずいた。
「それから、珍しい材料がいるときはうちの注文に混ぜて頼むよ。シンジの物だけが目立たないようにね」
「…うん」
「作るのをやめろとは言わないよ。今までどおり作ればいい」
三月に、この帳場で言われたことを思い出す。品物を買いたい人ばかりが寄ってくるとは限らない。あのときは、誰のことを言っているのか分からなかった。
問屋に甲殻と牙のことを聞きに来たのがどんな人なのか、僕は知らない。記者でも、同業の人でもおかしくない。それでも、あの人が品物を買いに来たわけではないことだけは分かる。
「あの人、また来るかな」
「さあね。来たら、そのときだよ」
それだけ言って、じいちゃんは老眼鏡をかけ直した。
「先に上がりなさい。帳面をつけてしまうから」
鉛筆の先が、また帳面の上を動き始める。
作業場へ戻る引き戸を閉める前に、一度だけ振り返った。明かりの下で、じいちゃんの背中が帳面の上に丸くかがんでいる。
帳場の明かりは、シンジが二階へ上がったあとも消えなかった。
タツヒコは今日の仕入れを書き終えると、頁を何枚か前へ戻した。
帳面の「シンジ」の頁は、一番上に孫の名前がある。問屋の名前と同じ大きさの字だ。最初の二行は、穂先に使った魔道具用の鋼材と中ランクの魔石。その下に鍛冶屋の穂先鍛造が続き、ミスリル線、岩甲虫の甲殻と行が増えていく。三月に書き足した四行は、ほかの行より字が丁寧だ。一行書くたびに、鉛筆の先を上げて確かめたからだ。そのあとに脚甲の蝶番の工賃が入り、いちばん新しいのは、エーデルワイスに銀の丸カンを付けた工賃の行だ。
どの工賃の行にも、柱の工賃表のとおりの数字が入っている。同じ職人の仕事なのに、と三月に孫は言った。だから、身内の値引きはしていない。
初めて自分の名前で品物を納めたあと、材料は自分で払いたいと親方の店で言ったことがある。親方は黙って帳面にタツヒコの名前を書き、それきりだった。去年の秋、タツヒコも黙って、この頁に孫の名前を書いた。
どの行も、タツヒコ自身の字だ。けれど、ここに並んでいるのは孫の手が作ってきた物だった。孫にとってこの頁は、払う物の一覧なのだろう。タツヒコの目には、一人の職人が一つずつ積み上げてきた仕事の跡に見える。その職人は、毎朝制服を着て学校へ出ていく。
裏表紙の内側には、三月に孫が書いた紙が二つに折って挟んである。手帳を破った紙に、頼んだ作業が一つ残らず書き出してある。ばねを強くしたことまでだ。
タツヒコはその紙を開かずに、折り目を指の腹で一度だけ押さえた。
工賃表の上には、武具整備の免許証の額が掛かっている。額のガラスが、帳場の明かりを鈍く映している。
世間では、SHINは八十を過ぎた名工ということになっているらしい。電話のあとで、サキさんが笑いながらそう話していた。脚甲の蝶番もエーデルワイスの丸カンも、この手で付けた。金具の癖まで調べる者がいれば、行き着く先はこの工房だ。
年寄りの職人だと思われているのなら、それでいい。
いつか誰かがこの路地までたどり着いて、SHINを出せと言ってきたら。
そのときは、自分が前へ出ればいい。
タツヒコは帳面を閉じて、引き出しの奥へしまった。帳場の明かりを消すと、シャッターを叩く雨の音と遅れぎみの柱時計の音だけが残った。
日曜日の朝は、久しぶりに雨がやんでいた。
作業場の窓を開けると、濡れた路地の匂いが入ってくる。軒に残ったしずくが、窓の下の敷石に間をおいて落ちている。作業台の端では、狐の根付の上にスイ様が座っている。烏帽子の下の白い面が、広げたばかりの方眼紙のほうへ向いている。
「次も、守るための物を作るのですか」
すぐには答えられなかった。
守るための物を作って、知らない子が打ち身と擦り傷で帰ってこられた。それはうれしい。けれど、次も防具でなければならないわけではないと思う。迷宮に潜る人の一日が、ほんの少し楽になる物でもいい。休憩所で広げるお弁当の時間が、楽しみになる物でもいい。
奥の作業台の端に、じいちゃんの湯のみが伏せてある。何十年も使っている厚手の焼き物で、縁の一か所だけ釉薬が薄くすり減っている。じいちゃんが毎朝、同じところに親指を当てて持つからだ。
毎日使う物には、使う人の手の跡が残る。
「…まだ、決めてないです」
スイ様は「そうですか」とだけ言って、長い袖を膝に重ね直した。
方眼紙のいちばん上の升目は、まだ白いままだった。




